15 紅茶の香り
「おはようございます」
その場に正座し、深く頭を下げる。
「あぁ」
それに返ってくるのは、父の低い返事と
「おはよう、雪」
と爽やかな兄の返事。
5年近く繰り返してきたこの丁寧すぎる朝も、すっかり日常となってしまった。
雪の席は兄の隣。兄妹の順番的にどちらかというと下座だ。でも、そんなことはどうでもいい。
「よく寝れた?」
「はい。すごくいい夢を見ました」
「よかったね」
そんな会話をしながら、姉と妹を待つ。
起きた人順にこの部屋に集まってくる。本当なら当主である父は最後の方がいいのだろうが、朝食前から仕事をしているため、早起きでは誰も父に勝てないと思う。
「お兄様、寝不足ですか?」
ほんの少しだけ垣間見えた疲労の色に、雪は心配そうに眉を寄せた。
「少しね。大丈夫。あとで軽く仮眠するよ」
「ちゃんと寝ないとダメですよ。お仕事が忙しいのはわかりますが」
そんなことを話していると、
「詩乃です」
と妹が入ってきた。
「おはようございます、お父様、お兄様」
「あぁ」
「おはよう、詩乃」
今日も綺麗な着物姿。ほんの少しも乱れていないのがすごい。雪なんて、朝はだるくて洋服を着るのが精一杯なのに。せめてと、ちょっと綺麗に見える服を選んではいるが。
「おはようございます」
間もなく入ってきた姉は、雪や詩乃とも段違い。朝の眠気を感じさせない、明るい表情。朝からきちんとメイクをしているのだ。
綾乃のすっぴんは、誰も見たことないのではないか。朝食の時から寝る前まで、奥の間でも、自室でも、きちんとよそ行きの姿をしている。
全員が揃うと、使用人たちが朝食の膳を運んでくる。
「まぁ、嬉しい。今日はだし巻き玉子がありますね」
卵料理が好きな詩乃が、嬉しそうに声を上げる。
「はしたないわよ、詩乃。静かになさい」
それをそっと窘めるのが、詩乃の隣にいる綾乃。朝は少しだけ不機嫌なのか、こうして注意されることが多い。
「詩乃、わたしのもあげようか」
雪がそう言うと、
「いいのですか?」
詩乃はお皿を持っていそいそと歩み寄る。かわいらしい。
厳かな儀礼的な朝食ではない。家族しかいない、ただの朝の一場面。だからこんなことが許されるんだと思う。
でも、喋るのは雪と詩乃だけ。たまに兄が口を挟むくらいで、父はもちろん姉も食事中はほとんど喋らない。
ご飯とお味噌汁、だし巻き玉子と漬物、というシンプルな和の朝食を終えた後、使用人が膳を下げに来る。
「蒼梧の婚約者を決めた」
それは、突然の父からの言葉だった。
「そうですか」
姉が静かにそう返し、その場で兄に向けて頭を下げる。
「おめでとうございます」
兄も22歳という年齢。少し若い気もしなくはないが、結婚してもおかしくはない歳だ。
「おめでとうございます、お兄様」
「お兄様、おめでとうございます!」
雪と詩乃もそれに続き、
「ありがとう」
と兄が答える。その声に、少しだけ疲れが見えた。
「それで、どなたなのですか?」
姉の問いに、父が口を開いて、一瞬止まった。まるで、言葉に迷うように。こんな父は珍しい。
「外の人間だ」
そうして吐き出された言葉に、空気が凍りついた。
「高野という神職の家の娘を迎える」
「反対です」
姉が即座に声を上げた。
「お兄様はいずれ忍びを統率するお方。その伴侶が忍びを知らないなど、ありえません」
外の人間は、忍びのことなんて何も知らないだろう。姉の反応から察して、外から嫁を迎えるというのは、きっと異例なことだ。
「学ばせればいい」
「そういう問題では」
「綾乃」
さらに続けようとする姉を止めたのは、兄の静かな声だった。
「これは父上がお決めになったことだ」
「……お兄様は」
その時、詩乃の声が不安そうに震えていた。
「お兄様は、それでよろしいのですか?」
兄を心配してのことだろう。
「僕は僕の役目を果たすだけだよ」
静かな、覚悟の決まった声。反論なんて、できなかった。
「今日、側近を集めて話を聞く。その時までに意見をまとめておくように」
父はそう言い残して出ていった。後に残された兄妹たちは、重苦しい空気の中、身動きができなかった。
「詩乃」
雪は妹に話を聞きにいった。
「教えてほしいんだけど」
「はい」
その言葉には、やっぱりいつものような元気はない。
「外からお嫁さんが来るって、ダメなことなの?」
