14 清めの雨
じんわり肌に貼りつく湿気が充満する。何の模様もない無地の黒い着物に身を包んだ。
いつの間にか、着物の着付けがひとりでできるようになっていた。帯も帯締めも全てが黒で統一された喪服のような着物が、重く肩にのしかかる。
その重圧が、しっかりと自分を感じさせてくれた。鏡の前に座り、狐面をつける。真っ黒な着物に、白い狐が浮かび上がる不気味さ。そして、その狐の頬に咲く白梅のかわいらしさ。思わず、ふっと笑みがこぼれた。
「これより雨禊を始める」
父の号令で、庭に出た忍びたちが座禅を組む。
「闇は我らの住処であり、影の中に真を見る。闇を恐れず、光を恐れず、ただ影の道を歩め」
雨禊の儀。この儀式は、そう呼ばれると言う。
雨の中、忍びたちが庭で座禅を組む。雪はそれを内側から見守るだけ。
『わたしたちはやらなくていいのですか?』
雪の問いに、姉は
『わたしたちは忍びではないもの』
とあっさり答えた。あくまでも忍びを従える立場。それが、本家の人間の立ち位置だ。
表の広くなった縁側に、父を中央にして、左右に兄と姉、そして雪と妹が並ぶ。
雨が庭石を打つ音だけが響く、静かな空間。話し声も、衣擦れの音さえも、なかった。
一時間、二時間、と音のない時間が過ぎていく。雪は正座したまま、じっと過去に思いを馳せた。
つらいこと、苦しいこと、悲しかったことも。全てが、雨に洗い流されていくようだった。痛みも、苦しみも、全てが過去のことだと言わんばかりに。
ざぁっと風が吹いた。そっと瞼をあげると、そこには何十人という忍びたち。
忍びの一年間で最も大切な儀式というだけあって、かなりの人数がいる。これが、忍びとして実務に就く人々。後方にはまだ忍びになっていない訓練生もいるが、それでもすごい数である。
若くて体力がある人ばかりかと思った。年長者でも、父と同じ壮年期くらいの男たちだろうと。
しかし、目の前には、父よりもはるかに年を取った老婆もいた。女も、男も、関係ない。若くても、年老いていても、関係ない。ここにいる全員が、忍び。
彼らを従える場所にいる。それだけの力がある。雪に足りないのは、その力に見合う器だろうか。
父のようにどっしりと構え、兄のように冷静に周りを見、姉のように凛として前だけを見据える。そんな姿勢が、雪にはきっと足りていない。
そうなりたい、と思った。父のように。兄や姉のように。忍びの宗家の娘としてふさわしい人間になりたい。
父がそばの鈴に手を伸ばした。大きな鈴が、カラン、と軽やかな音を立てる。
「影に生き、影に死す。影とは命を捨てることにあらず。影とは、生の奥に真を見つめることだ」
儀式終了の合図。
「忍びの血、ここに清まる」
その瞬間、ピンと張りつめていた糸が、ふっと緩んだ。それを合図に、姉が席を立つ。雪と詩乃もその後に続く。
これは、儀式とは別。でも、霧崎家の女性の慣例だと教えられた。
白い陶器の瓶に入れられたお酒の前に、忍びたちが列を作る。中身は、お酒。雨で冷えた身体を温めるため、度数は高いという。
「お疲れ様でございます」
ひとりひとり、そう声をかけながら、彼らが持つ盃に酒を注ぐ。
詩乃だけは、未成年用の温めた甘酒。訓練生には雪よりも年下の子どもたちも多かった。甘酒をジュースのように美味しそうに飲む子もいた。こんなに小さいうちから忍びとしての修行を始めるのか。
「お疲れ様でございます」
「ありがとうございます」
全員が黒装束。白い盃だけが、人魂のように浮かんでいるようだった。
全員にお酒を配り終わり、3人並んで一礼してその場を去る。渡り廊下を通り、奥の間へ。
「お疲れ様」
待っていたかのように、兄が声をかけてくれた。
「お兄様も」
姉がお面を外しながら答える。雪も頭の後ろの紐に指をかける。すっと引いてお面を外した瞬間、全身がバランスを崩してその場に座り込んだ。
「雪!」
慌てて兄が支えてくれる。
「大丈夫?」
「……足が、しびれました」
じりじりと電気が走るような痛みに、雪自身も驚いていた。今まで感じていなかったのに。
「気が抜けたんだね」
兄が笑いながら雪を抱える。
「下ろしてください、お兄様」
「歩けないだろう? 部屋まで我慢して」
この年になって兄に運ばれることになるとは。
「ふふ。雪姉様、かわいらしい」
コロコロと笑う妹に、
「情けないわね。もう少し鍛錬なさい」
呆れる姉。恥ずかしくて、でも、嬉しくて。
「お兄様」
「ん?」
兄の首に手を回し、肩に頭を預けた。
「わたし、この家の子どもになれて、幸せです」
「そっか」
特別な反応はなかった。まるでそれが当たり前とでも言うかのように。その温かさが嬉しくて。
雨が運ぶ湿っぽい水の匂いが、ツンと鼻にしみた気がした。




