一話
夜、村が、燃えていた。
空は赤く染まり、土の匂いに混じって、鼻を刺すような焦げた臭いが広がっている。
見慣れた家々は炎に呑まれ、聞き慣れたはずの人々の声は、悲鳴へと変わっていた。
「母さん!父さん!」
アルトは息を切らしながら、崩れかけた家々のあいだを走った。
喉が痛い。煙を吸い込みすぎて、何度も咳がこみ上げる。それでも足は止められなかった。
さっきまでそこにあったはずの家は、半分以上が焼け落ちていた。
扉は黒く焦げ、屋根の一部が崩れ、火の粉が絶え間なく舞っている。
「母さん、父さん!」
叫んでも、返ってくるのは木が爆ぜる音ばかりだった。
背後で何かが吠えた。
低く、耳の奥にへばりつくような、獣とも違う声。
アルトは肩を震わせながら振り返る。
炎に照らされた道の向こうを、黒い影がいくつも駆けていった。人の形に似ていながら、人ではないもの。魔物だった。
誰かが転ぶ音がした。
悲鳴があがり、すぐに途切れる。
足がすくみそうになる。
けれど、その場で震えているわけにはいかなかった。
家族を探さなければ。
まだ間に合うかもしれない。
そう思わなければ、とても立ってはいられなかった。
アルトが次の角を曲がった時、向こうから小さな影が飛び込んできた。
「きゃっ」
「うわっ」
ぶつかりそうになって、ふたり同時によろめく。
「エリシア!」
涙で濡れた顔のまま、少女はアルトを見上げた。
煤で頬が汚れていて、いつも明るく結んでいた髪も乱れている。それでも、その顔を見間違えるはずがなかった。
「アルト」
泣きそうな声でそう言ってから、エリシアはすぐに首を振った。
「パパとママとアンリが」
その声が震えていた。
けれどエリシアは泣き崩れなかった。唇をきつく結んで、アルトの腕を掴む。
「逃げよう」
エリシアは、それ以上は言わなかった。
しかし、エリシアの目は父と母は諦めろと言っている様だった。
ふたりは一緒に駆けだした。
崩れた井戸のそばを通り、村外れの畑を目指して走る。
道には、見たくないものが少しずつ増えていった。
倒れた人。
焼けた荷車。
血の跡。
動かない影。
アルトは何度も足を止めそうになった。
けれど、そのたびにエリシアが「行こう」と言った。
そうしなければ、自分までその場に崩れてしまいそうだったからだろう。
村の中央広場へ近づいた時だった。
どん、と空気そのものを叩くような音が響いた。
アルトは思わず顔を上げる。
炎の向こう、広場の先に、巨大な影が立っていた。
人の形をしている。
けれど人であるはずがない。
漆黒の鎧のようなものを纏っている。
夜より深い闇をまとったその存在は、ただそこに立っているだけで、周囲の景色ごと押し潰してしまいそうだった。
「あ」
エリシアが息を呑む。
影が、ゆっくりとこちらを向いた気がした。
顔など見えない。
距離もある。
それなのに、アルトは分かった。
あれだ、と。
あれが、この夜のすべてを壊したものだと。
逃げなければいけない。
頭ではそう分かっているのに、足が動かない。
全身が凍りついたように、言うことを聞かなかった。
その時、どこかで何かが崩れる大きな音がした。
はっと我に返る。
「アルト!」
エリシアに腕を引かれ、アルトはようやく走り出した。
どこをどう逃げたのかは、よく覚えていない。
ただ、熱かった。苦しかった。怖かった。
そして、自分たちは何ひとつ守れなかったのだと、そのことだけが胸に深く残った。
◇
浅い息とともに、アルトは目を開けた。
最初に見えたのは、岩肌だった。
黒く湿った洞窟の天井が、ぼんやりと視界に映る。
「夢、か」
かすれた声で呟くと、胸の奥が鈍く痛んだ。
夢というには、あまりにも何度も見てきた夜だった。
「またうなされてたよ、アルト」
すぐ近くで、明るい声がした。
顔を向けると、洞窟の壁にもたれたエリシアがこちらを見ていた。
小さく笑っているが、その目の奥には少しだけ心配が滲んでいる。
「何?怖い顔したガレス?」
「夢に出るほど怖くないだろ」
アルトがそう返すと、洞窟の奥から低い声が飛んだ。
「聞こえてんぞ、小僧」
岩陰に座っていた大柄な男、戦士ガレスが、眉をひそめる。
その隣では僧侶のソフィアが、困ったように小さく笑っていた。
「でも、うなされていたのは本当ですよ。お水、飲みますか?」
「ありがとうございます」
差し出された水袋を受け取り、アルトは喉を潤した。
冷たい水が身体に落ちていくと、ようやく意識が少しはっきりしてくる。
洞窟の入口近くでは、勇者カイルと剣士クロードが小声で何か話していた。
さらに少し離れた場所では、魔法使いセレスが膝の上に広げた紙へ何かを書きつけている。
皆、疲れていた。
鎧も外套も土と血で汚れ、顔色もいいとは言えない。
