12 願い事
「えいっ」
詩乃が桜の花に手を伸ばす。
「危ないよ、詩乃」
その姿をハラハラしながら見ていると、
「あ、できた!」
詩乃が嬉しそうに手を挙げた。
「雪姉様、見てください! 捕まえました!」
「お願い事、した?」
「あ、ちょっと待ってくださいね」
片手で桜の花びらをつかまえられたら願いが叶う。そんな小さい頃に聞いた噂話を聞かせてあげると、詩乃ははしゃいだ。庭に出て桜の花と格闘して、ようやく一枚目。
本当に叶うのだろうか。そんなことを思いながら、花びらを両手で包んで願う妹の姿を見る。
「何をお願いしたの?」
春の終わりを知らせるように舞う花びらの中、日常は変わらない。ようやく温かくなってきて、何かと引きこもりがちだった姉妹が庭に出るようになったくらいだ。
「ふふ。秘密です」
「えー、もう」
くすくす、と笑い合う。
雪がこの家に来てもう4年半が経とうとしていた。詩乃や綾乃と実の姉妹のように過ごし、蒼梧を実の兄のように慕う。この環境で生きていられるのが、幸せだった。
「……ふふ」
柚の香りが焚きつけられた手紙に、雪は静かに笑みをこぼす。渡り廊下の扉を抜けて、狐面を外した。
もう月があがっていた。家族はもう寝ている。
本当なら部屋でもいいのに。少しでも彼のそばにいたくて、表に出ていた。白猫を使って、何往復かの手紙のやりとり。
基礎訓練に慣れてきたとか、それでもきつい、とか。彼からの手紙にはそんな言葉が書かれていた。それでも雪のために頑張る、と。
雪の方は、今日は何があったとか、ご飯がおいしかったとか、そんなもの。他愛のない会話が、楽しくて。頑張って、と応援する言葉を贈った。
「父上」
その時、兄の声がした。
もう夜も遅いのに、まだ父と兄は起きているのか。仕事中かもしれない。障子の隙間から漏れ出る灯を気にしながら、足早に通り過ぎようとする。
「雪の母親は、なんと?」
ふと、足が止まった。母親? もう離れて4年以上も経っているのに、何か交流があるのだろうか。
どうしても気になってしまった。足が動かなくなって、息を殺す。
「……14年間の養育費を要求している」
「渡すのですか?」
養育費? お金の話か。
母親らしい、と思った。ギャンブルが大好きで、娘がどんな目にあっていても、お金のことだけを考えていた母親。
「雪に関わらないことを条件にしている。脅しのつもりだろうが」
雪に会わせたくないならお金をくれ、ということか。なんて最低なんだろう。
「お父様」
障子の外から声をかけた。
「雪です」
すると、返事の前に障子が開けられた。
「雪、まだ起きてたの?」
兄だった。
「早く寝なきゃダメだよ。まだ寒いんだ。温かくして」
羽織の前を重ねる兄に、ちょっとだけ微笑んで。
「申し訳ございません。お話が聞こえてしまったので」
はっきりそう告げた。ここで聞こえなかったことにはしたくない。
「お父様、母の件、わたしに任せてくださいませんか?」
お金なんて、一円たりとも渡さない。父に任せていると、渡してしまうかもしれない。それだけは、避けたかった。
「ダメだよ、雪」
しかし、兄が答えた。
「これは父上に任せてほしい。雪には関わってほしくないんだ」
「でも、わたしと母の問題です」
それでも食い下がる雪に、
「雪」
と呼んだ兄の声は、静かに落ち着いていた。子どもをなだめるようなその声に、雪は固まった。
「ごめんね。これだけは、雪の意見を聞いてあげられないんだ」
「……どうして、ですか?」
いつだって意見を聞いてくれた。尊重してくれたし、可能なら取り入れてくれた。でも、今回は聞いてもくれないらしい。
「雪をもう二度と傷つけたくないから」
それは、強い意思のこもった言葉だった。
「雪ももう子どもじゃない。それはわかってる。でも、まだ一緒に暮らし始めて4年。雪を大人として送り出すには、こちらの準備ができてないんだ」
あくまでも父と兄のせいだと言うように。雪を守るため、と言ったくせに。
「……わかりました」
兄の意思は、父の意思。きっと父も、兄と同じ意見なのだろう。
「雪」
そう思って引き下がろうとした時、父の声が雪を止めた。
「お前の願いを聞くことはできる」
あぁ、そうか。なんて優しいのだろう。
「これは、わがままですが」
そんな彼の前だからこそ。実の父じゃない。血縁上ではあくまで異母兄だとしても。この4年、彼を父として信じてきた心が、嘘をつかせてくれない。
「お金は、渡さないでください」
しっかりと芯の通った声で告げた。
「一度あげたら、二度三度と要求します。お金を渡して全て解決することはありません。わたしのためを思うなら、どうか、この家のお金を母に使わないでください」
この家のお金は、一日二日働いてどうにかなるものじゃない。長い時間をかけて、たくさんの人が関わって築かれた財産だ。それを、母のために使うなんて、我慢できない。
「わかった」
父は頷いてくれた。そのことに、雪は安堵した。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた。
「話は終わったね。早く寝るんだよ」
「はい。おやすみなさいませ、お父様、お兄様」
障子を閉め、雪はそっとその場を去る。
淡い月明かりの下、少しだけ感情が曇る。もし、4年前に戻ったら。あの母のもとで暮らすとしたら。
絶対に嫌だ。ここがいい。父は、そんな雪の気持ちを、察していたのかもしれない。
手元の手紙で口を覆う。すっと息を吸うと、柚の香りが肺を満たした。
幸せの香り。今の雪を応援してくれる人の存在を感じて、心のもやが晴れる。
「大丈夫」
その声は、冷静だった。
「おやすみ」
月に向けて、その月を見ているはずの人に向けて、そう呟く。闇に染まる世界が、心地よかった。




