7 光の下、影となる
『これは雪のためなのよ』
あの後、姉が教えてくれた。影名を与えられたら、表と奥をつなぐ渡り廊下を自由に使える。それは同時に、彼に会いに行ける機会が増えるということ。
『でも、ただの訓練生に本家の娘が気安く話しかけてはいけない。それだけはわかっておいてね』
それは、霧崎家の娘としての誇りを汚さない、姉らしい言葉だと思った。
それでもいい、と思えた。たとえ、彼の名前は呼べなくても。彼のそばに立つことはできなくても。ただ、少し離れたところで、その姿を見ることができたら。その努力を知ることのできる立場にいられたら。
使用人が部屋に入ってきた。真っ黒な喪服のような着物を着付けられ、最後に白い狐のお面。兄に呼ばれて表に出た時の顔の上半分を覆うものではない。全顔面を覆う、どこか気味悪ささえ感じるお面だった。
「お時間です」
部屋の外から聞こえた声に、
「……はい」
と返事をする。もう迷っていられない。忍びの家の娘として生まれ変わる。そんな気持ちだった。
渡り廊下を抜け、表に入る。全ての窓が閉じられていた。真っ暗な闇の中、案内役の使用人が持つろうそくと、廊下の壁につけられたろうそくたちの、薄暗い灯。それだけで、厳かな気持ちになる。
少し後ろを歩く詩乃と会話することもない。衣擦れの音だけが響く空間は、離れているはずの火の熱が伝わるような気がした。
表の建物の中で、最も広い部屋。すだれで仕切られたそこは、たくさんの人の気配を感じた。その部屋だけではない。外の庭にも、たくさんの忍びが揃う。これだけでもまだ全員じゃないというから、あまりの規模の大きさに驚く。
シュッ、シュッ、という着物の音。ろうそくの灯を追うように、畳の上を歩く。
上段のすだれの前で足を止め、その場に座る。
「これより影名授与の儀を執り行う」
父の声は、よく響く。決して大きくはないのに、響きやすい高い声でもないのに。低く朗々と歌うような口調に、じっと耳を澄ます。
「夜の帳に生まれし者。我が血脈、霧の名を戴く者。その身、陽の道を捨て、陰に生きることを誓うか」
すっと息を吸うタイミングが、妹と重なった。
「誓い申し上げます」
決められた文言とはいえ、妹のそれには心が込められていた。雪の想いがかき消されるのではないか、と不安だった。
「誓い申し上げます」
それでも誓いの言葉を立て、
「この刻をもって、汝を影の列に加える」
それは背筋が伸びる言葉だった。
「はくあ」
差し出されたのは、白い扇子。黒い墨で白鴉と書かれていた。
白鴉と書いて、「はくあ」。これが、雪の新たな名前だった。
「はい」
と雪は短く返事をする。
「とうよう」
「はい」
妹の影名は橙鶯と書いて、「とうよう」。金木犀を愛する彼女らしい名前だった。
「血の契りは尽きるまで絶えず、沈黙の掟は死しても破るべからず」
深々と頭を下げ、その名を受ける。
少しだけ息を吐いた。これで終わった。
昔、母に名前の由来を聞いたことがある。
『知らないわよ。雪が降ってたからじゃない?』
冷たくそうあしらわれたことを、今でも思い出せる。本当は特別な意味があったのかもしれない、と希望を持つこともあったかもしれない。でもいつしか、その名前はひとつのコンプレックスになっていた。
『俺は好きだな。雪って、綺麗じゃん』
そう言ってくれたのは、たったひとり。その言葉で、ようやく名前を好きになれた。
その名前を、今日、捨てる。
父が考えてくれた名前。本当の父ではなくても。それもまた、雪にとっては特別なもの。忍びとしての名前以上に、特別な意味を持つように感じた。
「はくあ」
口の中で転がすように、その名前を復唱する。白い扇子を開き、墨を指でなぞる。
「……ふふ」
くすぐったい。そして、嬉しい。
役に立ちたい。この家で、生きていきたい。受け入れてくれた恩返しを、名前をくれた恩返しをしたい。
この時ばかりは、悠真のことを考えていられなかった。