それでも、ただ休んでいるだけには見えなかった。
少しでも気を緩めれば、すぐに次の死地が口を開けて待っている。
そんな空気が、この小さな洞窟の中には満ちていた。
「さっきの戦い、ひどかったもんねえ」
エリシアが小声で言う。
「まさか、あんな数がいるなんて思わなかったし」
「ああ」
アルトも頷く。
谷を抜けた先で遭遇した魔物の群れは、想像以上だった。
勇者たちが前に立ち、どうにか撃退はしたものの、完全に討ちきることはできなかった。何体かは散り散りに逃げ、周囲に潜んでいる可能性が高い。
だからこそ、いまは火も焚けず、息を潜めるようにして休んでいるのだ。
その時だった。
カイルが低く言った。
「来るぞ」
空気が変わる。
クロードがすぐに剣へ手をかけ、ガレスも大剣を手に立ち上がった。
アルトも反射的に身体を起こす。
直後、洞窟の外から荒い足音が近づいてきた。
「逃がしたやつか!」
ガレスが舌打ちするのと、影が飛び込んでくるのはほとんど同時だった。
犬に似た身体。けれど頭部は異様に大きく、裂けた口から長い牙を覗かせている。
魔物は真っ直ぐ、アルトへ飛びかかってきた。
「うわっ!」
咄嗟に剣を抜く。
まともな迎撃なんてできない。ただ、本能のまま前に差し出しただけだった。
がん、と鈍い衝撃が腕に走る。
噛みつかれるのは防げた。
だが重い。想像以上に重かった。
押し返しきれず、そのままアルトは背中から地面に倒れる。
「アルト!」
エリシアの叫びが響く。
魔物の息が顔のすぐ上にあった。
腐った肉のような臭いに吐き気が込み上げる。
剣を握る腕は震え、牙がじりじりと迫ってくる。
だめだ、押し負ける。
そう思った瞬間だった。
「風よ!」
明るい声が鋭く響き、次の瞬間、横合いから吹きつけた風の塊が魔物を弾き飛ばした。
魔物の身体が岩壁へ叩きつけられる。
その隙にカイルが踏み込み、クロードの刃が一閃した。
短い断末魔が洞窟に響き、やがて静寂が落ちる。
「アルト、大丈夫!?」
駆け寄ってきたエリシアが、しゃがみこんでアルトの顔を覗き込む。
その手は少し震えていた。
「なんとか」
「なんとか、じゃないよ。もう、ほんとに危ないんだから」
怒っているような、泣きそうなような顔だった。
アルトは息を整えながら、苦笑する。
「助かった。ありがとう、エリシア」
「うん。ちゃんと感謝して」
そう言って、彼女はいつものように少しだけ胸を張った。
けれどその直後、ほっとしたように小さく息をつく。
エリシアに手を貸され、アルトはゆっくりと身体を起こした。
まだ腕には、さっきの衝撃が鈍く残っている。剣を握っていた右手も少し痺れていた。
「立てるか」
剣についた血を払っていたカイルが、短く問う。
「はい」
アルトが頷くと、カイルはそれ以上何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、こちらを見た。その視線が、怪我の有無を確かめるようにも、何かを測るようにも見えて、アルトは少しだけ背筋を伸ばした。
「入口付近はもう少し警戒する。だが今の一体で終わりとも限らん」
クロードが低く言う。
相変わらず、感情の起伏をあまり感じさせない声だった。
「ソフィア、結界の張り直しを頼む。セレスは周囲の反応を確認しろ。ガレスは入口側の岩を少し動かせるか見てくれ」
「はいはい、力仕事は俺だよな」
ガレスが大きく肩を回しながら立ち上がる。
「アルト、お前は血の臭いを消せ。あと水。残りも見ておけ」
「分かりました」
アルトはすぐに返事をして動き出した。
こういう時、自分にできることは多くない。
けれど、まったくないわけでもなかった。
倒れた魔物の死体を入口から少し奥へ引きずり、血のついた石や土へ灰を撒いて臭いを薄める。
使える布を裂いて、さっきので傷んだ荷の紐を結び直す。
空になりかけた水袋を集めて、残りがどれだけあるか数える。
剣を振るう役ではない。
前に立って仲間を守れるわけでもない。
それでも、戦える者たちが少しでも長く動けるようにするのが、いまのアルトの役目だった。
「アルト、これもお願い」
エリシアが軽く手を上げる。
見れば、崩れた荷の中から転がり出た薬草束を持っていた。
「湿っちゃう前に、布に巻きなおしといて。あ、それと、あとでわたしの杖も見て。先っぽ、ちょっと削れた気がする」
「分かった」
「それから」
「まだあるのか」
「あるよ。いっぱいある」
エリシアは悪びれもせずに笑った。
ついさっきまで泣きそうな顔をしていたくせに、こういう切り替えの早さには毎回驚かされる。
「でも、助かったよ。さっきちゃんと剣で防いでたじゃん」
「防いだっていうか、押し潰されただけだけどな」