「ダメ、というわけではありません。ただ、前例がほとんどないのは確かです」
詩乃の静かな答えに、雪は少し考えた。
「詩乃は、外から来たお嫁さんは嫌?」
「いいえ。雪姉様とも仲良くなれましたし、お父様が選ばれたのですからきっといい人です。お兄様の奥様になるお方なら、仲良くしたいと思います」
詩乃らしい答えだと思った。でも、きっとそれだけではない。暗く沈む詩乃の声に、雪の方も苦しくなった。
「お兄様のお考えがわかりません。保守的というわけではありませんが、お父様の決定だからと全て受け入れるのは、お兄様の悪い癖なので……」
後継者として、だろうか。兄に自分の意見というものを感じたことは、あまりない。いつも父の意見に同意してばかりだ。
「霧崎というお家も大切ですが、わたしは、このお話に関してはお兄様のお気持ちを大切にしたいと思います」
詩乃がいつものように無邪気に喜ばないのは、兄の複雑な気持ちを感じ取ってのことなのだろうか。
続いて、姉の部屋を訪れた。
「お姉様、雪です」
「……入りなさい」
姉の返事を聞いて、障子を開ける。フルーティーな紅茶の香りがした。
和の空間に、少しだけ洋を取り入れたレトロな内装の中、椅子に座る姉の手元にアンティークなティーカップがあった。
「……この家で紅茶の匂いを嗅ぐなんて、思っていませんでした」
なんとなくそう呟いた雪に、
「似合わないわよね」
姉が静かに答える。少しだけ元気がないように聞こえた。
「お姉様らしいです」
雪がそう答えると、姉は少しだけ驚いて雪を見た。
「お姉様、お聞きしてもいいですか?」
雪は軽く目を細める。
「どうしてわたしを受け入れてくださったのですか?」
この疑問は、姉にとっては意外だったらしい。凝視するように雪を見て、少し視線を逸らす。
「……お父様とお兄様が受け入れていたから」
姉の返答が、少し意外だった。
「初めてお会いした時、嫌われていると思っていました」
「嫌いだったわよ。外から来た人間を奥に入れるなんて、聞いた事なかったもの。絶対に反対だった」
それはきっと、雪自身への批判というより、家を守るための防衛反応のようなものなのだろう。
「お姉様の、霧崎のお家を大切にされるところ、わたし、大好きです」
「……あなたのそういうところ、呆れるわ」
嫌味なのだろうか。でも、嬉しい。こんな会話ができることが。
「最初は同情だったわ」
「……はい」
姉の言葉に、雪は頷いた。
「お父様とお兄様のお話を聞いてしまって、あなたの過去を知ったの。かわいそうだと思った。外で生きていけないなら、この家で保護してあげるべきだって。まるで野良猫みたいにね」
「にゃあ、って鳴いた方がいいですか?」
ちょっとおどけてみたら、姉が頭に手を伸ばす。なんだろう、とじっとしていると、パチンとおでこを弾かれた。
「いたい……」
額を抑えながら、雪は姉を見る。その顔は、微笑んでいた。
「あなたが霧崎の家について知りたいと言った時、反対だった。ただ何もせず、大人になったら出ていってほしいと思っていたから」
姉の本音を、初めて聞いた気がした。
「でも、あなたの目が、真っ直ぐだったから。知識欲、というのかしら。知りたいという感情に、蓋をするべきではないと思ったわ」
「だから、教えてくださったのですか?」
あの時、雪は姉や妹に、霧崎家のことや忍びのことを教えてもらった。綾乃とはまだ親しくなる前で、姉妹というよりは教師と生徒のような関係だと思っていた。
「いつの間にか、霧崎の娘として恥ずかしくない子になっていたわ」
姉のその言葉が、嬉しい。
「わたし、お姉様の妹になれてよかったです」
過去への同情から始まったとしても、今は違う。暗い過去を持つ雪ではなく、霧崎白鴉として胸を張って生きていける。
「お母様は忍びだったわ」
姉がそっと呟いた。
「お祖母様も、ひいお祖母様も。元々忍びで、霧崎に仕えていた人間だったの。既に忠誠を試されていて、絶対に裏切らないという確証のもとで選ばれたのよ」
秘密が多いこの家の内側に、外から人間を入れるという大きな決断は、きっとそう簡単にできることではない。
「……裏切るかもしれない人間を、その可能性がわずかでもあるかもしれない人間を奥に入れるのは、反対よ」
家を守ろうとするからこそ。姉のその言葉は、硬く震えていた。




