リゼの欲望
リンデベルク家の客間は静かだ。
あまりに静かすぎて、自分の荒い呼吸音が耳障りに感じる。燭台の火が揺れ、壁紙の模様が卑猥に歪むたびに、ここがもう王宮ではないのだと再確認させられる。
確認したところで、私の体に染み付いたナニかが消えるわけでもないのに……。
膝の上に置いた愛剣に、手入れ油を引く。
金属に油が馴染む匂いは正直だ。誤魔化しが効かない。
私の人生もこれくらい単純ならよかった。いや、自分の欲望に正直に生きすぎたからこそ、こうして都落ちしたのか? どっちにしても笑えない話だ。
住み込みの家庭教師。あるいは護衛。新しい仕事であり、人生の再出発。
言葉だけ並べれば立派なものだ。けれど、実家の門をくぐった時の父の視線を思い出すと、今でも胃が痛くなる。
あれは戻ってきた娘を見る目じゃない。傷モノになって返された不良品を見る目だった。
その事実に目を背けはしない……。けど、剣を握っている時だけは、自分が不良品であることを忘れられる。
雇い主であるリンデベルク家は、私のやらかしの真相を知らない。
知らないからこそ、私はここで先生面をしていられる。
だからこそ、自分に言い聞かせるのだ。余計なことを考えるな、と。
だが、言い聞かせれば言い聞かせるほど、その余計なことの輪郭がくっきりしてしまうのが、私の性の悪いところだ。
リーネお嬢様。
初めて会った時の印象は、薄い硝子細工だった。触れたら割れそうで、割れたらこちらの責任になる。だから距離を取るつもりだった。
あくまで仕事であり、ビジネスライクな関係として。
ところが、今の彼女はどうだ?
初めて会った時の血色の悪い顔はすでにない。その体は健康的で瑞々しさに満ち溢れている。
鍛錬を積めば積むほどに、振られる剣は鋭くなり、魔法の練度は驚異的とも言える速度で上達し続けている。
一念発起して努力をし続ける将来有望な騎士家の娘……この屋敷に住まうものは、皆が皆そのような視線で彼女を見ている。
私は特に心を焼かれてしまったのかもしれない。
その才能に? ……それもあるが、違う。あの目だ。最初に会った時から変わらないあの目。
稽古で叩きのめされ、息を上げて砂まみれになっても、絶対に消えることがない意思のこもったあの視線。
私の心臓を直接鷲掴みにするような、芯の強い眼差しが厄介すぎる。
何より厄介なのは、私がそれに好ましい以上の感情を持ってしまうことだ。
護衛としてなら当然? 教師としてなら成長を喜ぶべき?
そんな言い訳で武装してみるが、心の拘束具――理性という鎧の隙間から、ドロリとした本音が漏れ出している。
稽古のあと。汗を拭う仕草が、ただの子供に見えない瞬間がある。
たまに発する言葉が、妙に大人びていて、私の奥の方をドキリとさせる。
その違和感を剣士としての勘だと思うことにしている。……思うことにしているだけだ。
今日も、彼女は砂まみれになって立ち上がった。
しかし、その不屈の意思と目線に些かの変化はなく、むしろ鋭さと柔軟さを兼ね備えつつある。
稽古が厳しくなればなるほどに、そのような場面に立ち会うことが多くなるのだ。そんな彼女から――目が離せない。
私は口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。ひたむきに前を向く少女を教え導く、それはとても誇らしい仕事――という感情まではいい。実に健全だ。
だが、その次に来た感情が、もっと分かりやすくて、汚くて、熱かった。
――欲しい。その心も、体も……すべて自分の物にしたい。
喉の奥に硬い塊が詰まったみたいに息が止まる。
私は剣を拭く手を止めた。
自分が怖い。私は守る側で導く側だ。そんな立場の人間が、教え子に対して抱いていい感情じゃない。思った時点で失格だ。
失格。
その言葉の手触りが、王宮の冷たい石床を脳裏に連れてくる。
あの廊下は綺麗で、冷たくて、逃げ道がなかった。私はそこから追い出されたのだ。
あれは恋だった。そう言えば聞こえはいいが、私の恋は可愛くなかったらしい。
それも当然だ。決して法で禁じられたわけではない。しかし、騎士の規範として表に出せない程度には逸脱していた。
分かっていて手を出した。分かっていて彼女もこの手を取った。
制服の下の柔らかな感触。隠れて重ねる唇の熱。スリルが媚薬だった。そしてそれが、ただつまらない火遊びとして露見しただけ。
