リーネとしての一年
砂の匂いと、日向に干した革の匂い。
この二つを肺いっぱいに吸い込んで、今日も一日が始まる。
砂地に転がされるのも、手綱で掌の皮が剥けるのも、筋肉が悲鳴を上げるのも。
今では完全に慣れた。すでに生活の一部だ。
人間というのは恐ろしい。一年も経てば厳しい訓練の日々も、日常として最適化してしまう。
リーネとして生きることになって、最初はどうなるかと思った。
女の子になってしまったわけだからな。不安は当然あったさ。
でも、今の俺はこの体を自分のものだと認識できている。
人間関係にしても、すでに偽物だという意識はない。
俺はやっと、この世界の住人になれた……そういうことだろう。
リゼの指導は、一年経ってもブレない。
堅実にして冷徹。
剣の練度が上がるほどに要求水準も上がる。だが、そこには絶対の信頼がある。
外から見れば鬼教官だが、実際に教えを受ける俺からしたら、愛あるスパルタ教育だ。
「今日はこれで終わりです」
「分かりました。それで技はどうでしたか? それなりに使えていると思うのですが」
「上出来です。常人の三年を一年で追い抜く成果を出せていますよ」
リゼはいつもの鉄面皮だが、だんだんと彼女のことが分かって来た。
これは喜びが滲み出ている時の顔だ。
感情の発露が薄いだけで、その裏には強い情緒があることを俺は知っている。
「それは良かった。頑張ったかいがありますね」
「慢心せずに、このまま伸ばしていきましょう。そして明日は初めての遠乗りです。体を休めてください」
明日はリゼと二人で、辺都グレインフォールまで遠征する。
これは初めて屋敷の外へ本格的に出る遠乗りだ。高速道路を使っての小旅行を思い出すぜ。
この一年はずっと屋敷に籠って、ひたすら自分という資本を鍛え続けてきた。
いわば、明日はこの世界への第一歩を踏み出す日と言っても過言ではない。
ずいぶんと時間が掛かってしまった気もするが、急がば回れ。基礎工事を疎かにしたビルは倒れるからな。
「クララ。今日はお湯を多めに用意してほしい」
「畏まりました。お時間を頂きますが、お部屋に用意しておきます」
「お願い」
クララの表情も変わった。
過剰なまでの心配そうな視線は、もうない。
彼女もリーネが変わったという事実を受け入れ、適度な距離感でサポートしてくれるようになった。
甘えようと思えばいくらでも甘えられるが、それはもう卒業だ。
これから自立しようって考えるのが今だ。だとするなら線引きは必要だからな。
お湯ができるまでの間、道具のメンテナンスをする。
場所は訓練場に併設された小屋で、整備道具などが置いてある。
木剣のささくれを削り、油を塗る。ただの木の棒だが、一年も握り続ければ愛着もわく。
道具を大事にしない職人は三流と良く言うが、それは剣士も同じだろう。
「リーネお嬢様。準備ができました」
クララが整備をする俺に声をかけた。ちょうど良く整備も終わりだ。
自室へ戻ると、そこには大きな楕円形の桶にお湯が張られていた。
この世界で湯船は贅沢の極みだ。
だが、俺はどうしても日本人の風呂文化が捨てられなかった。
これは両親にねだり倒して実現した特注の木桶だ。普段はストイックに鍛錬ばかりしている娘の、数少ない可愛げのある我儘として受理された物だった。
「ふぁー……生き返るねぇ」
桶の中に胡坐をかき、お湯を手ですくい肩にまでかける。
そして桶の中に寝ころんだ。こうするとぎりぎりで体全体をお湯に沈めることができる。
……極楽だ。リラックスすると、様々な記憶が泡のように浮かんでくる。
父、アルベルトとの稽古。
最初は型。次に間合い。最近は、足元をすくうような泥臭い実戦形式も増えてきた。
木剣がぶつかる重い音。鍔迫り合いの重さと主導権争い。実戦で起こり得る剣の使い方の数々。
実戦経験者の父にとってはお遊びだろうが、俺にとっては覚えておきたい戦いの呼吸そのものだった。
