プロローグ
人は、最期のときに何を思うのだろう。
歩いてきた長い道のりだろうか。
守れたもののことだろうか。
それとも、どうしても忘れられなかった、遠い昔のことだろうか。
薄く目を開けると、見慣れた天井がぼんやりと映っていた。
窓から入り込む夕方の光はやわらかく、白いカーテンを静かに揺らしている。
ずいぶんと、穏やかな部屋だと思った。
こんなふうに、あたたかな場所で終われるなんて、若い頃の俺は想像もしなかっただろう。
もう、指先ひとつ動かすのも難しい。
胸の奥は浅く上下するたびに、少しだけ痛んだ。
けれど、不思議と怖くはなかった。
長い旅の終わりが、ようやく来たのだと分かっていたからだ。
「あなた」
すぐ傍で、やさしい声がした。
ゆっくりと視線を向ける。
そこには、ひとりの老いた女性がいた。
白いものの混じった髪。
目元に刻まれた深い皺。
それでも、その微笑みは昔のままだった。
どんな時も俺の隣にいてくれた人。
泣きたい夜にも、前を向けない朝にも、黙って手を取ってくれた人。
彼女は、涙を浮かべながら笑っていた。
その後ろには、息子と娘が立っている。
ふたりとももう立派な大人で、親として生きる年になっていた。
さらにその傍には、幼い孫たちがいた。
小さな手をぎゅっと握りしめて、声を押し殺すように泣いている。
そして、部屋の少し離れた場所には、この国の王がいた。
大臣たちも、貴族たちも、みな静かに立ち尽くしていた。
入りきれない部屋の向こうには、老人を慕う者、老人に育てられた多くの者達が鎮痛の面持ちで立っている。
誰も大きな声は出さない。
ただ、ひとりの老人の最期を、静かに見守っている。
それが少しだけ、可笑しかった。
昔の俺を知っているなら、誰もこんなふうには見ないだろう。
勇者でもなく、騎士でもなく、たいした才能もなくて。
荷物を運び、火を起こし、水を汲み、誰より後ろを歩いていた。
そんな男だったのだから。
「あなたは、この国の誇りだ」
王が、静かな声で言った。
年を重ねたその顔には、深い悲しみがにじんでいた。
「多くの民が、あなたに救われた。幾度もこの国を守り、最後まで歩み続け、誰もが、あなたを英雄と呼ぶでしょう」
少しだけ間を置いて、王は言った。
「最強の勇者であり、最高の英雄と」
その言葉に、俺は心の中で小さく首を振った。
違う。
俺は、そんな立派なものじゃない。
最強だったことなんて、一度もない。
俺はただ、必死だっただけだ。
置いていかれないように。
何もできない自分のままで終わらないように。
みっともなくても、情けなくても、前に進むしかなかった。この力は、あの人達からの...
すると、妻がそっと俺の手を包みこんだ。
もう昔のような細く白い手ではない。
同じだけ歳を重ねた、あたたかい手だった。
「……みんなのところへ行くのね」
涙をこぼしながら、彼女は笑った。
その言葉は、とても静かで、やさしかった。
けれど胸の奥に、深くしみこんできた。
みんな。
その一言だけで、遠い日の顔がいくつも浮かぶ。
いつもまっすぐ前を見ていた人。
不器用なくせに、誰よりもやさしかった人。
乱暴で大雑把なのに、誰よりも頼もしかった人。
冷たい口ぶりのくせに、本当は誰より仲間思いだった人。
眩しいほどに才能があって、最後まで手の届かなかった人。
みんな、もういない。
先に行ってしまった。
けれど不思議と、寂しさだけではなかった。
ようやくまた会えるのだと、どこかでそう思っている自分がいた。
「おじいさま……」
小さな声がした。
孫のひとりが、涙で濡れた目のまま、俺を見ていた。
「おじいさまは、勇者さまでさいきょうなんでしょ?」
幼いその問いかけに、部屋の空気が静かに止まる。
王も、大臣も、子どもたちも、皆が俺を見ていた。
俺は掠れた息を吐いて、ほんの少しだけ唇を動かした。
「違うよ」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
「俺は……最強なんかじゃない」
その言葉を口にした瞬間、目の前の景色がゆっくりと遠のいていく。
静かに目を閉じる。
息を引き取る瞬間に、夢を見た。
遠い昔の記憶が甦る。
赤く燃える空。
焼け落ちる家々。
土と血と煙の匂い。
泣き叫ぶ声。
何ひとつ守れず、ただ立ち尽くしていた、幼い俺。
あの日、故郷は消えた。
家族も、村も、ありふれた毎日も。
全部、炎の向こうに奪われた。
あれが始まりだったのだ。
勇者になりたかったわけじゃない。
英雄になりたかったわけでもない。
ただ、奪われたものを忘れたくなかった。
ただ、あの日の自分のままでいたくなかった。
だから俺は、あの人たちの後ろを追いかけた。
本当の英雄は、俺じゃない。
俺の前を歩いていた、あの人達だ...
あの人達の全てを紡いだだけだ...