「最初はそれで十分。食いつかれなかったんだから、前よりちゃんと成長してるって」
明るく言われて、アルトは少しだけ肩の力を抜いた。
前より、か。
そんなふうに言ってくれるのは、エリシアくらいだった。
荷をまとめ直しながら、アルトはちらりと奥を見た。
ソフィアは静かに祈りの言葉を紡ぎ、入口近くに淡い光を落としている。あれが簡易の結界になるのだろう。
セレスは地面に描いた術式の線を指でなぞりながら、何かを確かめていた。
ガレスは大きな岩を持ち上げて、入口の死角になる位置へとずらしている。
皆、自分の役割を持っている。
アルトは、結び終えた紐を強く引いた。
自分の役割も、ここにある。
しばらくして洞窟内の空気が少し落ち着いた頃、アルトは水袋を抱えて入口近くへ向かった。
そこで、ふと足を止める。
クロードがひとり、洞窟の外れに立っていた。
月明かりがわずかに差し込む細い隙間のそばで、彼は剣の刃先を布で静かに拭っていた。
声をかけるか迷ったが、結局アルトは近づいた。
「水、置いておきます」
クロードは視線だけを寄越した。
「そこへ」
短い返事だった。
アルトが近くの岩へ水袋を置こうとすると、クロードの目が、ふとアルトの右手へ向いた。
「痺れているな」
「え」
「さっきの一撃だ。握りが甘い」
見抜かれていたことに、アルトは思わず言葉を詰まらせる。
「すみません」
「謝るな」
それだけ言って、クロードは剣を納めた。
いつも通りの、愛想のない声だった。
なのに彼はそのまま背を向けず、数歩だけ場所を空けた。
「木剣を持て」
アルトは目を瞬いた。
「い、いまですか」
「嫌ならいい」
「やります」
反射的に答えていた。
洞窟の壁際に立てかけてあった練習用の木剣を手に取る。
重さは本物より軽いが、疲れた身体には十分にずしりときた。
クロードは月明かりの差す場所へ移動すると、細身の木剣を一本、無造作に拾い上げた。
「構えろ」
アルトは息を整え、言われた通り剣を正面へ構える。
だが次の瞬間には、もうクロードの木剣が目の前にあった。
「遅い」
ぱし、と手元を打たれる。
思わず握りが緩みそうになる。
「敵を見るな。肩を見るな。腰を見ろ。動きの起点を見失うな」
「はい」
「返事が遅い」
「はいっ」
今度は踏み込みが来る。
アルトは慌てて受けた。だが浅い。力が逃げる。剣先がぶれて、あっさり弾かれた。
「腕で支えるな。全身で受けろ」
もう一撃。
次はなんとか倒れずに受けたが、足が滑る。
「重心が高い」
さらにもう一撃。
「視線が上ずっている」
また一撃。
「怖がるな」
言葉と一緒に打ち込まれる木剣は容赦がなかった。
けれど不思議と、無茶な力任せではない。アルトが受けられるぎりぎりを見極めて打っているのが分かる。
だからこそ、悔しい。
分かっていても、ついていけない。
手首が痺れ、呼吸が乱れる。
それでもアルトは歯を食いしばって剣を上げた。
クロードの目がわずかに細くなる。
「なぜ付いてくる?」
唐突な問いだった。
アルトは息を切らしながら、答えに少し詰まる。
「なぜって」
「お前には才がない」
クロードの言葉は、いつだってまっすぐすぎる。
「剣の筋も遅い。身体も細い。実戦では、一瞬押し負ければ死ぬ」
事実だった。
飾りようのない、ただの事実。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、それでも目は逸らさなかった。
「理由は?」
「何もできないまま終わりたくない」
そこまで言って、アルトは口を閉じた。
クロードは何も返さない。
ただしばらく、こちらを見ていた。
洞窟の奥から、エリシアの声が飛んでくる。
「アルトー!そろそろこっちも手伝ってー!」
間の抜けた、よく通る声だった。
たぶん空気を読んでいないわけではない。ただ、読んだうえで壊しにきている。
クロードが小さく息を吐いた。
「今日はここまでだ」
木剣を下ろし、背を向ける。
その去り際、彼は一度だけ足を止めた。
「さっきの防ぎ方は、悪くなかった」
アルトは目を見開く。
振り返りもしないまま、クロードはそのまま洞窟の奥へ戻っていった。
「今のって褒められたの?」
いつの間にか近くまで来ていたエリシアが、にやにやしながら顔を覗き込んでくる。
「たぶん」
「たぶんじゃないよ、絶対そうじゃん。やったじゃん!」
そう言って、彼女は、ぱん!と、アルトの背中を軽く叩いた。
少し痛かった。
でも、それ以上におかしくて、アルトは小さく笑った。
燃える村を見たあの夜から、失ったものはあまりにも多かった。
それでも、こうして息をして、剣を握って、誰かに助けられて、また立っている。
それだけは、きっと無意味じゃない。
アルトは木剣を握り直し、静かに息を吐いた。




