第5話 白衣を侵す紫煙
五月の爽やかな風が、帝都医科大学の講義室に、瑞々しい若葉の香りを運んできていた。窓の外では、詰襟の学生たちが活動写真の話や、銀座の新しいカフェの評判に花を咲かせている。だが、藤木健吾の机の上だけは、まるで時間の流れが止まったかのような、重苦しい静寂が支配していた。
健吾は、ドイツ語で綴られた解剖学の原書を見つめていた。
「……生体反応における特異的熱喪失。あるいは、局所的な血管収縮による低温化……」
万年筆の先が、ノートの上で空を切る。彼の脳裏に焼き付いているのは、活字の羅列ではない。一昨日、桔梗の祠の前で触れた、あの「人間のものではない冷たさ」だ。そして、影の中から現れた、血のように赤い瞳。
(あれは、幻覚だ。集団催眠、あるいは……未知の神経毒による嗅覚と視覚の錯覚)
健吾は、自分に言い聞かせるように、金縁の眼鏡を強く押し上げた。彼は、科学の光で世界を照らす同志の一人だ。科学こそが、彼にとって唯一の正義であるはずだ。
「藤木君、顔色が悪いぞ。少しは休んだらどうだ」
隣の席の友人が、心配そうに声をかけてくる。
「……余計なお世話だ。私は、新しい症例の研究に没頭しているだけだ」
「症例ねぇ。君がそんなに熱心に通っている久遠寺邸の令嬢、よっぽど手強い『病』なんだな。それとも……よっぽど美しいのか?」
友人の冷やかしに、健吾の指先がピクリと跳ねた。
「美しさなど、生存戦略における副産物に過ぎない。私が見ているのは、あくまで個体としての異常値だ」
吐き捨てるようにそう答えたが、彼の右手の掌には、今もまだ、綾子の細い手首の感触が残っている。触れた瞬間に奪われた体温。氷のような冷たさの後にやってくる、痺れるような感覚。それは、どれほど高度な医学書を捲っても、一行として記されていない「未知の感触」だった。
健吾は、鞄の中から例の黒い手帳を取り出した。表向きは『症例記録:久遠寺綾子』。だが、そのページを捲れば、そこにあるのは無機質な観察記録ではない。
「……死に近づくほど、皮膚の透明度は増し、瞳孔は湿った月光のような輝きを放つ。その存在自体が、一種の芸術的な不合理を体現している――」
書き殴られた文字は、もはや医徒の記録ではなく、破滅的な美に魅入られた男の告白に近いものに変質しつつあった。
その日の夕刻。健吾は、逃げるように大学を後にし、いつものように久遠寺邸へと向かった。文明の象徴である路面電車の音が遠ざかり、深い森に囲まれた黒門を潜るたび、彼の心は「科学者」から「虜」へと、ゆっくりと形を変えていく。
「お嬢様は、先ほどまで藤の花をご覧になっておりましたが……少しお疲れのようで、今はお休みです」
老執事の静かな案内を受け、健吾は離れの部屋へ足を踏み入れた。
室内は、夕闇の紫がカーテンの隙間から滑り込み、重い沈黙を湛えていた。中央の寝椅子に、綾子が横たわっている。白磁の肌に、乱れた黒髪が散り、その首筋からは微かな「桔梗」の匂いが漂う。健吾は、往診鞄を傍らに置き、膝をついた。
「……綾子さん」
呼びかけに応えはない。健吾は、診察のために彼女の手首を取った。冷たい。だが、それは単なる「低温」ではなく、周囲の体温を貪り喰らうような、底なしの冷気だ。健吾は、聴診器を取り出そうとした。だが、その手が、彼女の肌に触れたまま動かなくなった。
(……ほんの少し、確認するだけだ。脈動の深部を探るために)
自分への言い訳を胸の中で繰り返しながら、健吾の手は、彼女の首筋から胸元へと、ゆっくりと滑り落ちていく。指先が、彼女の白い着物の襟元に触れる。規則正しいはずの診察。だが、今の彼を突き動かしているのは、医学的な好奇心ではない。この死に近い少女が放つ、抗いがたい魔性。壊してしまいたいほどに美しく、同時に、自分自身もその影に飲み込まれてしまいたいという、破滅的な渇望だった。
