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4 優しさの檻


「雪、入るよ」

 それは、兄の声だった。


 いつもと違って閉じていた障子を、兄が開けて入ってくる。

「お兄様……」


 昨夜の父との会話が忘れられなかった。庭に出る気も起きず、寝台に横になっていただけ。

「朝食の時に様子がおかしかったから、気になったんだ。元気がないね」

 兄はいつも通りの優しい声で、そっと雪の額に手を当てる。体調が悪いのかと心配してくれているのだろう。


「父上と何かあった?」

 兄の観察力では、そこまでわかるのか。ただ一度、今朝の朝食の時にぎこちなかっただけなのに。


「……お兄様」

 体を起こす気力もなく、雪はそっと呼びかけた。


「外に、出てもいい?」


 兄の意見を、父が無視できないことは知っている。当主とその後継者。力関係は父の方が圧倒的に上ながら、兄の優秀さを認めているのだろう。


 だから、この質問はずるい。父に認めてもらえなかったことを、兄に認めさせようとしている。兄が認めてくれた、ということを盾に、父に話しに行こうとしている。


「父上はなんて?」

 そう。そんな簡単にいくはずがない。兄は優秀だから、父の決定を覆すことは言わない。


 答えたくなくて、枕に顔を埋める。それで答えがわかったのか、兄の手が頭を撫でた。


「雪は、ここが嫌?」


 それは違う、と首を振る。大好きだ。痛いことも、危ないこともない。みんな優しくて、温かくて、居心地がいい。だから、困るのだ。


「違うんだね」


 兄の声が、優しい。それなのに、胸に刺さる。


「だったら、僕はここにいてほしいかな」


 痛い。痛くて、苦しくて、涙が出てくる。


「それでも、外に行きたい理由はある?」


 ここで理由を言えたら、どんなに楽か。兄から父を説得してもらうことだってできるかもしれないのに。


 でも、どう言っていいかわからない。その理由を、この家が認めてくれるはずがないから。


「雪は元々外で暮らしていたからね。この家は窮屈かもしれないね」


 4年間、一歩も出なかった。その間、外に出たいとは思わなかった。それだけ、この場所が居心地のいい場所になっていた。


「違う」

 ふるふると首を振りながら、雪は答える。


「大好きなの」

 この家も、家族も。大好きだから、こんなに苦しいのだ。


「僕も、雪が大好きで、大切な妹だよ」


 最初から「雪ちゃん」と優しく受け入れてくれていた兄のこの言葉は、ずるいと思う。兄に大切にされていたことくらい、雪はもう十分すぎるほど伝わっているのだから。


「父上に相談して、雪に友達をつけてあげようか。綾乃と詩乃に話せないことも話せるような、いいお友達になるといいんだけど」


 それは、この家で働く使用人たちと同じく、忍びの教育を受けた者のことだろう。そんなの、友達とは言わない。父に報告されるとわかっていて、姉や妹に言えない内容を話せるはずがないのに。


「いらない」

 友達がほしいわけじゃない。お喋りも、遊ぶのも、姉と妹だけで足りている。


「ひとりにして」

 もう兄の優しさに触れていたくない。そんな気持ちから出た言葉だった。


「わかった。またあとでね」

 兄は出ていった。頭の、兄が触れていた箇所が、途端に冷たくなった。




 それから何度か、雪は父に挑戦した。「外に行きたい」と訴え続けた。でも、理由を話せないせいで、認められることはなかった。


 そうしているうちに、「約束の日」が来てしまった。




「……ごめんなさい」

 静かにこぼす、ひとこと。書き置きを残し、鞄を持つ。


 ここで与えられたものを、持っていきたくはなかった。だから、荷物は最低限。もう二度と戻ってこないつもりで。


 明日の朝には知られるだろう。朝食の席にいなければ、誰かが呼びにくるだろうから。それまでに、できるだけ遠くへ。霧崎家の手が伸びないところへ。


 雪の手には、小さな小銭入れ。

『何かあったら、使って』

 そう言って、多くはないお小遣いを全額くれた、あの人。


 幸せになる。そう決めたはずなのに、今は幸せな気持ちになれない。


 4年前、あんなに待ち遠しかった日なのに。4年間で変わってしまった。


 そうして雪は、夜の闇の中に溶けた。


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