第8話 指先に灯る紫の誓い
久遠寺邸の離れ。夜の帳が静かに下ろされ、帝都の空が乳白色から薄墨色へと移ろう頃、窓の外では小鳥たちのさえずりが露に濡れた庭園に響き始めていた。
重厚な遮光カーテンの隙間から、一筋の細い朝陽が差し込む。それは、埃の粒を金色に躍らせながら、寝椅子で深い眠りに落ちている久遠寺綾子の頬を優しく撫でた。
「……ん、……」
綾子は、微かな吐息とともに長い睫毛を震わせた。意識の輪郭が、深い闇の底からゆっくりと浮上してくる。いつもなら、目覚めの瞬間は体が鉛のように重く、逃れられない呪縛に引き摺り戻されるような絶望感があるはずだった。
だが、今朝は違った。不思議と、胸の奥が温かい。まるで、昨夜の夢の中で、誰かに強く抱きしめられていたような、確かな充足感が残っているのだ。
(……わたくし、また眠ってしまっていたのね)
綾子はゆっくりと身を起こした。ふわりと、自分の体から「桔梗」の匂いではない、別の香りが漂うことに気づく。それは、清潔な石鹸の匂いと、微かな薬品、そして……あの藤木健吾がいつも纏っている、厳格でいてどこか懐かしい、知性の匂いだった。
「……あ」
その時、自分の右手に違和感を覚えた。何気なく持ち上げたその指先に、窓からの陽光が反射し、鋭い火花を散らしたのだ。
綾子は、息を呑んで自分の右手を見つめた。そこには、昨夜まではなかったはずの銀の輪が、自らの薬指を優雅に飾っていた。
「……これ、は……?」
それは、繊細な銀細工が施された指輪だった。中央に鎮座するのは、大粒のアメジスト。朝の光を吸い込んで、深い紫色の奥底から星のような煌めきを放っている。
綾子の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。自分の指に触れてみる。冷たい銀の感触が、夢ではないことを告げている。昨夜の記憶を辿るが、彼女の意識は、健吾と一緒に銀座のカフェでパフェを眺めていたところで途切れている。その後のことは、まるでおぼろげな霧の向こう側の出来事のようだった。
(あの後、何があったのかしら……。わたくし、また『あの方』に体を貸してしまっていたの?)
不安が胸をよぎる。しかし、この指輪はけっして禍々しいものではなかった。むしろ、その石の色は、彼女が愛してやまない桔梗の色。そして、指輪をはめられた薬指からは、誰かの切実な「想い」が脈動とともに伝わってくるような気がしたのだ。
「お目覚めですか、綾子さん」
不意にかけられた声に、綾子は肩を跳ねさせた。部屋の隅、椅子に腰掛けて手帳を捲っていた健吾が、眼鏡を押し上げながら立ち上がった。彼の白衣は少しシワが寄り、目の下には微かな隈がある。……どうやら、彼は一晩中、ここで彼女を見守っていたらしい。
「ふ、藤木先生……! ずっと、いてくださったのですか?」
「……主治医として、急激な人格転換の後の予後を観察する必要がありましたから。それより、気分はどうです。吐き気や、記憶の混濁は?」
健吾はいつものように事務的な口調で歩み寄り、彼女の前に膝をついた。だが、その視線が綾子の右手に注がれた瞬間、彼の表情がわずかに硬くなったのを、綾子は見逃さなかった。
「先生……この指輪は、一体……」
綾子は、震える指先を健吾の方へ差し出した。
健吾は一瞬、気まずそうに視線を逸らしたが、やがて観念したように短いため息をついた。
「……それは、昨夜の君が、あまりにも熱心にショーウィンドーを眺めていたから……いや、正確には君の中にいる『彼女』が騒がしかったので、鎮静のために買い与えたものです」
「あの方が……? でも、先生が選んでくださったのですね」
「……医学的な観点から、色彩療法というものがありまして。紫という色は、精神の安定を司る。……君の肌の色に、その、最も適合すると判断しただけです」
健吾の耳が、真っ赤に染まっている。彼は、カバンから聴診器を取り出し、無理やり診察を始めようとした。
「さあ、脈を測ります。手を貸してください」
健吾の手が、綾子の右手を包み込む。その瞬間、二人の間に、昨夜の銀座の喧騒とは違う、しっとりとした静寂が流れた。窓から入る風が、綾子の黒髪を揺らす。
「先生……ありがとうございます。わたくし、こんなに素敵な贈り物をいただいたのは、生まれて初めてです」
綾子の瞳から、一筋の涙が溢れた。
「わたくし、ずっと怖かった。この家系に流れる影が、いつか自分を飲み込んでしまうのではないかと。でも……この指輪をつけていると、先生がずっと隣で、わたくしの手を握ってくださっているような、そんな勇気が湧いてくるのです」
健吾は、彼女の涙を指で拭おうとして、躊躇い、そして意を決したように、その頬に優しく手を添えた。
「……呪いなどという不確かなものに、君を渡すつもりはありません。私が君の指にそれをはめたのは……君を、こちらがわに繋ぎ止めておくための、いわば目印です」
「目印……?」
「ええ。君が闇に沈みそうになった時、その銀の輝きを思い出しなさい。それは、藤木健吾という一人の人間が、君の生存を証明しているという証拠だ」
科学者としての傲慢さは消え、そこにはただ、一人の愛する女性を救いたいと願う、不器用な男の告白があった。
「先生……大好きです」
綾子は、健吾の胸に顔を埋めた。健吾は一瞬、驚いたように体を強張らせたが、やがて諦めたように、彼女の細い背中に腕を回した。
「……心音に異常あり。頻脈だ。……いや、これは私の鼓動か」
健吾の自嘲気味な呟きに、綾子は胸の中で「ふふ」と小さく笑った。
離れの部屋は、朝陽の黄金色に満たされていた。昨夜の「宵闇」の気配は、今はこの指輪の紫色の石の中に、静かに閉じ込められているかのように穏やかだ。
「先生、今日もお散歩に連れて行ってくださいますか?」
「……もちろんです。ただし、今日は百貨店には寄りませんよ。私の財布が、破綻をきたしてしまいますから」
健吾の冗談めかした言葉に、綾子は幸せそうに目を細めた。指先の銀輪が、二人の重なり合う影の中で、永遠を誓うように静かに輝き続けていた。




