二話 回想
洞窟を拠点として周辺の魔物を狩り続け、ついにその姿を一匹たりとも見かけなくなった頃、勇者カイルは三日間の休養を提案した。
異を唱える者はいなかった。
魔王城へ近づくにつれて、敵の数も質も明らかに変わってきている。遭遇する魔物は以前より獰猛で、群れを率いる個体も増えた。さらに、魔王城周辺には魔物たちを統べる“魔貴族”と呼ばれる存在がいると、そんな話まで耳にした。
けれど、不思議と恐れはなかった。
むしろ、胸の奥は熱を帯びていた。
村を焼き、家族を、日常を奪った者へ、確実に近づいている。
その実感が、俺の中で燻り続けていた憎しみに火を入れる。
一太刀でいい。
あいつらに報いをくれてやる。
その思いを押し込めるように、俺は黙々と手を動かした。皆の剣や鎧、杖の手入れをし、使い終えた道具を点検し、荷をまとめて袋へ詰めていく。気を抜けば胸の内が顔に出そうだったから、こうして働いている方が都合がよかった。
「アルト、私も手伝う」
荷物を抱えようとしたエリシアを、カイルが軽く手で制した。
「やめておけ。アルトの仕事を奪うな」
冗談めいた口調だったが、そこには妙な気遣いも滲んでいた。エリシアは少しだけ唇を尖らせたものの、素直に手を引っ込める。
一通り支度を終えると、王国へ戻るのに時間はかからなかった。
魔法使いセレスが静かに詠唱を始める。低く澄んだ声が洞窟の空気を震わせ、次の瞬間、視界が白く弾けた。
瞬きをした時には、もう俺たちは王都にいた。
目の前にあるのは、勇者カイルの屋敷。その見慣れぬ立派な門構えを見上げるたび、自分がまだ場違いな場所にいる気がしてならない。
「三日後、ここに集合だ」
そう言い残し、カイルは王への報告のため、すぐに屋敷を後にした。迷いのない背中だった。ああいうところが、勇者なのだろう。
入れ替わるように、戦士ガレスが大剣を背負い直し、大きく肩を回す。
「飲むぞー!」
晴れやかな笑顔で叫び、そのまま外へ飛び出していこうとした、その時だった。
「いたっ!」
小さな悲鳴に振り返ると、僧侶ソフィアが床に膝をついていた。どうやら裾を踏んで転んだらしい。
ガレスは腹の底から笑いながら歩み寄ると、まるで子どもを抱き上げるみたいに、軽々と彼女を持ち上げた。
「なんだ、ソフィア。そんなに急いで?俺と飲みたかったのか?」
ソフィアの頬はみるみる赤くなる。
うつむいたまま小さく頷いた。
「よし、決まりだ!」
ガレスは上機嫌のまま、ソフィアを抱えたまま駆け出していった。
嵐みたいな二人を見送った後、静かに声をかけたのはセレスだった。
「エリシア」
その一言で、エリシアの背筋がぴんと伸びる。
「はい、先生」
その返事を聞いた瞬間、俺の脳裏に、何故かあの日のことがよみがえった。
村から逃げ出した、あの時のことを。
俺とエリシアは、燃え落ちる家々の間を必死に駆け、ただ生き残ることだけを考えて王都を目指した。足はもつれ、喉は焼けるように乾き、それでも止まれば死ぬ気がして、振り返ることもできなかった。
どれほど歩いたのかも覚えていない。
気づけば、俺たちは王都の門の前に倒れ込むように辿り着いていた。
門番の衛兵に、村が魔物に襲われたことを伝えると、そのうちの一人は顔色を変え、すぐさま城へ向かって駆けていった。残された衛兵たちは、俺たちをただの子どもとして扱わなかった。服にこびりついた煤、震える声、怯えきった目。
それだけで、何が起きたのか察したのだろう。
しばらくして、俺たちは王城の中へ通された。
案内されたのは、豪奢というよりは簡素な控室だった。けれど、焼け跡と血の匂いの中から逃げてきた俺には、そこが別世界のように感じられた。
椅子に座らされ、温かい飲み物を出され、それから問いかけられた。
何を見たのか。
どこから魔物が現れたのか。
村にいたのは何人だったのか。
俺は、知っていることを全部話した。
話せば話すほど、あの光景は鮮明になった。
炎に呑まれる家。響き続ける悲鳴。血の匂い。焼けた木の爆ぜる音。助けを呼ぶ声。間に合わなかった背中。
数日間同じ質問をされたが、同じ事を話し続けた。
その後まもなくして、俺たちには王命が下った。
それが本当に俺たちのための沙汰だったのか。
あるいは、村を失った民に向けて、王国が慈悲を示すための見せ札だったのか。
今となっては、もうわからない。
魔物に村を焼かれ、生き残った子どもたちを王国が保護する。
その事実を公に示すことは、不安に揺れる人々の心を鎮めるには都合がよかったのかもしれない。
けれど、理由が何であれ、俺たちは救われた。
十五歳だった俺は一般学院の中等部へ。
十六歳だったエリシアは、魔術学院の高等部へ。
住まいは学生寮になると決まり、それまでの間は王城で働く者たちの部屋を借りて暮らすことになった。
生活費まで支給された。