「……藤木先生」
不意に、眠っていたはずの綾子の唇から、自分の名が零れた。健吾は、弾かれたように指を引き込もうとした。だが、その瞬間に彼女が目を開いた。
そこにいたのは、綾子ではなかった。燃え盛るような紅蓮の瞳。唇の端には、獲物を追い詰めた猟師のような、傲慢で艶やかな微笑みが浮かんでいる。
「……宵闇か」
健吾の声が、わずかに掠れた。
「ああ、そうだ。健気な主治医殿。……ずいぶんと入念な『診察』の最中だったようだな?」
宵闇が、綾子の華奢な体を使って、ゆっくりと起き上がった。帯が緩み、着物の合わせが乱れて、彼女の白い肩が露わになる。だが、宵闇はそれを隠そうともせず、逆に健吾の顔を覗き込むように、その距離を詰めた。
「……脈拍の異常を感じたので、触診を行っていただけだ。科学的な手順に則った行為だ」
健吾は、震える声で言い放った
「科学的? お前のその真っ赤な耳が、それを証明しているとでも言うのか?」
宵闇が、クスクスと、綾子の愛らしい声で笑った。その指先が、健吾の白衣の襟を掴む。
「お前は、あの子の熱を奪っているのではない。お前自身の『熱』を、あの子に流し込んでいるのだ。……あの子が死に近づくたび、お前は喜びを感じている。そうだろう? 自分にしか見せぬ美しさが、そこにあるからだ」
「違う……! 私は、彼女を救いたいだけだ!」
「救う? 笑わせるな。お前は、この美しさを永遠に自分の手帳に閉じ込めておきたいだけだ。お前は科学者ではない。……ただの、強欲な男だ」
宵闇は、健吾のネクタイをゆっくりと引き寄せ、その唇を健吾の耳元に寄せた。桔梗の香りが、肺の奥まで染み渡る。
「いいことを教えてやろう、藤木。……あの子の精気をさらに削れば、あの子はもっと妖艶になる。お前の指が触れるだけで、あの子の魂は震え、そのたびに私の『力』は強まる。……どうだ? お前の手で、あの子を最高の『絶頂』に導いてみないか?」
「黙れ……!」
健吾は、彼女の肩を突き放した。だが、その手には、彼女の《《冷たい》》温もりがしっかりと刻まれていた。宵闇は、寝椅子に背をもたれ、勝ち誇ったように足を組んだ。
「また明日も来い。……お前が隠し持っている『毒』が、いつあの子に注がれるのか、私は楽しみに待っているぞ」
健吾は、往診鞄をひったくるように持ち、部屋を飛び出した。夕闇の庭を抜ける彼の背中を、桔梗の祠の影が嘲笑うように揺れていた。
大学の寮に戻った健吾は、明かりも点けずにベッドに突っ伏した。白衣を脱ぎ捨てる気力さえない。右手の掌を見つめる。そこには何もついていないはずなのに、紫色の桔梗の花弁が、肌にこびりついているような錯覚が消えない。
「……私は、狂っている」
彼は、独り言を漏らした。救うべき患者に魅了され、あろうことか彼女の中に潜む怪異と「秘密」を共有してしまった。だが、恐怖よりも強く、彼の胸を焦がしているのは、あの赤い瞳に見透かされた、自分自身の醜い欲望だった。
健吾は、机の上のランプに火を灯した。そして、例の手帳を開く。最新の医学的知見を書き込むはずの余白に、彼は気づけば、一人の少女の姿をスケッチしていた。影を背負い、死の淵で微笑む、この世で最も美しい「不合理」。
「……綾子さん。私は……」
書きかけの言葉は、インクの滴となって紙に染みた。窓の外では、五月の夜が深まっていく。健吾の鼻腔には、今もまだ、彼女の残り香が、呪いのように絡みついていた。




