8 渡り廊下の白猫
特別な名前をもらったからといって、日常はすぐには変わらない。
いつも通り朝起きて、夜寝るまで、特別なことなんてない。ただ、暇な時間に少し表に出てみたり。お散歩の範囲が、少しだけ広くなったくらいだ。
「雪姉様、香り袋を作りませんか?」
奥であれば、家族間の呼び方も変える必要はない。だから、詩乃は今まで通り親し気に呼んでくれる。
「柚の実がついていたので」
「ありがとう。作り方、教えてくれる?」
ゆったり穏やかな日常を過ごしながら、ふと彼の顔が浮かぶ。
「雪姉様?」
「え?」
そう呼びかけられ、慌てて現実に戻される。
「ごめんなさい。何か言った?」
「いいえ。……ふふ」
詩乃はそう笑いながら、
「これは独り言ですが」
と続ける。
「表には12匹の猫がいるんです。1匹くらい、奥に来てくれればいいのに」
突然話題が変わっていた。どういうことだろう、と思いながら、話を続けてみる。
「12匹?」
「はい。それぞれ干支の名前がつけられているそうですよ。見分けがつくのは世話係くらいでしょうけれど」
確かに、色や柄の違いだけでは見分けはつかないかもしれない。
「猫って、表を案内してくれるんだよね」
「はい。あと、お屋敷内のお手紙のやり取りなんかも。お父様やお兄様が奥にいらっしゃる時に、表の者に指示を出すために猫を使うこともあるとか」
なるほど、表と奥をつなぐ使者のような役割もあるのか。
「それって、わたしも命令できるの?」
ふと、気になった。詩乃はそれを聞いて、軽く目を細める。
「わたしは幼い頃に、猫を使ってお父様にお手紙を届けたことがありますよ」
小さい子どもができることなら、雪にもできるかもしれない。
「今度、教えてくれる?」
「えぇ、もちろん」
これを使えば、スマホも使えないこの場所でも、なんとか生きていけるかもしれない。
その日、雪は渡り廊下に立った。12匹の猫は、それぞれ呼び出し方で使い分ける。使うのは指笛。3つの音を並べて呼び出すらしい。
詩乃に教わった通りの音を出す。少しすると、
「にゃぁお」
現れたのは、白猫だった。鈴がついていない赤い首輪は、音を立てさせたくない時に使うため。
「君が届けてくれるの?」
そう言って手を差し出すと、白猫は人懐っこくその手にすり寄ってくる。
「いい子だね」
あとは、特別な樹脂を混ぜた墨で書いた紙を、白猫の頭の上にかざす。行き先と届ける相手、そして命令に背かないこと。
首輪に紙とお土産を巻き付け、
「よろしくね」
と送り出した。
「にゃぁお」
部屋に戻っていた雪のもとに、白猫が戻ってきた。
「もう帰ってきたの?」
雪が障子を開けると、白猫はするっと入ってきて、雪の足元に座った。
「いい子」
そう撫でようとして、首輪に手紙が巻き付いているのを見つけた。雪が使った上質な和紙じゃない。メモの切れ端のような紙。
『香り袋、ありがとう。柚のいい香りがした』
彼の字だった。
猫の首輪につけるのだから、そんなに長い文章は書けない。最低限でしかないけれど、それでもつながっていられる。
「ありがとう」
お礼を言うと、白猫はその場にごろんと横になった。役目は終えた、と言わんばかりの態度に、雪は微笑んだ。
「お姉様」
雪は姉の部屋を訪れた。
「珍しいのね。どうしたの?」
姉の部屋は、この和の空間にしては珍しく、洋室風の家具が並んでいる。いわばレトロな感じ。着物よりも洋服を好む姉らしい内装だ。
「少し教えていただきたいことが」
「いいわよ。入って」
その返事を受けて、雪は障子を閉める。
「忍びの訓練期間について調べていたのですが」
「そう。その本には書いてなかった?」
雪の手に和綴じの本があるのを、見逃さなかった。
「あ、はい。書いてありましたが、あんまり詳しくはなくて」
「そうでしょうね。教育関連はほとんど記録を残していないもの。口伝のものが多いのよ」
「……そうなんですか」
あまり知らない方がいい、ということだろうか。記録に残すとよくないこともあるかもしれない。