昨日まで、明日を迎えられるかどうかすらわからなかった俺たちにとって、それはあまりにも大きすぎる施しだった。
だが、その金を、ただありがたがって使う気にはなれなかった。
寮に入る前の日、俺とエリシアは王都の貴金属店を訪れた。
陽光を受けて金も銀もまばゆく輝く店内で、俺たちが選んだのは、ひどく簡素な指輪だった。
飾り気はない。
宝石もついていない。
俺は父さんと母さんの名を。
エリシアは父親、母親、そして妹アンリの名を。
それぞれ指輪の内側に刻んでもらった。
店を出たあと、俺たちは人通りの少ない路地に入った。
王都は明るかった。
平穏で、賑やかで、温かかった。
あの日の村とは、あまりにも違っていた。
だからこそ、その光の中に立つ自分たちだけが、まるで別の場所から切り離されてきた異物のようにも思えた。
俺たちは黙って指輪を、それぞれ左手人差し指にはめた。
「忘れないために」
先に口を開いたのは、エリシアだった。
声は震えていなかった。
泣いてもいなかった。
けれど、その瞳の奥には、あの日から一度も絶えたことのない炎が、静かに燃え続けていた。
「ああ」
俺も頷いた。
「必ず、敵を討つ」
「絶対に」
短い言葉だった。
けれどそれは願いではなかった。
祈りでもなかった。
もっと固い誓いだった。
俺たちは生き残った。
ならば、生きるだけで終わるわけにはいかなかった。
奪われたものの分まで前へ進み、その果てで必ず、奪った側に報いを受けさせる。
その約束だけを胸に、俺たちはそれぞれの学院へ進んだ。
学院での日々は穏やかだった。
少なくとも、外から見ればそう見えただろう。
俺は一般教養を学びながら、放課後は剣術道場へ通った。
剣士クロードの道場だった。
すでに世界に名を轟かせていた男のもとには、王都中から、いや各地から、腕に覚えのある者たちが集まっていた。
貴族の子弟。
騎士を志す者。
名を上げたい者。
誰もが強さに飢え、目をぎらつかせていた。
その中で、俺はどうしようもなく場違いだった。
体格に恵まれているわけでもない。
才があるわけでもない。
剣だって鈍い。
何をやっても遅れた。
打ち込めば弾かれ、踏み込めば転ばされる。
「また来たのか」
「懲りないな、お前」
「剣より雑巾の方が似合ってるぞ」
そんな言葉を、何度浴びせられたかわからない。
悔しかった。
腹が立った。
情けなかった。
何度も、逃げ出したくなった。
それでも、やめなかった。
やめた瞬間、そこで全部終わってしまう気がしたからだ。
もう二度と、あの日から先へ進めなくなる気がしたからだ。
強くならなければならなかった。
何が何でも、強く。
だが、現実は残酷だった。
クロードは俺のことなど見ていなかった。
大勢いる門弟の一人ですらない。
道場の端で木剣を振っている、出来の悪い雑魚。
それが俺だった。
名前を呼ばれた記憶もない。
木剣を交えてもらったことすらなかった。
それでも俺は毎日通った。
誰よりも遅くまで素振りを続けた。
手の皮が破れ、血が滲み、腕が上がらなくなっても、木剣だけは振り続けた。
才能がないのなら、せめて、しがみつくしかなかった。
一方、エリシアは違った。
魔術学院へ入学した彼女の前にいたのは、セレスだった。
当時すでに大陸屈指の魔法使いとして名高かったその人は、エリシアの魔力を見た瞬間、何かを見抜いたのだと思う。
ほどなくしてセレスは、授業とは別に、個人的にエリシアへ魔法を教えるようになった。
エリシアには才能があった。
それも、誰の目にも明らかなほどの。
火も、水も、風も、光も。
教わったものを、彼女は驚くほどの速さで吸収していった。
まるで最初から、その力の在り処を知っていたかのように。
もちろん、それで何もかも順風満帆だったわけじゃない。
期待されることの重さもあっただろう。
見えない場所で、ひとり耐えなければならない孤独もあったはずだ。
けれどエリシアは、俺の前で弱音を吐いたことがなかった。
ただ静かに、まっすぐ前を見ていた。
俺たちは学院こそ別だったが、休みの日には顔を合わせた。
近況を話し、時には食事をし、ふと互いの指輪が目に入れば、それだけで言葉にしなくても胸の内が通じた。
そして、三年が過ぎた。
俺が十八歳になった頃、俺は高等部へ進んでいた。
剣術は...相変わらずだった。
ほんの少しはましになったのかもしれない。
少なくとも、最初の頃のように一撃で転ぶことは減った。
けれど、強くなったかと問われれば、胸は張れなかった。
胸を張っていいほどの何かを、自分の中に見つけることができなかった。
それでも、一つだけ変わったことがある。
ある日、稽古の終わり際。
クロードがふいに俺を見て、こう言ったのだ。
「アルト、だったか?」
たった、それだけだった。
それだけ。
ただ名前を呼ばれただけだ。
けれど、その夜、俺はほとんど眠れなかった。
