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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、桔梗の香りに恋をする―  作者: 初 未来
第一章 桔梗の香り

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第3話 硝子の庭の診察

 久遠寺邸に通い始めて、一週間が過ぎた。藤木健吾の日常は、今やこの「隔離された庭」を中心に回り始めていた。


 午前中は大学でドイツ語の原書と格闘し、最新の病理学を脳に詰め込む。そして午後になると、彼は周囲の学生たちがカフェや寄席へ繰り出すのを横目に、人力車を飛ばしてあの黒い門を潜る。


(今日の処方:鉄剤の増量と、蛋白質の摂取。それから……)


 健吾は揺れる車中で手帳を見つめていた。文字は整然としているが、その端々に、医学的とは言い難い所感が混じり始めていることに、彼はまだ無自覚だった。


「先生、お顔が少しお疲れのように見えますわ」


 離れの部屋に入ると、綾子が昨日よりも少しだけ血色の良い顔で、健吾を迎えた。彼女は、健吾が持ち込んだ「最新の健康法」を忠実に行っていた。健吾が命じた通り、昼食には牛肉を煮込んだスープを飲み、窓を開けて春の風を部屋に入れていた。


「君の脈が安定するまで、私は休むわけにはいきません。……失礼、診察を始めます」


 健吾は慣れた手つきで、綾子の手首を取った。一週間前、死体のように冷たかったその肌には、微かにだが「温もり」が宿り始めている。それは健吾にとって、自分の治療が正しいことを証明する、何よりの勝利宣言だった。


「……良い傾向だ。脈拍も力強くなってきた。私の言った通りでしょう? 呪いなどというものは、不摂生と孤独が作り出す幻想に過ぎない」


「ええ。先生の仰ることは、どれも魔法のようです。あんなに重かった体が、先生がいらっしゃると、ふっと軽くなる気がするのです」


 綾子が、健吾の指先をそっと見つめる。その眼差しには、主治医に対する敬意以上の、もっと熱を帯びた、すがるような響きが含まれていた。


「……今日は、外へ出てみましょうか」


 健吾の言葉に、綾子が驚いたように目を見開いた。


「お外へ……? でも、私は『外の光に当たれば、命が溶けてしまう』と、ずっと言い聞かされてきました」


「馬鹿馬鹿しい。日光は生命の源です。皮膚でビタミンを合成し、精神を活性化させる。君が溶けるというなら、その過程を私がこの目で見届け、科学的に否定して差し上げます」


 健吾はそう言って、綾子に手を差し出した。綾子は戸惑いながらも、その大きな、確かな温もりのある手に自分の指を重ねた。


 離れの裏手には、荒れ果てた、しかしどこか幻想的な庭が広がっていた。手入れの行き届かないソメイヨシノが、風に吹かれて最後の花びらを散らしている。


「あぁ……」


 綾子が、小さく声を上げた。数年ぶりに浴びる直射日光。彼女は眩しそうに目を細め、透き通るような白い肌を、春の柔らかな光に晒した。


「溶けませんか?」


 健吾が少しだけ意地悪く、口角を上げた。


「……はい。とても、暖かいです。お部屋の中の暖炉とは違う、もっと……深いところまで届くような暖かさ」


 綾子は、降り注ぐ桜の花びらを両手で受け止めた。その姿は、まるで硝子細工が命を得たかのような、危うい美しさを放っていた。健吾は、思わず手帳を開くのを忘れ、彼女の横顔をじっと見つめてしまった。


「藤木先生。……私、先生と出会えて、本当によかったです」


 綾子が、ゆっくりと健吾の方を向いた。


「私、ずっと一人で、暗闇の中で消えていくのを待っているだけだと思っていました。でも、先生は強引に私の扉を開けて、こんなに綺麗な世界を見せてくださった」


「……私は、医者としての義務を果たしているだけです」


 健吾は動揺を隠すように、眼鏡のブリッジを押し上げた。胸の奥で、医学的な「成功」とは別の、もっと個人的で、制御不能な熱が弾けたような気がした。


「いいえ。先生のその、迷いのない瞳が……私をこの世に繋ぎ止めてくださっているのです」


 その時だった。


 空に雲がかかったわけでもないのに、周囲の空気が一瞬で、氷水を浴びせられたように冷え込んだ。


「……?」


 健吾は違和感に気づき、周囲を見渡した。さっきまで明るかった庭の色彩が、不自然に退色していく。鮮やかだった新緑の緑も、桜の淡いピンクも、すべてが深い灰色のフィルターを通したかのように、くすんで見える。


「綾子さん、中へ戻りましょう。急に冷えてきた」


 健吾が綾子の肩に手を回そうとした、その時。


 カサッ、という乾いた音が、綾子の足元から聞こえた。見ると、彼女が足元の芝生に落としていた「影」が、ぐにゃりと歪んでいた。


 太陽は健吾の背後にある。影は前方へ伸びるはずだ。しかし、綾子の影だけが、太陽を無視して「健吾の足元」へと、まるで生き物のように這い寄ってきていた。


(……光学的錯誤だ。目の疲れによる……)


 健吾は必死に否定しようとした。だが、その「影」は、健吾の足元に到達すると、彼が履いている革靴を、冷たい指のような感触で、撫で上げた。


「ひっ……!」


 健吾は思わず、一歩後ろに飛び退いた。革靴を抜けて、足首にまで伝わってきたその感覚は、紛れもなく「物質的な接触」だった。


「どうかなさいましたか、先生?」


 綾子が、不思議そうに首を傾げる。彼女の瞳は、まだ先ほどと同じ、清らかな黒い瞳のままだ。だが、健吾が彼女の背後にある「桔梗の祠」へと目をやると、その影の中に、こちらをじっと見つめる「何か」の視線を感じた。


「……いや、なんでもない。急ぎましょう」


 健吾は綾子の手を強く引き、逃げるように離れへと戻った。


 離れに彼女を送り届け、診察室として使っている小部屋に戻った健吾は、荒い息を整えながら、椅子に崩れ落ちた。


「……ありえない。ありえないことが、起きた」


 彼は自分の手を、じっと見つめた。影に触れられた足首には、まだ氷を押し当てられたような感覚が残っている。科学者として、これは「原因不明の幻覚」として処理すべき事案だ。あるいは、自分の精神が、この屋敷の異様な雰囲気に毒され始めているのかもしれない。


(だが、もし……)


 もし、自分の知らない、現代医学の教科書にも載っていない「法則」が、この家には働いているのだとしたら。


 健吾は、カバンの中から一冊の黒い手帳を取り出した。そこには、綾子の体温の変化、脈拍、食事の記録が微細に記されている。 彼は、その白紙のページに、震える手でこう書き込んだ。


『現象:影の自律的移動、および接触感。……従来の物理学、医学では説明不可。再検証の必要あり』


 その文字を書いた瞬間、健吾の胸を支配したのは、恐怖ではなかった。それは、未知の真理を解き明かそうとする、狂気にも似た「知的好奇心」。そして、あの儚い少女の中に潜む「何か」を、自分だけが知っているという、歪んだ優越感だった。


(綾子さん。君を救うのは私だ。……そして、君を暴くのも、私だ)


 健吾は、窓の外に広がる宵闇を見つめた。庭の奥にある桔梗の祠が、暗闇の中で、不敵に笑っているような気がした。


 その夜。学生寮に戻った健吾の枕元には、微かな「桔梗の香り」が漂っていた。彼は、それが自分の服に染み付いたものだと思い込もうとしたが、その香りは、彼が眠りにつくまで、執拗に鼻腔をくすぐり続けた。

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