5 黒猫の導き
優しい日差しで目が覚めた。昨日、ぎりぎりまで握っていた手は、もうない。握りしめてくれる温もりがなくなった自分の手は、ひどく冷たい気がした。
父は、悠真の申し出を受け入れた。忍びとして教育すると約束してくれた。でもそれは同時に、再び離れることを意味する。
子どものように泣きじゃくることも、いやいやと首を振ることもできず、雪はただ彼の手を離さなかった。
『大丈夫だよ、雪』
その笑顔を最後に、彼は離れていった。彼自身の意思で。
それからずっと、雪は部屋に閉じこもっていた。泣いて、泣いて、泣き疲れて寝ていた。
「雪姉様?」
まぶたの上に載せられたタオルを取ろうとすると、詩乃の声がした。
「お目覚めですか?」
いつも通りの微笑み。綺麗で、上品で。いつも通りなのに、今日はそれに返す余裕がない。
「……監視?」
口から出た言葉は、自分でもびっくりするほど固かった。
「お父様に言われたの? また出ていくかもとか、余計な事をしないようにとか」
責めるつもりはなかった。でもその声は、自分でわかるくらいには敵意に満ちていた。
「……わたしは、雪姉様のおそばにいたいです」
詩乃は肯定も否定もしなかった。雪のそばにいるのは、父の意思でもあり、詩乃自身の意思でもある。それがわかってしまった。
「お食事を持ってこさせますね。雪姉様がお好きな卵雑炊を作るように言っておいたんです」
空気を変えるように明るくなる声が、逆に苦しくて。詩乃が部屋を出ていった後、雪は寝返りを打って枕に顔を埋める。
会いたい。会えないとわかっているのに。責めたくないのに、責めたくなる。実母の元で暮らしていた時より、自分の境遇が恨めしくなる。
「雪、入るよ」
「……っ」
兄の声を拒絶するように、布団を頭まで被った。
「怒らせるつもりはないんだ。ごめんね、雪」
それを見て、兄は残念そうな声を出す。
「お腹が空いてるだろう? 何かお腹に入れたら、表においで」
表に、と聞こえた。今まで足を踏み入れることのなかった、執務室がある場所。そこがどんなところかも、雪は知らなかった。
「あら、お兄様。雪姉様とお話ですか?」
「少し様子を見に来ただけだ。雪には伝えたけど、あとで詩乃も一緒に表に出ておいで。待ってるから」
「かしこまりました。雪姉様のお支度が終わりましたら向かいます」
雪の返事は聞いていないのに。詩乃は、簡単に引き受けてしまう。でも、雪にそれを拒む気はなかった。
家族や使用人以外が出入りする表に行くのに、部屋着というわけにはいかなかった。洋服か和服かと聞かれ、雪は和服を選んだ。そして、顔の上半分を覆う狐の仮面をつけた。表に出る時はこれをつけるのが決まりらしい。少し緊張した。
表と奥を隔てるのは、大きな扉。ひとつしかない渡り廊下のようなところに、どしんと構えている。雪と詩乃を見た瞬間、その扉を守る人が鍵を開けてくれた。
「参りましょう、雪姉様」
詩乃は雪より前に出なかった。それが決まり、とでも言わんばかりに。表のことなんて何も知らない雪が、何の案内もなく歩き回れるはずはないのに。
その時、そばの窓から足元に落ちてくる黒い何か。
「にゃあ」
黒猫だった。赤い紐に金色の鈴をつけたその子は、ついてこい、と先を歩き出す。
「表の案内役です」
そんな教育をされた猫なんてすごい、と驚いてしまう。
右にいったり左にいったり、渡り廊下を歩いたり。迷ってしまいそうな道のりで、黒猫が止まった。くるっと振り返り、ちょこんと座る。
「んなぁ」
さっきよりも鳴き声が違った。わかったのはそれだけ。
「雪かな」
すぐ隣の部屋から兄の声がした。この部屋だと教えてくれたのか。
「入っておいで」
慌てて入室のマナーを思い出す。膝をつき、まず少しだけ障子を開けて。
「失礼いたします」
頭を上げた時、その光景に目を疑った。
「悠真……!」
周りなんて見えていなかった。マナーなんて気にしていられなかった。着物の裾が乱れるのも気にせず、仮面を外して彼に駆け寄る。
「悠真! なんで……」
「お、落ち着いて、雪」
彼は笑っていた。雪を落ち着かせるくらいには、彼も落ち着いていた。
「俺は呼ばれただけなんだ。忍びについて聞いてたんだよ」
「大丈夫なの? ひどいことされてない?」