ようやく石ころ程度には目に入ったのだと、そう思えた。
ずっと地面に転がっていた自分が、ほんの少しだけ、誰かの視界に引っかかったような気がした。
一方でエリシアは十九歳になり、魔術学院高等部を卒業していた。
卒業後はそのままセレスの助手として学院に残り、後進の指導にも関わるようになっていた。
俺とは、もう立っている場所が違う。
そう感じることもあった。
事実、きっとそうだったのだと思う。
けれど、エリシアは何一つ変わらなかった。
俺を見る目も、話し方も、あの日、路地裏で指輪を交わした時のままだった。
転機が訪れたのは、その頃だった。
王が、勇者カイル、僧侶ソフィア、戦士ガレス、魔法使いセレス、そして剣士クロードを城へ召し上げたのだ。
誰もが名を知る英雄たち。
国を代表する力を持つ者たち。
王は彼らに、国の全面支援による魔王討伐を命じた。
その場で意外なことを言い出したのはセレスだった。
エリシアを同行させてほしい、と。
まだ若い。
経験も浅い。
本来なら、そんな任務に連れて行くべきではない。
それでもセレスは譲らなかった。
エリシアはいずれ自分を超える素質を持つ。
この先の戦いで、必ず必要になる。
だから今ここで、実戦を経験させるべきだと、そう言った。
その言葉を受け、エリシアは王の前へ呼ばれた。
だが、話を聞いた彼女が最初に口にしたのは、自分の栄誉でも覚悟でもなかった。
「アルトという同郷の者も一緒なら」
その言葉に、勇者カイルは即座に首を横に振った。
「駄目だ」
当然だったと思う。
俺は弱かった。
魔王討伐などという場所に立てるような力はない。
そんなことは、自分が一番よくわかっていた。
けれど、エリシアは引かなかった。
「アルトが行けないなら、私も行きません」
静かな声だった。
だが、その静けさの奥にあるものは、刃のように硬かった。
場の空気が張り詰める。
ソフィアは息を呑み、ガレスは目を丸くし、クロードは無言で腕を組んでいた。
その沈黙を破ったのも、やはりセレスだった。
エリシアは必要だ、と。
彼女の力は、今後必ず要る、と。
そして、アルトが戦力にならないとしても、雑用係として同行させる程度なら支障はない、と。
最後に折れたのはカイルだった。
「雑用ならな」
その一言で決まった。
王には、エリシアと俺を含めた体制で出立すると伝えられた。
後日、エリシアが俺を連れて、カイルの屋敷を訪れた。
屋敷に集められた面々を前に、俺は息を呑んだ。
勇者。
聖職者。
豪腕の戦士。
大魔法使い。
そして、世界最強の剣士。
幼い頃、物語の中でしか知らなかった英雄たちが、同じ空間に立っている。
その中でカイルは、まるで確認事項を読み上げるかのように言った。
「君は雑用を頼む」
その言葉を聞いて、俺は嬉しかった。
情けないほど、嬉しかった。
強い仲間として認められたわけじゃない。
戦力として期待されたわけでもない。
荷運びでも、炊事でも、掃除でも、何でもよかった。
それでも、行ける。
あの場所へ近づける。
村を襲った者たちへ、刃の届くところまで行ける。
「やります」
即答だった。
「何でもやります」
その時、クロードがわずかに目を見開いたのを覚えている。
きっと驚いたのだろう。
道場の隅でいつまでも燻っていた弱い男が、こんな場所にいることに。
しかも、魔王討伐の一行に加わることに。
たぶん、彼は思ったはずだ。
こいつは死ぬ、と。
それでも王命である以上、表立って反対はできなかった。
ただ、あの時のクロードの目だけは、今でも忘れられない。
冷たいようでいて、その実、苦いものを飲み込んだような目だった。
後になって思えば、あの人はあの人なりに決めていたのだろう。
せめて自分の手で鍛え、最低限、自分の命くらいは守れるようにしてやる、と。
もちろん、その時の俺はそんなこと知らなかった。
ただ、復讐の時が来たのだと、それだけで胸がいっぱいだった。
旅立ちの日。
荷を背負った俺は屋敷の前に立ち、そっと人差し指の指輪に触れた。
父さん。
母さん。
心の中で、その名を呼ぶ。
視線を上げると、少し離れた場所でエリシアもまた、自分の指輪に触れていた。
何も言葉は交わさなかった。
けれど、わかっていた。
あの日の誓いは、まだ終わっていない。
むしろ、ここから始まりと。
◇
エリシアは、セレスの屋敷に行く事になった。
エリシアは、笑顔で手を振った瞬間にセレスと共に姿を消した。
クロードが口を開く。
「休むか?稽古するか?どっちだ?」
俺は、頭を下げ、
「クロード様、どうか稽古を」
クロードは、少し鼻で笑うと
「才はないが、その心意気は認めよう。才なき者が努力で才ある者を打ち負かすこともある」
それだけ言うと、黙って歩き出した。
俺は驚いたが、クロードのその言葉に心が躍っていた。