「勘違いしないで。あなたには知る権利があるわ。霧崎の人間だもの」
「あ……」
雪の心を見破るように、姉の強い眼差しが刺さる。
「申し訳ございません」
それは、謝罪ではなく感謝の言葉。すぐに弱ってしまう心を、姉の言葉はいつも叩いて引き延ばしてくれる。
「出家してから約半年くらいの隔離期間って、何をするんですか?」
「観察と簡単な思想教育ね」
さっそく怖い単語が出てきた。しかし、宗教ではないとわかっている。
「訓練生の行動パターンを把握するのよ。腕につけられた腕時計も、この時から稼働しているわ。心拍、呼吸数、睡眠時間や空腹のタイミングなんかも全部記録に残す。一日に一度、教官から呼び出されてお話する。その時は、言動の反応や癖なんかも見られるわ」
「すごい……。詳しいですね」
「まぁね。実際受けたことがあるもの」
その言葉に、疑問を持った。
「お姉様が、ですか? 霧崎の人間なのに?」
雪は受けたことがない。受けるように勧められたこともない。自分たちには関係ない話だと思っていた。
「小さい頃にね。忍びの基礎となる部分だから、知っておいて損はないって。お母様がそういう人だったの」
なるほど。母が違うからか。少し寂しくなる。
「お母様も元忍びだから。今考えると、わたしを教育係にする予定でもあったんじゃないかしら。現に詩乃は通っていないわけだし」
「そう、なんですね」
確かに、詩乃が通っていない道なら、雪も経験する必要はないのかもしれない。
「半年って記録には残ってるけど、実際は3ヶ月くらいよ。その後の方が大事だもの。隔離期に時間をかける余裕はないわ」
忍びの人数は少なくないが、年間で比較すれば引退する者の方が多い。忍びの世界も高齢化なのか。
「次は、基礎訓練、ですよね」
「えぇ。呼吸法、歩法、姿勢や五感の調整。全てを一から作り上げていく感じね。この頃から、『壊れる』人も出るのよ」
強い言葉に、心臓がぎゅっとつかまれる。
「入門する時に、スマホは捨てる。家族と連絡を取る手段もない。そんな状態から、個性を全て否定されるのよ。これを平気でいられる人間がいるなら、その人はきっと神様にだってなれるわ」
「……っ、怖い、ですね」
「そうね」
雪の「怖い」という感情を、姉は否定しなかった。でも、返答はあっさりしていた。それが当たり前、とでも言うように。
「失敗した人は、どうなるんですか?」
「その人の希望によるわね。奥に仕えることもできるし、表や外での忍び以外の仕事もなくはない。外部協力者として、普通に外で生活しながら情報をこちらに流す、という生き方もできるわ」
それは、完全な無関係には戻れないということ。一度この世界を知ってしまったからには、逃げ出せない。そんな暗い部分を見つけてしまった。
「基礎訓練を無事に終えた人でも、忍びの実務に就く人は少ないわよ。忍びとしての技術を持っていても、普通に生きることはできるしね」
「そうなんですか?」
「えぇ。現に、世界的に有名な人で過去にうちの訓練生だった、なんて人も少なくないもの。隔離期と基礎訓練を合わせても、長くて1年だし」
この家が有益な情報を持っているのは、きっとそのネットワークのおかげなのだろう。
「あなたの彼も、本当の忍びになるかはこれから決めるんじゃない?」
「え?」
「それを聞きに来たんでしょう?」
まさに図星だった。彼のことが心配だったからだ。
「心配しなくても、完全に外との関わりを捨てるのは基礎訓練の後よ。外国語に詳しいと聞いているし、忍びにならなくても利用価値はあるわ」
利用価値、なんて言い方は、良くないと思う。でも、はっきりと言ってくれる姉が大好きだ。
「霧崎の名に泥を塗らないなら、あなたが誰と結婚しようと興味はないわ。ただ、霧崎に入るからには、それなりに役に立ってもらわないと」
「……はい」
ふっと笑みがこぼれた。これは、姉にとっては励ましの言葉だ。
「お姉様のお言葉で安心しました。ありがとうございます」
「別に。これくらいのことなら、いつでも話すわよ」
ツンと澄ましながらも優しい姉に、雪は微笑んだ。




