13 柚、遠く
梅雨に入る時期、霧崎家では年間で最も大切な儀式を行う。
それが今年も始まると聞いたのは、数日前のこと。屋敷内の儀式の時にしか使わない、無地の黒い着物に風を通し、お面を丁寧に磨く。その間にも、姉や妹とお喋りを楽しんで。
父に呼ばれたのは、そんな時のことだった。
「お父様、白鴉です」
表の広間に、雪はひとりで入る。姉も妹もいない。でも、父と兄がいた。そして、もうひとり。
「……っ」
思わず、飛びつきたくなった。でも、ぐっと我慢した。それは、この半年で、雪も変わったから。
名前をもらい、仮面をもらい、黒い着物をもらった。この表の場で、霧崎の名にふさわしくない行動はできない、と瞬時に判断した。
「お呼びでしょうか」
少しだけ、声が震えていた。久しぶりに会えた喜びを、精一杯抑えた。
上段に座る父の前に正座し、静かに頭を下げる。
「香月くん、話してあげて」
兄が父の代わりに許可を出す。雪は静かに彼の方を見た。彼は、なぜか驚いていた。綺麗な黒い瞳を、丸く大きく見開いて。
「香月くん?」
「あ、はい」
一瞬の間が空いて、悠真が返事をする。
「ご当主様に大学に通うお許しをもらったんだ」
優しい声。前と変わらず。久しぶりのその声を、全身が喜んでいる。
「大学?」
上ずる声を、必死に押さえつけた。
「高校までアメリカにいただろう? あっちでいろんな国の人と話してたから、ちょっとだけ得意でさ。忍びの世界でも外国語って大事だから、より多くの言語を学んで、教えられるようになろうかなって」
「……そっか」
彼らしい、と思った。それが彼の夢なら、雪だって応援したい。
「忍びにはならないの?」
「基礎訓練は終わったし、ここから先はいつでもいいって言っていただいたんだ。忍びになりたい時に学べばいい。それまでにやりたいことがあるなら、そっちを優先していいって」
勤勉で知識欲が強い彼のことだ。きっと一生懸命悩んで、そう決めたのだろう。
「応援する」
雪は静かに答えた。
「悠真がやりたいことを、頑張って」
「……うん」
その返事に、ほんの少し間があった。
「白鴉も、それでいいね?」
兄が確かめる。
「悠真がそう決めたのなら、わたしに反対する気はありません」
しっかりと答えた。自分の意思に迷いなんてなかった。
「影名の授与は、どうする? 婚約者という形なら、すぐにでも可能だけど」
「いえ」
雪が答えるより早く、悠真が答えていた。
「俺は、まだ忍びとしても人間としても一人前ではありません。彼女にプロポーズをする資格はないと思っています」
そんなことはないのに。彼がどんな人物であっても、雪は受け入れる気でいるのに。
「わかった。じゃあまた今度ね」
兄がそれを受け、父を見る。父も無言ながら頷いて同意した。
「じゃあ、香月くんは戻っていいよ。大学の課題もあるだろう」
「ありがとうございます」
一度深く頭を下げて出ていく彼の背中が、なぜか曇って見えた。仮面を通して見ているせいだろうか。目元を軽く拭いてみると、もうそこに彼はいなかった。
「白鴉」
兄の呼びかけに、ハッと顔を上げる。
「大丈夫?」
「はい」
どうしてそう聞かれるのか、わからなかった。
「それならいいんだ。忙しかった?」
「いいえ。儀式の準備をしていただけなので」
「そっか。もうすぐだからね。奥に戻っていいよ」
「はい」
その場で頭を下げて、雪も広間を出ていく。
奥に続く扉を通り抜けたところで、ふと足を止めた。柚の香りが、すーっと遠ざかっていく気がした。




