朝起きたら
天蓋つきのベッド。
このふざけた代物は、間違いなく人間を堕落させるために開発された魔道具だ。
意識が浮上した瞬間、背中を襲ったのは暴力的なまでの柔らかさだった。
俺が長年連れ添った、煎餅布団とは次元が違う。身体の重さを溶かし、骨の髄まで甘やかすような包容力がそこにはあった。
鼻腔をくすぐるのは、安っぽい芳香剤じゃない。高級な香油と、日向に干した最高級リネンの香りだ。
「……なんだこれ。天国か?」
寝ぼけた頭で、無理やり瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、無駄に精緻な金のレリーフと、純白のレース。
窓の外からは、澄んだ朝の光が差し込んでいる。
明らかに俺の部屋ではない。なら誘拐か? それとも新手のドッキリか?
だが、そんなことをする意味が分からない。どこにでもいる中年に差し掛かりそうなおっさんだぞ俺は?
そこまで考えて強烈な違和感に気づく。何かがおかしい。
無意識に俺は右手を目の前に掲げた。その瞬間――思考がフリーズする。
そこにあったのは、白磁の工芸品だった。
というのは大袈裟だが、そう言いたくなるような手がそこにはあった。
関節のゴツさは皆無で、指は長くて細い。爪は桜貝のように淡く磨き上げられている。
俺の記憶にある、仕事疲れでささくれ立ちタコだらけだったおっさんの手は、どこにもない。
何だこれは!? ――背筋に冷たいものが走る。
パニックになりそうな脳みそを叱咤し、ガバッと上体を起こす。
視線は自然と、自分の身体へスライドする。
シルクの寝間着越しでも分かる、折れそうなほど華奢なボディライン。くびれすぎている腰回り。
そして何より――視界を遮るように存在する胸の膨らみ。
ある。物理的な質量が、そこにある。
呼吸をするたびに胸が上下するのは当然だとしても、男であるならあり得ない布地を押し上げる柔らかい重量感。
俺の平坦だった胸板は、どういうわけか脂肪の塊へと変貌している。
そのくせ、腹回りの肉はごっそり削ぎ落とされているのだ。まるで分けが分からない。
だが、すでに予想できることがある。そして体の違和感もすでに検知している。
恐る恐る、股下へ手を伸ばす。
ない――俺の相棒が、跡形もなく消滅している。
代わりに感じるのは、太もも同士がぴったりと吸い付くような、スースーとした頼りない感覚だけ。
股を閉じると、柔らかな肉がむにゅりと触れ合う感触が、脳髄にダイレクトに響く。
「……嘘だろ」
口をついて出たのは、脳が溶けそうな美少女ボイスだった。
鈴を転がすような高音。自分の声帯が震えているのに、聞こえてくるのは完全に他人の声だ。
悪趣味な夢だ。早く覚めろ! いや待て! 夢であるのなら楽しむだけ楽しんで、それから目が覚めればいい!
そこまで考えて反射的にシーツを跳ね除け、ベッドから転がり出ようとした。
しかし――。
「痛っ……ぅ」
無様に床へ倒れ込む。
重心が違う。骨盤の位置も、筋肉の付き方も、俺のボディイメージと完全にズレている。まるでサイズの合わない着ぐるみを着て、平均台を歩かされている気分だ。
しかも、衝撃がダイレクトに響く。皮膚が薄いのか、涙腺が緩いのか、ちょっとぶつけただけで涙が出そうになる。
なんだこの虚弱ボディは。スペ〇ンカーかよ。
この時点で夢ではないことがほぼ確定。それなら状況を確認するため、しなければならないことがある。
這うようにして、部屋の隅にある姿見の前へ辿り着いた。
そこに映っていたのは――息を呑むほどの美少女だった。
月光を紡いだような銀の長髪。肌は透けるほど白く、病的なまでに儚い――というか見たまんま病的で、あまり健康そうには見えない。
大きな瞳は色素が薄く、無機質なガラス細工のようだ。銀色の瞳? こんな宝石のような目は初めて見た。
俺は鏡に向かって、呆然と口を開けていることに気づく。それは鏡の中の少女も同じだ。艶めかしい唇を半開きにしてマヌケ面を晒す。
……可愛い。いや、可愛いすぎて引くレベルだ。
課金ガチャで言えば、間違いなくSSR。肉感で言うなら好みではないが、そんな些細なことを吹き飛ばすだけの美貌があった。
だが、問題はそこじゃない。俺は震える手で、自分の胸に触れてみた。
とぷん、と指が沈む。
水風船のような弾力が指を押し返し、同時に、敏感すぎる皮膚感覚が脳へ電流を走らせる。
「ひっ……!?」
変な声が出た!