リゼとは違うタイプの剣士と剣を合わせるのは、経験値としてデカい。
母、エレオノーラの魔法教室。
残念ながら、俺に攻撃魔法の才能はなかった。
派手な爆裂魔法とか撃ってみたかったが、無い袖は振れない。
代わりに、生活に使える程度の魔法は習得できた。
ライター程度の着火。これが地味に便利だ。サバイバルじゃ火種が命だからな。
春の日差し、夏の汗、秋の実り、冬の雪。
本来なら部屋の窓から眺めるだけだった景色を、この体で、肌で感じた一年。
あの病弱令嬢の記憶は、もう過去のデータに過ぎない。
湯から上がり、髪を拭き終えて下着を身に着ける。
夕食まで、あと少し。
ふと、部屋にある姿見が目に入った。
そこには、湯上がりの火照った肌を桃色に染めた、キャミソール一枚の少女がいた。
うーむ……育ったなぁ。
実によく育った。我ながら惚れ惚れするような仕上がりだ。
鏡の中にいるリーネは、最初見た時のような瘦せぎすとは別人だ。
肩紐の頼りない細さが、逆に肉体の輪郭を際立たせている。
濡れた銀髪が白い肩に張り付き、鎖骨のくぼみに真珠のような水滴が光る。
腕を上げてみる。それは細い女の腕だが、折れそうな脆さはない。力を入れればうっすらと、しかし確実にしなやかな筋が浮かび上がる。
肋骨が浮いて痛々しかった脇腹にも、今は極上のクッションのような柔らかな肉が乗っている。
腰のくびれから、骨盤へかけてのライン。
きゅっと締まって、そこから滑らかに広がる曲線美。
足首も、余分な力が抜けて洗練された機能美がある。
そして当然胸も育っている。鷲掴みして遊べるくらいの俺好みの大きさだ。
――なんて、健康的な色気だ。
いやらしいという意味じゃない。
いや、まあ、いやらしさでも満点だが、それ以上に作品としての完成度が高い。
生命力という名の芸術だ。
「これが俺のものなんだから、実にたまらんね」
鏡の中のリーネ――つまり、俺。
そいつが、少しだけ誇らしげに胸を張っていた。
ニヤついたその顔には、確かな自信がみなぎっている。
さらに自己評価を続けようとしたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
このリズムはクララだ。夕食の時間か。
「さて、馬鹿なことは考えずに飯にしようか。肉が食いたいけど、今日は何かな」
軽く頬を叩き、気分を一新。キャミソールの上から服を着ていく。
女物の服を着ることにも、もう抵抗感はない。
こうやって人間ってのは適応していくんだろうな。
何故かそんなことを、妙に感慨深く思うのだった。
夕食が終わり、自由時間。
魔法の訓練は自主練となり、それは済ませた。
だから、明日に備えてゆったりと過ごす。
明日は初めての遠乗り。辺都グレインフォールへの視察旅行。
これまでの庭先や近所の散歩とは違う、本物の外の世界だ。
胸が高鳴る。冒険心と、一抹の不安。
日課であるお楽しみタイムはどうしよう?
一発やってリラックスするか……と考え、ムラムラが湧いてきた瞬間、脳裏に浮かんだのはリーネの日記だった。
オリジナルのリーネが行ったという『魂交換』の魔法。
明日の外出を前に、もう一度だけ研究内容を確認しておくべきか。
「……『冷却』」
精神操作で性欲を強制シャットダウンし、賢者モードで机に向かう。
引き出しを開けて、日記を取り出す。
「結局のところ、分かったことは少ないんだよな」
中には、たくさんの魔法研究のメモ。
だが今必要なのはそれじゃない。リーネの遺した日記と、その解読メモだ。
それらを見比べながら、解読メモをめくる手が止まる。
――魂交換についての考察。
これだ。日記に書かれていない。『魂交換』についての考察の記録。
これを見返す実利的な意味は、正直言って薄い。
ただ……。今の生活、この人生――その区切り。
今、始まりについて考えるのは、悪くない儀式だと思った。




