5 空港での再会
わずかな資金を頼りに訪れたのは、大きな空港だった。
約束したのだ。今日この日、ここで待ち合わせしよう、と。
忘れているかもしれない。来ないかもしれない。そんな気持ちが、ないわけではない。でも、決めた。大切な場所を捨てることになっても。これだけは、捨てられなかった。
展望台からは、たくさんの飛行機が見えた。たくさんの人を乗せて飛び立っていくもの、訪れるもの。
ここは、自由に最も近い場所だと思った。自由な空が近くにあって、どこにでも行ける。それなのに、寂しい。
あの不自由な場所が、いつの間にか大好きになっていたのだと、痛感した。
戻りたくなる。幼い不確かな約束なんて忘れて、あの場所で過ごせたら。でも、忘れられない。だから、ここに来た。
「雪!」
その瞬間だった。
耳に届いたその声に、反射的に振り返る。そこに立っていたのは、懐かしい人。
「……ゆ」
涙でつまる声を、ぐっと押し出すように。
「ゆうま……っ」
次の瞬間、雪の体は彼の腕に包まれていた。
「雪……。よかった」
「悠真……。悠真……!」
何も言えなかった。ただ、確かめるように、その名前を呼び続けた。
何もかも諦めていた雪を、この世に引き留めてくれた人。幼い心で、精一杯愛した人。
「雪、顔を見せて」
彼は、雪の顔を両手で包んだ。
「……ぐちゃぐちゃだよ」
涙も鼻水も、気にしていられない。こんな顔、誰にも見せられないはずなのに。
「でも、前よりもかわいい」
彼のその言葉が、嬉しくて。
「ちゃんと逃げられたんだね」
「悠真と、約束したから」
また会う日まで、安全な場所で待っていてほしい。そう言ったのは、彼だった。だから、4年前、雪は自ら虐待を通報した。
「ご飯も、ちゃんと食べてるよ」
「うん。わかるよ。くまもなくなってる。前より健康的な生活をしている証拠だ」
彼の手は、温かい。あの優しい手のように。嬉しいのか、悲しいのかもわからず、ただ彼の腕の中で泣いていると、
「雪?」
それは、この4年間、何度となく聞いた声だった。視線の先で、兄がこちらを見ていた。
見つかってしまった。怒られる。連れ戻される。彼と離される。それが、怖くて。
視線を感じる。ひとつやふたつじゃない。四方八方からこちらに向けられる意識。逃げられるはずがなかった。
でも、気づいた時には、彼の手を取っていた。
「雪、どうかした?」
悠真の言葉など聞かず、ただ彼の手を引いて、逃げるように歩き出す。
「雪」
「ついてきて」
「ちゃんと話して、雪」
「あとで話す」
説明を求める悠真に、説明する余裕なんてなくて。ただ、家族から逃げることしか考えられない。
「雪」
それは、低い声だった。有無を言わせない、絶対的な命令口調。「止まれ」と言われたわけでもないのに、足が勝手に止まる。
名前を呼ばれたことなんて、ほとんどない。それなのに、身体は、この声を「父」だと覚えている。逆らえない、逆らいたくない、と全身が訴える。
「雪、泣いてるの?」
悠真の声で、自分の頬を濡らすものに気づいてしまった。
「怖い?」
違う。怖いはずがない。あんなに大好きな、家族の声なのに。
ただ、声が出ない。彼を傷つける言葉も、家族を傷つける言葉も、言えない。
「雪のご家族の方ですか?」
それは、悠真から雪の兄たちへ向いた言葉だった。
「少しだけ、雪と2人で話をさせてください」
なんて優しいんだろう。雪が混乱しているのを見て、落ち着く時間を作ろうとしてくれている。昔から、こういう気遣いができる人。だから好きになったのだ。
「君が妹を傷つけないという保障がない」
それに答えたのは、兄の声だった。いつもの優しい声じゃない。明らかに「外」の人間に向けられる、冷たい声。
「雪、その人は誰? 説明してもらえるかな」
ひゅっ、と喉の奥が笛のような音を立てた。怖い。家族に対してこんな感情を抱いたのは、久しぶりだった。
「やめてください」
雪を庇うように、悠真が目の前に立った。その大きな背中は、4年前よりもずっと頼もしくなっていた。
「彼女が怖がっています。あなたたちこそ、雪を傷つける人間なんじゃないですか?」
違う。そんなはずがない。弱く伸ばした手が、彼の服をつかむ。
「……ちが、う」
声が震えていた。しっかりしろ、と背中を叩きたくなる。こんな弱々しい声では、「大丈夫」という言葉が通じるはずがない。
「お願い。怒らないで」
「ごめん、雪」
雪の弱々しいお願いに、悠真はすぐに謝った。
「この人たちは、雪の家族?」
「……うん」
「いい人?」
一瞬、迷った。雪にとってはいい人。でも、世間一般的にはどうなのだろう。
「教えて。雪の気持ちを知りたい」
雪の感覚でいいのだと、彼は教えてくれる。
「いい人、だよ」
だから、声が出た。
「殴ったり蹴ったりしないし、ご飯もくれるし、部屋もあるし……」
そんなことしか出てこない。彼らを指す「いい人」はそんなものじゃないのに。
「大好きなの」
でも、これだけは言いたかった。大好きな家族だと、はっきり言えた。
その言葉が、雪の心の中に芯を通す。不思議と背筋が伸びた。悠真の前に出て、父の前に立つ。
「勝手に家を出て、すみませんでした」
深く頭を下げ、それでも言葉を紡いだ。