自分で触っているのに、他人に悪戯されているようなゾワゾワ感が背骨を駆け上がる。
マジかよ! 中身はおっさん、外見は美少女。いわゆるTS転生とか憑依ってやつで、俺の性癖に完璧にストライク!
妄想の上では何回もそういう想像はしたけど、まさか現実になってしまうとは……。
だが、余りの出来事に興奮する余裕なんてまるでない。というかここはどこで、この少女は誰なんだ? 情報の少なさに吐き気がしてくる。
部屋を見渡すと、書き物机の上に革装丁の日記を見つけた。
この状況を説明するためのヒントになればと思い机に向かう。
ふらつく足取りで椅子に座る。尻の肉が薄いから、クッションに沈む感覚すら違和感しかない。
日記を開くとそこには『リーネ・リンデベルク』と書かれていた。
どうやらこれが、このボディの元の持ち主の名前らしい。インクの匂いが微かに漂う。几帳面で繊細な文字だ。
初めて見る読めないはずの文字を理解できるという点を無視して、中身を流し読みする。
内容は、緩やかな監獄の記録と言ったところか。
要約すると『ここは監獄』とか、『兄様たちは完璧』とか、『私はいらない失敗作』なんてことが多く書き込まれている。
典型的な愛に飢えたメンヘラ令嬢の愚痴日記だ。
過保護という名の檻。無菌室で飼育される愛玩動物の記録。自由や尊厳という、自己肯定感に繋がる記述はどこにもない。
そして最後の数ページ。
文字が乱れ、筆圧が強くなり、インクの染みが点々と落ちている。
そこには、狂気じみた焦燥が書き殴られていた。
『魂交換の秘術を行う。誰でもいい、私をここから連れ出して』
は? ……は? 何これ?
思わず日記を取り落としそうになり、慌てて持ち直す。
つまりこういうことか? このリーネとかいう小娘、人生に絶望して秘術を使い、俺を無理やりこの体に引きずり込んだのか?
で、自分は俺の体へと逃げ込み、この過保護の監獄からドロンしたと?
「……ふざけんなよ」
低い声で毒づこうとしたが、喉から出たのは、拗ねた子供のような甘ったるい声だった。
美少女にTSできたとはいえ、こんなの許容できるか? 最低限の自由すらない生活なら、俺の人生を続けるほうが断然いいに決まっている!
というかここはコテコテのファンタジー世界っぽいんだよな。となるとゲームやネットなどの娯楽なんてあるはずがない。そんな世界を俺は楽しめるのか?
俺は自分の胸元を強く掴んだ。柔らかな胸の奥で、心臓が早鐘を打っている。
畜生が! この身体、ストレス耐性が低すぎる。冷や汗が背中を伝う感触が、ひどく不快だ。
その時――。
コンコン、と無機質なノック音が響いた。
ビクリと肩が跳ね、同時に日記に出てきた名前が脳裏をよぎる。
それは『クララ』。この部屋の管理者であり、リーネの世話役で、つまりは看守だ。
「リーネお嬢様。起きていらっしゃいますか?」
声は穏やかだが、有無を言わせない圧がある。少なくとも今はそう感じる。
ヤバい。今の俺には、リーネの記憶も振る舞いもインストールされていない。ただの中身の違う不審者だ。
ここで中身が別人だとバレたらどうなる? 別人だと判定できる何かがこの世界にあったらどうなる?
悪霊憑きとして処分か? あるいは、精神病院の閉鎖病棟行きか? 中世とか近世の世界なら、座敷牢にぶち込まれるとかか?
俺は大きく息を吸い込んだ。
肺活量が少なすぎて、酸素が足りない。貧血で倒れそうだ。
落ち着け。TSを堪能するどころの話じゃない。まずは生き残らなきゃならない。
今から始まるのは、失敗したら何が起こるか分からない病弱令嬢ロールプレイだ。
「……起きてる」
意識して、声を細く、弱々しく作る。
これでいいのか? 正解が分からない。
「では、お入りいたします」
ガチャリ、と重い金属音がして、ノブが回る。
ゆっくりと開く扉の隙間。そこから覗く視線に、俺は冷や汗を流しながら身構えた。
頼む、チョロい相手であってくれ……!




