第7話 緋色の視線、銀ブラの魔法
カフェ「ライオン」の喧騒の中、再び綾子と入れ替わり、パフェを平らげた「宵闇」は、満足げに唇を舐めた。その瞳は依然として鮮血のような赤を湛え、周囲の客が「モダンな色眼鏡でもかけているのかしら」と噂するほどの異彩を放っている。だが、当の本人はそんな下界の視線などどこ吹く風。優雅に椅子から立ち上がると、健吾の腕をぐいと引き寄せた。
「さあ、藤木。腹ごしらえは済んだ。次は、この騒がしい街を私に案内しろ」
「案内しろと言われても……。元々、これは綾子さんの療養のための散歩なんだ。君が表に出っ放しでは、彼女の体力がもたない」
健吾は、周囲に聞こえないよう小声で釘を刺す。しかし、宵闇は健吾の耳元で「くすり」と艶っぽく笑った。
「案ずるな。今は私があの子に力を分け与えている。今の彼女は、そこらで流行歌に浮かれている娘どもより、よほど健やかだぞ? それとも何だ……私と二人きりで歩くのが、そんなに怖いのか?」
「……怖くなどない! 私はただ、非科学的な事態が公衆の面前で露呈するのを懸念しているだけだ!」
健吾は顔を真っ赤にしながら、逃げるように会計を済ませた。外に出ると、夕暮れの銀座はさらに輝きを増していた。ガス灯がぽつぽつと灯り始め、街全体がオレンジ色の魔法にかかったような美しさだ。
宵闇は、見るものすべてが珍しいのか、それとも健吾を困らせるのが楽しいのか、次から次へと店を指差した。
「藤木、あそこのショーウィンドーにある、あの奇妙な形をした帽子は何だ?」
「あれはクロッシェと言って、パリで流行している……おい、引っ張るな!」
宵闇は、健吾の腕をがっしりと組んだまま、人混みを縫うように進んでいく。科学を信奉する帝都医大のエリートが、赤い目をした絶世の美女に引きずり回される姿は、道ゆく人々を驚かせた。だが、健吾自身、その腕に伝わる綾子とは違う「宵闇」の、意外にも力強く、そして微かな熱を帯びた感触に、どうしようもなく胸が高鳴っていた。
「……君は、以前からこの街を見てみたかったのか?」
ふと、健吾が尋ねた。宵闇は足を止め、大きな百貨店の前で足を止めた。
「……久遠寺の奥底に閉じ込められていた頃は、外の世界など、ただの眩しすぎる幻だと思っていた。だが、こうして歩いてみると……悪くない。お前のような、理屈ばかり並べて、その実、腰の引けた男が作り上げた文明というやつも、一興だな」
宵闇は、健吾の顔をじっと見つめた。その赤い瞳の奥に、一瞬だけ、本物の綾子が抱いているような「孤独」が透けて見えた気がして、健吾は不意に胸を打たれた。
「……私は、腰が引けてなどいない。君たちの存在を、いつか必ず科学の力で肯定してみせる。それが、私が君をここに連れてきた理由だ」
「……ふん。相変わらず、可愛げのない男だ」
宵闇は、照れ隠しのように健吾の腕を強く絞り、再び歩き出した。
二人が辿り着いたのは、路地裏にある古びた、しかし品格のある装身具店だった。
「……少し、待っていろ」
健吾は宵闇を店先に残し、店の中へ入っていった。数分後、戻ってきた彼の手には、小さな小箱があった。
「なんだ、それは」
「……診察の報酬、のようなものだ。綾子さんが欲しがっていたからな」
健吾が箱を開けると、そこには、銀細工の繊細な指輪が収められていた。中心には、深い紫色の石――アメジストが、夜の帳のような輝きを放っている。
「……桔梗の色だ」
宵闇が、驚いたように目を見張った。
「科学的に言えば、ただの二酸化ケイ素の結晶だ。だが……今の君には、その色が一番似合うと思った。綾子さんにも。そして……君にもだ」
健吾は、宵闇の右手をそっと取った。いつもなら「触診だ」と言い訳をするところだが、今夜の彼は、その言葉を飲み込んだ。節くれだった健吾の指が、宵闇の白く細い薬指に、ゆっくりと銀の輪を滑り込ませる。
「……あ、……」
宵闇の頬が、夜の灯りに照らされて、林檎のように赤く染まった。あの傲慢な怪異が、初めて少女のように俯き、もじもじと指先を見つめている。
「……似合っているか?」
「……ああ。測定するまでもなく、完璧だ」
健吾は、満足げに頷いた。その瞬間、宵闇は弾かれたように顔を上げ、健吾の首に腕を回して、その耳元に唇を寄せた。
「……藤木。お前、本当に……食えない男だな。あの子だけではなく、この私まで、籠絡するつもりか?」
吐息に混じる、濃密な桔梗の香り。健吾の理性が、ぷつりと音を立てて切れた。彼は、自分を翻弄し続けるこの「影」を、そしてその宿主である愛しい少女を、まるごと抱きしめたいという衝動に駆られ、彼女の腰に手を回した。
銀座の片隅、ガス灯の影で、白衣を脱ぎ捨てた一人の男と、赤い瞳の怪異が、静かに寄り添い合っていた。宵闇は、健吾の胸に頭を預け、彼の心臓の鼓動を聞きながら、そっと目を閉じた。
「……聞こえるぞ、藤木。お前の心臓が、私の魔力に当てられて、狂ったように鳴っている」
「……うるさい。これは……銀座の空気による、一過性の心悸亢進だ」
健吾は、精一杯の強気で言い返したが、その声は優しく震えていた。指輪のアメジストが、二人の影を紫色に染め上げている。
「……さあ、帰りましょう。老執事が心配している」
「もう少しだけだ、藤木。……あの子が目覚めるまで、もう少しだけ、お前の温もりを貸せ」
夜の銀座の喧騒は、二人を包み込む深い静寂へと溶けていった。科学とオカルト。光と影。相反する二つの存在が、今この瞬間、確かに「愛」という名の、医学では解明不能な熱によって結びついていた。




