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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、桔梗の香りに恋をする―  作者: 初 未来
第二章 浅草六区の幻影

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第9話 其の一:活動写真の誘い

 五月晴れの空が、隅田川の川面にキラキラと跳ね返っている。


「藤木先生、見てください! 川を渡る風が、こんなに涼しいですよ」


 綾子は、鮮やかな水色のパラソルを回しながら、吾妻橋の上で弾むような声を上げた。


 今日の彼女は、健吾が贈ったアメジストの指輪を大切そうにはめ、白地に紫の矢絣やがすりの銘仙に、赤い袴という「女学生風」の装いだ。そんな彼女の三歩後ろを、健吾は腕組みをしながら、相変わらずの三つ揃いの背広姿で歩いている。


「……綾子さん、あまり端に寄っては危ない。それに、日光の浴びすぎは皮膚の角質層に過度な刺激を与えます」


「もう、先生ったら。今日くらいは『お医者様』を忘れてくださいな。今日は、活動写真を見に連れて行ってくださる約束でしょう?」


 綾子が振り返り、いたずらっぽく小首を傾げる。その可憐な笑顔に、健吾の心臓の脈拍数は、医学的予測を遥かに超えて急上昇した。


「……約束は守ります。あくまで、活動写真という『近代科学の結晶』が、民衆の心理に与える影響を観察するのが目的ですがね」


「ふふ、はいはい。観察、ですね」


 綾子は健吾の不器用な言い訳をさらりと受け流し、その腕にそっと自分の腕を絡めた。


「……っ」


 健吾は息を呑み、耳まで真っ赤にしながら、逃げるように浅草六区の喧騒へと足を進めた。


 橋を渡り、雷門を潜り抜けると、そこは別世界だった。


「浅草六区」――帝都随一の興行街。立ち並ぶ活動写真館の看板には、大げさな筆致で主演俳優の名が踊り、蓄音機からは最新の流行歌が鳴り響いている。香ばしい揚げ饅頭の匂いや、屋台の煮込みの香りが、文明開化の熱気と混ざり合って、訪れる人々を酔わせる。


「まあ……! 先生、あちらの看板は何でしょう?」


「あれは凌雲閣、通称『十二階』ですよ。帝都で一番高い建物です」


「すごい……天まで届きそうですわ」


 初めて見る浅草の情景に、綾子の瞳はまるで少女のように輝いている。健吾は、そんな彼女を守るように人混みをかき分けながら、内心で「もしこの人混みで宵闇が暴れ出したら、どう理屈で説明したものか」と、戦々恐々としていた。


 幸い、今、綾子の背後の影は静かだ。指先の指輪が、彼女の精神を安定させているのか、あるいは「宵闇」自身も、この賑やかな浅草の空気を楽しんでいるのか。


「さあ、着きました。ここが本日の目的地、帝国活動写真館です」


 健吾が指し示したのは、白亜の殿堂のような洋館。


「今、一番人気の『白百合の純情』という映画を上映しているそうです。……まあ、私は恋愛劇などという非合理な物語には、興味がありませんが」


「あら、先生。わたくし、その映画、ずっと気になっていたんです! 嬉しい……!」


 綾子が健吾の手をギュッと握る。その瞬間、健吾の「恋愛劇には興味がない」という建前は、音を立てて崩れ去った。


 劇場の中は、外の喧騒が嘘のように暗く、静まり返っていた。


「足元に気をつけて」


 健吾は、綾子の手を引いて席に案内した。二人の距離が、必然的に近くなる。やがて、カタカタと映写機の回る音が響き始め、前方のスクリーンに光が放たれた。


「……あ」


 綾子が小さく息を呑む。 光と影が織りなす、白黒の世界。美しい令嬢と、彼女を守る騎士のような青年。弁士の熱っぽい語りと、ピアノの生演奏が、観客を異世界へと誘っていく。


「先生、すごいです……。影が、生きているみたい」


「……ええ。一秒間に十六枚の静止画を連続して映し出すことで、残像現象を利用し、動いているように見せているんです。人間の脳の錯覚を突いた、実に合理的な……」


 健吾がいつもの解説を始めようとした、その時だった。スクリーンの端、物語とは全く関係のない場所に、小さな「違和感」が生じた。


 物語の中では、青年が令嬢に愛の告白をする、まさにクライマックスのシーン。だが、令嬢の背後にある窓の影が、不自然に波打ったのだ。映写機の不具合ではない。その影は、スクリーンの中から染み出すように、現実の劇場の壁へと這い出してきた。


「……!?」


 健吾の眼鏡の奥で、鋭い光が走った。それは、彼が嫌というほど見せられてきた、あの「宵闇」の動きに酷似していた。


「先生……何か、おかしいですわ。あそこの役者さんの影が……」


 綾子も気づいたらしい。彼女の指の指輪が、微かに熱を帯び、紫色の光を放ち始めた。


 その瞬間、劇場の客席から悲鳴が上がった。


「……いない! 役者がいないぞ!」


 スクリーンを見上げると、そこには目を疑う光景が広がっていた。さっきまで熱演していたはずの主演俳優の姿が、映像からぷつりと消えてしまったのだ。残されているのは、誰もいない背景のセットと、虚しく響く弁士の狼狽した声だけ。


「藤木、大変だ。……『あれ』が、騒ぎ出しているぞ」


 低い、しかし艶やかな声が健吾の耳元で囁いた。綾子の瞳が、暗闇の中で赤く染まっている。宵闇が目覚めたのだ。だが、今回の彼女は、健吾を翻弄するためではなく、前方のスクリーンを鋭い眼光で睨みつけていた。


「宵闇、何が起きているんだ」


「……同類だな。だが、随分とたちの悪い、遊び好きの小鬼だ。……おい、藤木。あのスクリーンの中に、人間が引き摺り込まれたぞ」


「なんだと……!?」


 健吾は立ち上がった。科学者としての理性が「ありえない」と叫び、男としての本能が「綾子を守れ」と命じ、そして探求者としての好奇心が「真相を暴け」と突き動かす。


 劇場内はパニックに陥り、観客が我先にと出口へ押し寄せようとしていた。だが、健吾は逆行するように、宵闇の手を強く握り、光り輝くスクリーンへと一歩踏み出した。


「……行きましょう、宵闇。私の目の前で、人間が数式を無視して消えるなど、許されることではありませんから」


「ふん、相変わらずの傲慢さだ。……まあよい、藤木。影の歩き方を教えてやる」


 浅草六区の光と影。 二人の、いや、三人の、不思議な事件解決の幕が、今、上がろうとしていた。

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