2 やさしい味
その日、部屋の前の膳に置かれていたのは、包装されたおにぎりだった。
誰の手もつけられていない、安全な食べ物。食べ慣れたそれに、久しぶりにお腹が鳴った。
一口かじれば、お米の甘み。二口かじれば、梅干しの酸味。気づくと、全部なくなっていた。
この家の人は、雪が思っているよりずっと、優しい人なのかもしれない。
小さなペットボトルのお茶の苦味が、胸の中のかさぶたに沁みた。
それは、夜の闇に染まった部屋の中。燭台の使い方がわからず、真っ暗な闇の中で寝台に横になって天井を見つめていた。
ここにきて起こるのは、不思議なことばかり。そのすべてが、今までの雪の人生では考えられないこと。
本当にこんな世界があるのだろうか。全てが優しくて、温かくて、いい世界なんて。
そんな時だった。
「父上?」
それは、廊下から聞こえた声だった。兄が近くにいるのだろうか。それに、父も。
「もう休んでいるのでは?」
寝台から立ち上がり、いくつか部屋を越えて、廊下に接する部屋の障子を開ける。
「起きてます」
目の前に父が立っていた。
「ちょうどよかった。父上からお話があるみたいだよ」
いつからいたのだろう。気配を感じなかった。兄や姉妹のように声をかけてくれればいいのに。まさか、どう声をかけていいかわからず困っていた、なんてことはないだろう。
「なんですか?」
もう恐怖も警戒もなかった。ただ自然と、見上げた。
「……これを」
渡されたのは、小さなアルミ缶だった。
「……?」
よくわからず、開けてみる。中に入っていたのは、クリームだった。
「傷に塗りなさい」
「……!」
雪の手足が傷だらけということを、知っているかのように。雪の過去を、知っているかのように。
それだけだ、と言わんばかりに、父は遠ざかっていく。よくわからず、雪がその背中を見つめていると、ぽん、と頭に手を置かれた。
「よかったね」
その手は、兄のものだった。
「夜更かしせずに、早く寝るんだよ。おやすみ」
ただ、それだけ。何度か頭を撫でた兄もまた、去っていく。
よくわからない。でも、不思議と、怖くない。
夜空に浮かぶ月が、雪の顔を照らした。
「雪姉様」
障子を開けて庭を見ていた雪の前に、妹が座った。
「いいお天気ですね」
「……はい」
どう答えていいかわからず、ただ小さく頷く。
「お庭の池に、鯉を泳がせているんです。よかったら、見てみてください」
庭に池があるのも、そこに鯉がいるのも、考えられない。少し気になる。
「それでは、ごきげんよう」
何をしにきたのだろう。特にこれといった用事もなく、彼女は去っていく。
ここに来て、傷つけられることがなくなった。手足の傷も、増えることなく消えていく。だから、わからない。そんな世界を、雪は知らないのだ。
そっと部屋を出てみる。つん、と鼻をついたのは、金木犀の香り。どこかに木があるのだろうか。廊下を静かに歩いてみる。
厳かな和の空間に、TシャツにGパンはふさわしくない。妹のような鮮やかな着物か、姉のような上品なワンピースじゃないと、この場所は歩けない。
途端に恥ずかしくなって、来た道を引き返そうとしたところで、
「雪ちゃん?」
兄に出会ってしまった。
「お散歩かな。いい天気だから、気持ちいいよね」
「……すみません」
誰にも見つからず、帰ればいいと思っていた。勝手に出ていいはずがない。それなのに。
慌てて引き返そうとする雪を、
「雪ちゃん」
優しい声が引き留めた。
「そういえば、まだ家の中を案内してなかったね。時間があるなら、少し一緒に歩いてみない?」
それはまるで、自由に動いていい、と言われているようで。自然と頷いていた。
奥の間といわれる家族の居住スペースだけで、いい運動になるくらいには広かった。いろんな部屋があって、広い庭があって。
しばらく歩き回って、美味しそうな匂いが漂い始めた頃、
「ここは厨房だね」
と兄が言った。
「次に行こうか」
兄はさらりと流そうとした。でも、雪は気になった。少し覗いてみると、たくさんの人がいた。
「雪ちゃん、気になる?」
その問いに、どう答えていいかわからなかった。ただ、ご飯の炊ける匂いを、美味しそうだと思った。
「……少しだけ、見ててもいいですか?」
「うん、いいよ」
雪の問いに、兄はすぐに答えてくれた。離れていくかと思ったのに、ずっと隣にいる。それが、不思議と嫌ではなかった。
「好きなご飯はある?」
兄のその問いも、無理に紡いだものではなく、自然なものとして耳に入ってきた。
「オムライス」
静かに答えていた。
小さい頃、母が作ってくれたもの。唯一といってもいいほど数少ない、楽しかった食卓の思い出。
「そっか」
小さく返された言葉に、ハッとした。
「……ごめんなさい」
自然にこぼれた言葉を、慌てて訂正する。この家に、そんな洋食っぽいものは似合わない。
「どうして謝るの?」
きょとん、と。本当にわからないといった表情。
「好きなものは、好きって言っていいんだよ。大事にしたいもの、苦手なもの、嫌いなことも、全部教えてほしいんだ」
そんなこと、初めて言われた。誰も教えてくれなかった。じんわりと胸に広がっていく熱の正体を、雪は知らなかった。




