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9 狐面の夜会


 黒い生地に、白い梅が咲く。


 白鴉の名を与えられた雪が、外の世界で霧崎を名乗る時の着物。特別に誂えたものだが、屋敷の表の儀式で使う真っ黒な着物に比べて格がひとつ下がると聞かされた。


「雪姉様」

 そこに妹が入ってくる。


「まぁ、素敵。お似合いですわ」

「……うん。ありがとう」

 自分の口から出た声に、びっくりした。緊張が隠せていない。これでは姉に叱られてしまう。


 白い羽織を着ると、詩乃が桐の箱を持つ。

「どうぞ、雪姉様」

 その箱の中身は、狐の面。白の名にふさわしい、真っ白な狐。


『雪を守ってくれるものだよ』


 兄の言葉を思い出す。初めての場所。お守りなら、いくらでもほしかった。

 面に伸ばした手が震えていた。一瞬、ぎゅっと拳を作る。震えが止まるわけではないが、少しだけ感覚が戻ってきた。

 顔に面をあてると、詩乃が紐を結んでくれる。


「雪姉様をお守りください」


 彼女らしい祈りの言葉。誰にとも何にとも言わないのに、それは不思議と雪の背中を押してくれる気がした。


「雪、準備はできた?」

 先に支度を終えた姉が、雪を呼びに来る。黒い生地に艶やかな紅の花々が散りばめられ、それらを引き締める赤い羽織が華やかで綺麗だった。姉の面には赤い模様が入れられていて、同じ狐面なのに随分雰囲気が違う。


 華やかでいて大人っぽい雰囲気を持つ姉の隣に立つと考えるだけで、背筋が伸びる。


「いいわね。似合ってるわ」

「ありがとうございます」

 できるだけ冷静を装いながら、その声はわずかに上ずっていて。


「大丈夫よ。わたしたちはお人形。喋ることはほとんどないし、笑う必要もない。ただ黙って立ってればいいのよ」

 お面があってよかったと思った。声も表情も必要ない。震えなければ、緊張が知られることはない。『人形』という言葉は、雪を安心させてくれた。




 シャンデリアが輝く華やかな会場だった。その光は、キラキラなんてそんな綺麗なものじゃない。狐面越しに伝わるギラギラとした強い光に、目を背けたくなる。


 しかし、許されない。ピンと背筋を伸ばし、軽く顎を引いて。その姿勢を崩すことを、姉は許さない。霧崎の看板は、そんな安いものではないのだ。


「あれは……?」

 華やかな洋風のドレスコードの中、和服の集団というのはどうしても浮く。当然会場の視線を集めていた。


「霧崎様だ……」


 父の姿を見て、誰かが呟く。明らかに上流階級の社会で、遠目に見てわかるほど、父は有名人なのだ。

「霧崎って、あの……」

 父の顔は知らなくても、名前だけを知っている人もいるのか。


 全てが輝いていた。目が痛くなって、つい目を閉じる。

 ハッと慌てて目を開けたが、狐面で見えないのだから、気にする必要はなかった。


「これは、霧崎様」

 男が話しかけてきた。そのそばには、彼の家族と思われる人々もついてくる。


「お越しいただき、光栄です」

「鈴木様は大切なお客様ですから」


 父の低い声が答える。一言、二言と言葉を交わし。姉も、兄さえも口を挟まない。しかし、その存在感は圧倒的で。


「霧崎様にご紹介したい方が」

「どなたですか」

 じっと立っているだけ。そのせいか、会話が頭に響く。


「こちらは」

 また新しい人が増えた。どんどん酸素が減っていく感じがする。息苦しくて、少しだけ口を開けたが、息がうまく吸えない。


「最近の世間は静かだ。まるで嵐の前のように。霧崎様には、風の音が聞こえていらっしゃるかもしれませんが」

「どうですかな」

 上辺だけの薄っぺらい会話。頭がぼーっとする。


「風の向きが変われば、聞こえる音もあるかもしれませんが」

 父の言葉の意味は、よくわからなかった。


 ようやく会話が終わり、彼らが離れていく。一瞬視線を逸らした先に、おそらく同じ年頃の少女が見えた。


 その目に含まれた感情は、『不気味』。それがわかってしまった。気味の悪いものを見たかのような視線に、一気に胸が締め付けられた。


 重ねた両手を、ぎゅっと握る。


「お父様」


 その時、ずっと黙っていた姉の声が、静かに響いた。

「お化粧直しに行ってまいります」


「……あぁ」

 父の許しを得て、

「白鴉、きなさい」

 姉が雪を呼び寄せる。姉の背中を追って、雪も歩いた。


 多目的トイレに入り、

「お面を取って」

 と姉が言う。頭の後ろで結ばれた紐を軽く引くだけで、一気に酸素が入ってきた。


「は、ぁ……」

 吐いた息は、情けなく震えていた。

「すみません……」


 初めての場所とはいえ、こんなことになるなんて。看板を大切にする姉に、謝ることしかできない。


「問題ないわ。霧崎の名は伊達じゃないの。この程度ではびくともしないわ」


 姉なりに慰めてくれているのだろう。バッグに忍ばせた小さなペットボトルを取り出し、少し喉を潤す。コクン、と喉を鳴らすと、不思議と脈拍が落ち着いた。


 姉の手が、背中に当たる。

「落ち着いて」

 静かな声が、耳のそばで聞こえた。


「あなたは白鴉。全てを見下ろす鴉なの。誰からも蔑まれない、全ての人が見上げる存在。それだけ、わかっていればいいわ」


 高い空を飛ぶ白い鳥。それが自分だと。その言葉通りのイメージが、頭の中に浮かぶ。


 怖いものはない。かつて雪を傷つけた人間たちも、霧崎白鴉の名の元には跪く。そんな映像が浮かんだ。


 それが嘘だとはっきり決め付けられないほど、雪にとってその名前は特別なもの。


 胸を張ると、楽に息ができた。


「大丈夫ね」

 確かめるような言葉に、雪は頷く。


「はい」

 もう震えていなかった。

 



紅霞(こうか)様、お会いできて光栄ですわ」

 夫の付き添いといった感じの女性たちは、姉にも声をかけていた。


「こちらこそ」

 姉もまた、少ない言葉で答える。


「夫がお世話になっております。霧崎様にはいつも助けられてばかりで……」

 さっきよりも周りが見えるようになっていた。


 父や兄姉を知ってる人は近づいてきて、どこか恐れながら声をかける。

 接点がない人は、遠くから眺める。その目は、不気味なものを見るようでいて、なんとなく好奇心のようなものも滲んでいた。近づきたい。そんな言葉が聞こえてくるようだった。


「そちらは……」

 女性たちの視線が雪に向いた。


「妹の白鴉です」

 姉の紹介に無言で軽く頭を下げるだけ。喋る必要はない。


「はくあ様と仰るのですね」

 静かに交わされる会話の中、雪はただじっと背筋を伸ばして立っていた。


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