それからだ。王宮に出入りを禁じられ、職務を解かれたのは。
あとはお決まりのコース。真実を知らぬ者たちへは口を噤み、知っている者たちへは反省したふりをする。その結果、ここまで流れてきたはずだった。
そのくせ、私は全く学んでいない。
また同じ種類の泥沼に、自分から足を突っ込もうとしている。
剣の腕だけは上がるのに、下半身の緩さはいっこうに治らない。我ながらポンコツすぎる。
リンデベルク家と私の実家には、古い縁がある。
代官家同士の繋がり。優秀な兄君たちの推薦。私はその繊細な人間関係の網の上を歩いている。
ここで私が過ちを犯せば、私一人の破滅では済まない。方々に迷惑がかかるだろう。
それなのに――私はこの綱渡りが嫌いじゃないのだ。嫌いじゃないどころか、どこかで息をするように馴染んでしまっている。
危ないと分かっているからこそ、慎重になれる。慎重になれることが、逆にバレなければいいという自分への免罪符になる。
そうやって私は、いつも一線の手前で、ギリギリのスリルを楽しんでいる。
……汚い。あまりにも汚い。それでも、どうしようもなく愉しいのだ。
剣の刀身を覗き込んだ。歪んで映る自分の顔。火が揺れるたびに表情が変わる。笑っているようにも見えるし、欲情に耐えているようにも見える。
もし、機会が来たら――そんな言葉が脳裏をよぎる。本当に、どうしようもない女だ。
来ない方がいい。来るべきじゃない。頭では分かっている。分かっているからこそ、妄想が甘く、濃くなっていく。
稽古の距離を、ほんの僅かに縮める。
指導を理由に触れる。支える手を補助と呼ぶ。
汗ばんだ彼女の背中に手を添える。転びそうな身体を抱き止める。
その瞬間、指先に伝わる体温と鼓動。どこまでが教師としての正しさで、どこからが欲望なのか。私に区別がつくだろうか?
……つかないだろうな。つかないから、怖い。怖いから、またやりたくなる。
これが私の終わり方なのだろうか? 王宮で失敗して、また別の屋敷で同じ失敗を繰り返して、今度こそ逃げ場をなくす。
そう考えるとゾッとするはずなのに、下腹の奥には疼くような熱が残る。馬鹿みたいだ。
剣を鞘に戻し、乱暴に燭台の火を吹き消した。
闇が広がると、音だけが濃密になる。
廊下の遠いきしみ。風の音。屋敷は眠っている。眠れないのは、欲求不満な私だけだ。
そしてこの渇きは、自分だけでは処理できない。
指先で弄ったところで、虚しさが募るだけだ。女性特有の柔らかさ、あの吸い付くような肌を重ねることでしか満たされないということは、あの失敗の時に経験済みだ。
私はもう、戻れない体になっているのだろうか? ……明日はグレインフォールへと初の遠乗り。余計なことを考えていては駄目。寝不足は乗馬に響く。
せめて職務には誠実でなくてはならない。それだけは最低限の矜持として守らねばならない。
私は教師で、護衛で、雇われの剣。そういう役割を呪文のように唱えて、寝台に横になる。役割という鎖で縛らなければ、私はただの獣になってしまいそうだ。
目を閉じても、リーネの立ち上がる姿が瞼の裏に焼き付いている。
汗に濡れた前髪。上気した頬。あの目が、まっすぐに私を見上げる。
そこで私は、悲鳴を上げる代わりに笑ってしまいそうになるのだ。自分の弱さと性欲が、あまりにも分かりやすすぎて。
翌朝。
客間の扉が、控えめに叩かれた。コンコン――と。遠慮がちで、けれど私という存在を求める音が聞こえてくる。
一度だけ深く深呼吸をして、表情筋を冷静な女剣士であり、剣の家庭教師の顔の形に固定する。
扉の向こうから、鈴のような声がした。ただの挨拶。いつもと同じはずの一言。
「おはようございます、リゼ先生。今日はお願いします!」
胸の奥がドクリと熱を持つ。
昨日より近い場所で、飼い慣らせない欲望が息をし始める。
機会なんて来ないかもしれない。来ないはずだ。来てはならないのだ。私はただ彼女の家庭教師としての立場から逃れることはできないはず。
それなのに、『もし来たら?』と考えて期待してしまう自分がいる。
その時、私は理性を保てるのだろうか? それとも、また全てが壊れることを承知で欲望に心を委ねてしまうのだろうか?
扉の取っ手に手を伸ばす私の指先は、まるで武者震いのように振るえていた――それが決して武者震いでないことを自覚しながら。