「彼は、わたしを助けてくれた人です。わたしは彼を愛しています。だから、彼と一緒にいることを、許してください」
変に上品な言葉を選ぶ余裕はなかった。まるで子どものような言葉遣いは、嫌われてしまうかもしれない。
いっそ嫌われてしまった方が楽かもしれない。未練を断ち切って、彼と一緒にいられるのなら。
「頭を上げなさい」
父の声が降ってきた。それは、いつもと変わらず、何を考えているのかもわからない声。だから、黙って頭を上げた。顔を見ても、やっぱりわからなくて。
「雪、車で話そう」
そう言ったのは兄の方だった。この場合、兄は父の意思を汲んで動いている。つまりこれは、父の言葉だった。
マイクロバスのような車だった。そばには別の高級車があったから、きっと父と兄はそっちに乗ってきたはず。とするとこれは、護衛か捜索に出されていた人たちが使っていたものだろう。
全ての窓をカーテンで覆われ、向き合うように座席を移動させたバスの中は、簡易的な会議室のようで。異質な緊張感を漂わせる。
「さて」
その中で、兄の声はいつもの調子に戻っていた。
「君の名前を聞いてもいいかな」
兄の言葉は、雪の隣に座る悠真に向けられたもの。少し警戒したように、そして心配そうに雪の方を向く彼に、雪は黙って頷いてみせた。
「香月悠真です」
彼は慎重に答えた。
「香月くん、君は雪の友人みたいだけど、いつから知り合い?」
「中学の時に同じクラスで、俺が転校するまで交際していました」
当時、家族にさえも疎まれていた雪の心を、救い上げてくれた人。愛し方も愛され方も知らない雪に、「好き」を伝えてくれた人だ。
「なるほどね」
「あなた方が雪のご家族ということはわかりました。でも、どうしてこんな尋問みたいなことするんですか? 雪を自由にさせてあげないんですか?」
警戒心からか、それとも雪を守ろうとしているのか。挑戦的な悠真を、
「悠真、違うの……」
雪は弱く引き留める。
「雪にはもう傷ついてほしくないからね。父が娘を守るのも、兄が妹を守るのも、自然なことだと思うけれど」
「守るって……。じゃあどうして、雪が大変だった時、いなかったんですか?」
それには何も言えなかった。
「それは本当に後悔しているよ。もっと早く雪を見つけてあげればよかった、って」
変わらない。14年間離れていても、この4年間でそれ以上に愛されていたのだから。雪は充分幸せな時間を過ごせたのだから。
「雪、本当に家を出て、彼と一緒に暮らしたいの?」
「……!」
兄の声がこちらに向いた瞬間、雪の肩がピクリと波打った。
家族を捨てるのか、と責められている気分だった。
「愛する人がいるというのは、素敵なことだよ。でもね、雪。雪はまだ若いんだ。急ぐことはないんじゃないかな。これから時間をかけていけば、変わることもあると」
「それは……っ」
それは、反射的に漏れ出た言葉だった。
「いつでも自由に会える場合は、でしょう?」
この機会を逃したら、次いつ会えるかわからない。外出さえもままならない環境で、また彼に会える保障なんて、どこにもないのだ。
「わたしは、彼が好き。彼だけが、助けてくれたの。彼がいたから、生きてこられたの。……児相から引き取ってくれたお父様には感謝しているし、妹として愛してくれたお兄様にも感謝してる。でも……わたしは、彼のそばにいたいの」
自分の意見を出すのが怖くなくなったのは、家族のおかげだった。雪のどんな言葉も、受け入れてくれたから。
でも、今、怖かった。拒絶されるのが。怒られるのが、怖い。震えながら、泣きながら、それでも止めなかった。
「あの家にもいても、お姉様や詩乃みたいに、お父様の役に立てる自信はない。忍びとして働くこともできなければ、リーダーになれるほどの実力もない。わたしは、邪魔になる。そうでしょう?」
気づいていた。ずっと目をそらしていた。家族に役に立たないこと。
どんなに勉強したって、教えられること全てを覚えたって、役に立たないことは薄々気づいていた。それでも、役に立ちたくて。必要だと言われたくて、頑張った。
それでも、そこには、無視できないほど大きな溝が広がっていた。
「雪は、家を出た方が、幸せになれると思う?」
兄のその問いが耳に届いた瞬間、一気に涙が溢れ出た。
「……ぅぁ……っ」
零れる嗚咽を、両手で押しつぶすように口を押さえた。
そんなわけない。家族のそばにいたいに決まっている。でも、それができないのだ。
「雪」
それは、隣から伸びてきた手だった。悠真が、雪の手と背中に手を添える。それだけで、呼吸が楽になる気がした。
「俺がそっちに行くことはできるんですか?」
ハッと隣を見た。彼は、真っ直ぐな目で、兄を見ていた。
「よくわからないけど、雪はそっちの『中』で過ごしてるんですよね。『外』に出てくるのがダメなら、雪が嫌なら、俺は『中』に入りますよ」
「ゆ、ま……」
情けなく震えながら、雪は手を伸ばす。その手を、悠真はしっかり握ってくれた。
「大丈夫」
雪はもう大丈夫なのに。安全な場所にいるのに。まだ、雪を守ろうとしてくれる。
それが、嬉しくて。同時に、悲しくて。全てを手放して彼だけを選ぶ勇気のない自分が、心の底から嫌いになる。
そんな雪の心さえも、彼は受け止めてくれるのだ。




