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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、桔梗の香りに恋をする―  作者: 初 未来
第一章 桔梗の香り

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第4話 約束の黄昏、揺れる天秤

 久遠寺家に往診に伺い数日が過ぎていった。学生寮の彼の元に、一通の優美な手紙が届いた。久遠寺家の紋章が刻まれた封蝋。差出人は綾子本人だった。


 健吾は、慎重に便箋を開いた。流麗な筆致で綴られた感謝の言葉と、病の苦しみが伝わってきた。綾子との面識はまだないが、儚い美しさを持つという彼女の評判と、資料から垣間見えた聡明さに、健吾は既に強く惹かれていた。


『貴方の合理的なご意見は、わたくしが長年、迷信と諦めていたものに対し、希望の光を与えてくださいました。ですが、やはり西洋医学の光が届かない場所というものが、この世にはございます…』


 手紙の後半に差し掛かり、健吾の眉間に皺が寄った。


『再来週の金曜日、黄昏時に。わたくしの屋敷の裏手にある、古びた『桔梗の祠』の前でお待ちしております。』

『貴方はきっと、そこで初めて、わたくしの本当の姿、そしてこの家に潜む『影』に触れることになるでしょう。貴方を恐怖させ、幻滅させてしまうかもしれません。』


「恐怖…幻滅?」


 健吾は思わず声に出した。合理性を重んじる綾子が、自ら「影」といったオカルト的な言葉を使うことに驚きを覚えた。しかし、それ以上に、彼の内にある知的好奇心が猛烈に刺激された。


(彼女は、私を試しているのか? それとも、私にこの非科学的な病の真実を暴いて欲しいと願っているのか?)


 彼女の悲しげな横顔を想像すると、胸が締め付けられた。


 それからさらに数日時が流れ、大学の図書館。窓の外では初夏の陽光が眩しく降り注いでいたが、藤木健吾の心は、鞄の奥底に忍ばせた一通の便箋に囚われていた。


 何度も読み返し、折り目が白くなった久遠寺綾子からの手紙。


『西洋医学の光が届かない場所というものが、この世にはございます』


 医学徒として、これほどまでに自身の存在意義を否定する言葉はない。本来なら、鼻で笑って捨て去るべき「迷信への逃避」だ。しかし、健吾はそうしなかった。いや、できなかったのだ。 あの邸で過ごした一週間、自らの網膜が捉えた「自律する影」の残像が、合理主義という彼の薄い皮皮を、絶え間なく内側から突き破ろうとしていた。


(「本当の姿」……。彼女は、私に何を見せようとしている?)


 ペンを置き、眼鏡を外して眉間を揉む。手紙にある「再来週の金曜日」とは、まさに今日のことだ。彼女は「誰にも告げずに」と書き添えていた。それは、主治医としての往診ではなく、一人の男としての、あるいは未知の深淵へ挑む探求者としての呼び出しだった。


 夕刻。健吾は、大学の講義が終わるや否や、誰とも目を合わさずに校門を飛び出した。人力車を拾い、久遠寺邸の黒門へ。 しかし、今日はいつものように正門から入り、老執事の案内を受けるつもりはなかった。手紙の指示通り、彼は邸の塀沿いを歩き、裏手へと回り込む。


 そこには、昼間の往診では決して立ち入ることのなかった、荒れ果てた裏庭が広がっていた。文明の光が届かない、放置された森。夕陽が沈みかけ、空が血のような朱色と、不吉な群青に混ざり合う「逢魔おうまが時」。


 茂みを掻き分け進む健吾の耳に、ふと、カサリという音が届く。


「……綾子さん?」


 呼びかけに応える声はない。ただ、湿った土の匂いに混じって、あの、胸の奥を掻き乱すような「桔梗の香り」が強まってきた。


 視界が開けた先に、蔦に覆われた小さな石の祠が見えた。「桔梗の祠」。 その前に、一人の影が立っていた。


「来てくださったのですね、藤木様」


 振り向いた彼女は、いつもの診察で見せる「儚げな患者」ではなかった。薄い木綿の白い着物を纏い、帯も解けかかったような危うい姿。風もないのに彼女の黒髪がふわりと浮き上がり、背後の影が、まるで意思を持つ巨大な獣のように、祠の石肌を這い回っている。


「……綾子さん。そんな格好で外にいては、体に障ります。さあ、離れへ」


 健吾は自分に言い聞かせるように、努めて冷静な声を出した。鞄から体温計を取り出そうとする。だが、その手が小刻みに震えていることを、彼は隠せなかった。


「先生、まだ『病』だとおっしゃるのですか?」


 綾子が、悲しげに、しかし慈しむような瞳で健吾を見つめる。


「ご覧なさい。これが、わたくしの家の影。わたくしを喰らい、わたくしを美しく飾り立てる、呪いの正体です」


 彼女がゆっくりと手を伸ばす。その指先が健吾の頬に触れた瞬間、健吾の脳内に、冷たい鉄を流し込まれたような衝撃が走った。


 それは、医学書には一行も記されていない、純粋な「恐怖」という名の感覚。 同時に、彼の網膜は信じがたい光景を捉えた。綾子の背後の影が、彼女の体を包み込むように膨れ上がり、彼女の白い首筋に、漆黒の文様――まるで桔梗の花弁のようなあざを浮かび上がらせたのだ。


「……っ、これは、色素の沈着か、あるいは……」


「まだ、理屈をお探しですか?」


 綾子の瞳が、夕闇の中で不気味に赤く発光し始める。その瞬間、彼女の声が二重に重なって聞こえた。清らかな少女の声と、地底から響くような、古びた権威を持つ者の声。


『——お前のような薄っぺらい光が、この深淵を測れると思うな』


「……っ!」


 健吾は息を呑み、足がすくんだ。合理主義の牙城が、音を立てて崩壊していく。目の前にいるのは、自分が救おうとしていた可憐な令嬢なのか、それとも、人を呪い殺す魔性の化身なのか。


 しかし、健吾は逃げ出さなかった。恐怖に身体が震え、本能が「去れ」と叫んでいるにもかかわらず、彼の瞳には狂おしいほどの情熱が灯っていた。


(美しい……)


 影に侵食され、瞳を赤く染めた綾子は、昼間の彼女よりも数倍、いや数十倍も妖艶に見えた。死に近づくほどに命が輝きを増すという、残酷な矛盾。 健吾は、自分の信じてきた「正しさ」が、この圧倒的な美しさの前に敗北したことを悟った。


「……ああ、そうだ。私の負けだ、綾子さん」


 健吾は自嘲気味に呟き、震える手で、彼女の冷たい指を握りしめた。手紙に綴られた問いに対する、彼なりの回答だった。


「呪いでも、物の怪でもいい。……私は、科学を捨ててでも、君を解き明かしたい」


 その瞬間、綾子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。赤い瞳の奥に、一瞬だけ、いつもの「綾子」が戻ってきたように見えた。


「……先生。……あなたは、本当に、愚かな方……」


 彼女が力尽きたように、健吾の胸に倒れ込む。周囲の影は、獲物を得た蜘蛛のように、静かに、しかし確実に二人を包み込んでいった。


 ――私のすべてはここから始まった。文明開化の光に背を向け、一人の男が、愛という名の狂気に身を投じた瞬間だった。

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