第6話 銀座のカフェ、三人の逢瀬
「……いいですか、綾子さん。これはあくまで『外気浴』という名の治療です。決して、単なる物見遊山ではありませんからね」
久遠寺邸の離れ。藤木健吾は、一分の隙もない三つ揃いのスーツに身を包み、自慢の金縁眼鏡をクイと押し上げた。手には医学書ではなく、当時の流行の最先端を行く『銀ブラ指南』のような雑誌が握られている。
「はい、先生。ふふ、今日のために新調したお召し物、とても素敵ですわ」
目の前の綾子は、春の陽光を反射するような、柔らかな薄紅色の振袖に身を包んでいた。髪には小さな桔梗の細工を施した銀のかんざしが揺れている。
数日前までの、死の淵を彷徨っていたような青白さはどこへやら。健吾が処方した「特製スープ(実は健吾が市場で最高級の肉を厳選したもの)」と、「毎日の散歩」のおかげで、彼女の頬には桃のような赤みが差していた。
「……ま、まあ、医者がみすぼらしい格好をしていては、患者に不安を与えますから。さあ、行きましょう。路面電車が混み合う前には着きたい」
健吾はぶっきらぼうに手を差し出した。綾子がその手にそっと自分の手を重ねると、指先から伝わる柔らかな温もりに、健吾の心臓は最新式の蒸気機関のように跳ね上がった。
(落ち着け、藤木健吾。これは心拍数の上昇に伴う交感神経の活発化に過ぎない……!)
人力車を乗り継いで辿り着いた銀座は、まさに百花繚乱の賑わいだった。洒落たハットを被ったモボに、華やかな洋装のモガ。カフェからは蓄音機の軽快なジャズが流れ、焼き立てのパンと珈琲の香りが混ざり合う。
「まあ……! 先生、あんなに高い建物があるのですか?」
「あれは百貨店ですよ。今度、診察の帰りにでも寄ってみますか?」
「本当!? ……あ、でも、わたくしのような病人が、そんなに贅沢をしては……」
「病を治すには、精神の昂揚が不可欠だと、最新の医学論文にも書いてあるんです。……私がそう決めたんです」
「ふふっ」
健吾の強引な理屈に、綾子は花が咲くような笑みを浮かべた。その笑顔を見るたびに、健吾の胸はキュンと締め付けられる。これが「恋」という不合理な病だと認めざるを得ないほどに。
二人が入ったのは、レンガ造りの外観が美しいカフェ「ライオン」。 白いエプロン姿の女給が、キビキビと立ち働く。健吾は窓際の席を選び、綾子のために一番人気のパフェと、深煎りの珈琲を注文した。
「先生、見てください! 雪の山みたいですわ」
運ばれてきた山盛りのクリームと真っ赤な苺のパフェに、綾子は目を輝かせる。健吾はその様子を満足げに眺めながら、自分は苦い珈琲を一口すすった。
「……糖分は脳の活性化を助けます。遠慮なく召し上がりなさい」
綾子がスプーンを口に運ぼうとした、その時。ふっと、窓から差し込む光が遮られ、空気の色が変わった。
「……おい、藤木。私の分はないのか?」
綾子の手の動きが止まり、顔を上げた。その瞳は、いつの間にか妖艶な「赤」に変わっていた。宵闇の登場である。
「……君か。今はデート……いや、診察中だ。静かにしていなさい」
「デートと言いかけたな? 正直でよろしい」
宵闇は、不敵な笑みを浮かべると、目の前にあったパフェをひょいと自分の方へ引き寄せた。
「おい、それは綾子さんの……」
「私とあの子は一心同体だ。私が味わえば、あの子も喜ぶ」
宵闇は、優雅な手つきでクリームをすくい、口に運ぶ。
「……ふん。科学とやらは味気ないが、この『甘味』というやつは悪くない。藤木、お前の選ぶ店はセンスがいいな」
宵闇は、スプーンを咥えたまま、いたずらっぽく健吾を上目遣いで見つめた。その仕草は、清楚な綾子とは正反対の、ゾクッとするような色香に満ちている。健吾は思わず珈琲を吹き出しそうになり、ハンカチで口元を押さえた。
「……人前だ。あまり、派手な真似はしないでくれ」
「何を照れている。お前は、さっきから私の……いや、あの子の口元ばかり見ていただろう?」
「見ていない! 私は、咀嚼による顎関節の動きを観察していただけだ!」
「強情な男だ。……ほら、お前も食べろ。あーん、だ」
宵闇がスプーンに苺を乗せ、健吾の口元へ差し出す。真っ赤な苺と、それ以上に赤い宵闇の瞳。周囲の客が「まあ、仲のよろしいこと」と微笑ましく見ている中、健吾は顔を真っ赤にして固まってしまった。
「……冗談だ。お前を困らせるのは、これくらいにしておこう」
宵闇は満足げに笑い、瞳の色をゆっくりと元の黒に戻した。
「……あ、あれ? 先生、わたくし、何を……?」
意識が戻った綾子が、空になったパフェのグラスを見て、不思議そうに瞬きをする。
「……素晴らしい食欲でしたよ、綾子さん。それだけ元気なら、明日の往診は、もう少し遠出ができるかもしれませんね」
健吾は、恥ずかしさを隠すように、そっと彼女の口元に残ったクリームを指で拭った。綾子は顔を真っ赤にしてうつむく。
「先生……わたくし、本当に幸せです。ずっと、この影のせいで、誰にも愛されないと思っていましたから」
「……影があろうとなかろうと、私が君の主治医である事実は変わりません。そして……」
健吾は、窓の外に広がる夕暮れの銀座を見つめた。科学の光では照らせない「影」を抱えたまま、それでもこの愛おしい少女を連れて歩んでいきたい。その決意は、もはやどんな数式よりも強固なものになっていた。
「そして、私は、君を誰にも渡さない。……宵闇にさえ、ね」
健吾の言葉に、綾子が幸せそうに微笑み、健吾の手をギュッと握り返した。その時、綾子の背後の影が、一瞬だけ健吾に向かって、ウィンクするように揺れた気がした。




