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1 薄明の家


「助けてください」


 闇に染まる一歩手前、薄暗い中、公衆電話の光が照らし出す。その姿は、まだ小さく、弱い。

 それでも、彼女の瞳には、確かな覚悟が宿っていた。




「娘を引き取った」

 それは、地を這うほど低い声だった。隣から聞こえたその声に彼女は顔を上げることもなく、ただ静かにその空気を受け止めた。


「ご説明いただけるのですよね?」

 静かな声でそう答えたのは、上座に座った女性だった。


「必要ないだろう」

 しかし、隣の男はろくな説明もする気はない様子。居心地が悪いのは、彼女の方なのに。


「父上」

 そんな張りつめた空気の中に優しい風を入れたのは、上座の男性だった。


「その子は、霧崎家の血縁ということでお間違いありませんか?」


 的確な問いに、

「あぁ」

 隣の男が頷く。


 実の父親じゃない。彼女の実の父親は、死んでいた。その息子、つまり彼女にとっての異母兄が、これからの父親。そんな複雑な関係を、全く説明しないつもりなのか。


「承知いたしました。それでは、奥の一室を使ってもらいます。他に我々が知っておくことはありますか?」

「ない」

「かしこまりました」


 この場には、他にも人がいるのに。喋ったのは、この3人だけだった。




「名前を聞いてもいい?」


 部屋に案内される途中、あの時口を挟んだ優しそうな男が聞いてきた。彼女よりも年上。しかし、若い。あの男を「父上」と呼んだところから考えると、この人は彼女にとっての「兄」になるのだろう。


「ユキ」

 つぶやくように返した。

「篠原雪」


「雪ちゃんだね。僕は霧崎蒼梧。兄になるのかな。好きなように呼んで」

 優しそうな笑顔。それは、まるであの人のような。

 一瞬緩みかけた心を、慌ててきつく締めあげる。油断してはいけない。もう二度と傷つかないために。

 ここは、一時的に身を寄せるだけの場所。ここに慣れ親しむ必要はないのだ。




 いったいどんなところなのだろう。そう気にならないはずはなかった。


 広い庭園に、和室。何部屋も続いていて、そのすべてを好きに使っていいと言われた。しかし、どこにいていいかわからず。


 唯一わかったのは、最奥の部屋。和風な造りのベッドが置いてあったため、そこが寝室だと思う。必要なのは、ここだけだ。


「お食事をお持ちいたしました」


 廊下から声が聞こえる。それには応えずに、息を殺してじっと待つ。やがて廊下から人の気配が消えてから、障子を開ける。そこには、漆塗りの食器が並んでいた。


 見るからに手作り。それから思い出されるのは、かつて実母とその恋人が与えた食事。

「……うっ」


 途端にこみあげてくる吐き気を、口を押えてぐっとこらえる。障子を閉め、寝室に戻った。

 食べたくない。誰かの手が入ったものなんて。何が入っているのかわからないのだから。


 しばらくして、

「お姉様、シノです」

 それは、軽やかな少女の声。


「入ってもよろしいですか?」

 雪よりも年下なのに、大人のような丁寧な言葉遣い。この家で大切に育てられているから。


 返事はしなかった。生きている世界が違う。こんな豪華な家で育った子どもと親しくなれるはずがないのだから。


「お休み中みたいですね。また来ます」

 その声は、残念そうにそう告げて、気配が消えた。




 学校に行け、と言われないのはよかった。本来、14歳の雪は中学校に通う年齢。でも、元々通っていた学校は遠くなってしまったし、この近くの学校に通うにしても人間関係を最初から構築するのは難しい。


 友人なんて、いらない。家族なんて、必要ない。信じられるのは、ただひとりだけ。その人が迎えに来るのを、ただじっと待ち続けた。




「いい加減にして!」

 金切声が響いたのは、それから間もなくのことだった。


 突然雪の部屋に入ってきた女性、雪の姉にあたる綾乃が、雪を責める声だった。


「引きこもるなら、なんでこの家に来たのよ! 何もしないなら出ていって!」

 こういう時どうすればいいか、雪は知っていた。


 耳を塞ぎ、目を閉じる。本当なら押し入れの中とか安全なところに隠れる方がいいが、それができなければこれだけでも違う。


 大丈夫。何も反応しなければいい。これ以上怒らせなければ、黙っていれば、過ぎていくのだから。そう言い聞かせながら、心臓の音だけが耳に響く。バクバクとうるさい心臓の音は、周りの音をかき消してくれた。


「聞いてるの!」

 その時、雪の手が掴まれた。


「……っ」

 その痛みに、思わず顔をゆがめる。


「あ……ごめんなさい」

 その瞬間、その手は離れていった。


 あぁ、そうか。この人は、きっと優しい人なのだろう。悪い人になりきれない、かわいそうな人なのだ。


 そうわかった瞬間、雪は姉を睨んだ。


「その目は、なに?」

 姉はその挑戦的な目を受け入れるように、じっと見つめ返してくる。


「言いたいことがあるなら、言いなさいよ。聞いてあげるから」

 悔しい。悲しい。腹立たしい。全ての感情が、ごちゃまぜになって。


「……あなたには、わからない」

 気づくと、口が動いていた。


「わからないわよ」

 返ってきたのは、そんな声だった。


「お父様も、あなたも、何も教えてくれないんだもの。わかるわけないじゃない」

 それが当然だと、姉は主張した。それが、腹立たしかった。当然なのに、苛立った。


「知ってほしいなら、わかってほしいなら、ちゃんと話して。何をしてほしいのか、何がしたいのか。それくらい話せる口を持ってるでしょう」


「綾乃!」

 その時、騒ぎを聞きつけたらしい兄と妹が入ってきた。


 相手の味方がきた。こちらが悪になる。そう覚悟した。しかし。

「雪ちゃん、大丈夫?」

 兄は、真っ先に雪に駆け寄った。


「綾乃、声が大きいよ。外にまで響いてる」

「知らないわ」

「そんな大きな声を出さなくても伝わるだろう? 綾乃はそれをわかっているはずだ」

 それは、兄が姉を叱る言葉だった。


 どうして、雪の味方をしてくれるのだろう。どうして雪を叱らないのだろう。異物は、雪の方なのに。


「お姉様、お部屋にお茶とお菓子を運ばせますわ。参りましょう」

 妹は、この部屋から姉を遠ざけようとしている。よくわからなかった。


「ごめんね、雪ちゃん。綾乃は少し興奮してるみたいだ。落ち着いたら謝らせるよ」

 姉妹がいなくなった部屋で、兄は雪を真っ直ぐに見ていた。

「……大丈夫、です」


 そう答えるしかなかった。できるだけ関わりたくない。そう思っているのに。気になる、という感情が先にきてしまう。


 兄は、雪の顔を見て、寂しそうに目を細めて。そっと伸びてきた手に、思わず頭を庇う。

 一瞬、驚いたように止まったその手は、雪の手に添えられた。


「今は、難しいかもしれないけれど」

 静かで、優しい声だった。


「いつか、雪ちゃんの兄になれたらいいな」

 その言葉に滲んだ痛みは、きっと雪が与えてしまっているもの。そう気づいてしまった。


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