「何も。昨日は宿舎を案内してもらっただけだし、食堂のご飯も美味しかったよ。ルームメイトもいるから、寂しくなることもなさそうだ」
この家に仕える忍びたちの生活なんて、雪は知らない。教えてもらっていない。それでも、彼の言葉に嘘がないことはわかった。
「これ……」
悠真の手首につけられた機械。ただの腕時計、というわけでもなさそう。なぜなら、それは彼の好みではないから。
「心拍とか呼吸数とかを測ってくれるんだって。訓練が始まったら、これで体調を見てくれるのは安心だよね」
「……本当に、それだけ?」
それだけのはずがないのは、察することができた。
「本当は、教えちゃいけないことなんだけど」
それに対して、兄が説明してくれた。
「GPSや盗聴器がついてる。位置情報や会話内容を録音して、危険信号を本部に自動送信してくれるものだ。忍びの訓練生は全員つけてるよ」
「……悠真だけじゃないの?」
「ルームメイトたちにもついてるの、ちゃんと見たから」
それを聞いて、雪は少し安心できた。少なくとも不遇な環境ではないようだ。
「悠真、本当に大丈夫なの?」
そして、これだけは確認しておきたかった。
「わたしのために無理してない?」
「してない」
「全然違う世界なんだよ。今まで知ってるようなところじゃなくて……」
「わかってる。それでも俺は、雪のそばにいたい」
それは、確かな彼からの言葉。それを信じることしか、できない。
「俺、頑張るから。それにさ、ちょっとだけ楽しみなんだ」
「楽しみ……?」
「元々、日本の大学に通うつもりだったから。ちょっと違うけど、特殊な学校に通う感じがしてわくわくしてる」
本音なのか、雪のための嘘なのか、わからない。彼の笑顔は、いつも通りで。
「……わかった」
だから、雪は黙った。しかし、彼の手を取って。
「応援する」
「うん、ありがと」
しっかり握って、エールを送る。今はこれしかできなかった。
「時間だ」
兄の声が、無情に聞こえた。
「香月くん、帰っていいよ」
もう終わりなのか。次いつ会えるかもわからないのに。
彼は、そっと雪の手を離す。そして深々とお辞儀をして、部屋を出ていった。
「さて、雪にはもうひとつ話があるんだ。奥に戻ろうか」
優しい声の片隅に、冷たさを感じてしまった。
「雪に影名を与える」
奥の一室、家族だけが入れる場所で、父から告げられた。
忍びとして一人前と認められた時に与えられる、特別な名前。数々の条件をクリアしなければ与えられないもの。
「わたし、忍びなんて……」
できるとは思っていなかった。雪に教えられたのは、基礎中の基礎。ただの下地部分の知識に過ぎない。技術も何もないのだ。
「霧崎家の人間として必要なものだ」
「でも、実務も統率もできません。忍びとしての名前なんて、わたしにはもったいないものです」
「雪」
家族だけの場だからと遠慮なく反論する雪を諫めたのは、姉だった。
「お父様のご判断に、異議を唱えるべきではないわ」
「……申し訳ございません」
「それに、わたしは賛成です。雪は忍びを敬遠しているようですが、統率してもらわないと困ります。4年も前から霧崎の人間ですもの」
それは初めての姉からの評価だった。おそれおおい、触れるべきではない、と離れて見ていたのを、見透かされていた。
「僕も賛成だよ。僕の妹として、お守りでもいいから持っていてほしい。これから表に出る時、雪を守ってくれるはずだ」
「わたしが表に出ることが、あるのですか?」
そんな話、聞いていない。今までずっと、奥にいるだけでよかったのに。
「もう18歳なんだ。霧崎家の一員としてできることはしてもらう。雪にも役に立ってもらうよ」
「……!」
役に立ってもらう。それは、冷たいように見えて、「役に立てない」と思い込む雪の心を溶かす言葉でもあった。
「表での儀式はもちろん、外の行事にも。綾乃が参加しているものは全て、雪にも参加してもらう。父上はそのつもりだよ」
父の決定は覆せない。本当に、雪が表に立つ日が来たのか。
「それと、詩乃も」
「え?」
その場を見守っていた詩乃が、突然の名指しに気の抜けた声を出す。
「雪と同じ日に影名を与える。あと2年は形だけだけどね。表の出入りは自由にしていいってことで」
「か、かしこまりました」
父と兄の間で決まってしまったことを、雪と詩乃ではどうにもできなかった。




