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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、桔梗の香りに恋をする―  作者: 初 未来
第一章 桔梗の香り

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第2話 帝都の光、名家の影

 大正十二年、春。帝都・東京は、爛漫たる桜の季節を終え、瑞々しい若葉の匂いに包まれていた。路面電車が鉄の音を響かせ、カフェからは蓄音機のジャズが流れ出す。大正デモクラシーの自由な気風は、爛熟したモダン文化を謳歌し、人々の心から旧時代の因習を塗り潰そうと躍起になっていた。


 帝都医科大学の講義室。 藤木健吾ふじきけんごは、一分の隙もない仕立ての学生服に身を包み、教授の前に立っていた。


久遠寺くおんじ家、ですか」


 健吾は、渡された紹介状を眉間にしわを寄せて見つめた。金縁の眼鏡の奥で、怜悧れいりな瞳が光る。


「そうだ。代々続く華族の名家だが、今や没落の危機にある。何より、跡取り娘の病が深刻でね。大学病院の名だたる医師たちがさじを投げた。君のその『合理的すぎる頭脳』なら、何か道が開けるかもしれんと思ってね」


「病名は?」


「……資料には『宵闇よいやみさわり』とある」


 健吾は鼻で笑った。


「馬鹿馬鹿しい。教授、我々が学んでいるのはドイツの最新医学であって、陰陽道ではありません。そんなオカルト的な名前の病が、この大正の世に存在するはずがない」


 健吾にとって、世界は数式と化学反応で構成されていた。彼にとって、世界は数式と化学反応、そして峻厳な「論理ロゴス」で構成されていた。代々、政府の要職や法学者を輩出してきた厳格なエリート家系の三男として生まれた彼は、幼少期から子守唄代わりにドイツ語やフランス語の原典に親しみ、最先端の西洋思想を呼吸するようにして育った。


 血筋と知性が約束する盤石な未来。その中心にある科学こそが、彼にとって唯一の正義であり、迷信という名の闇を打ち払う絶対的な「光」だった。


「解明できないものなど、この世には存在しません。ただ、解明するためのデータが不足しているだけです。……いいでしょう。その迷信、私が医学のメスで切り刻んで差し上げます」


 若きエリートの言葉には、二十歳特有の残酷なまでの自信が溢れていた。


 翌日の午後。健吾は往診鞄を手に、本郷の喧騒を離れ、郊外の屋敷町へと向かった。人力車が止まったのは、うっそうとした森に囲まれた巨大な黒門の前だった。門の横には「久遠寺」と記された重厚な表札がある。


 門を潜ると、そこは外の世界とは断絶された、奇妙に静まり返った空間だった。庭木は手入れが行き届いているはずなのに、どこか生気がなく、湿った土の匂いが鼻を突く。


「藤木先生。お待ちしておりました」


 現れた老執事に案内され、健吾は母屋から離れた、ひっそりとたたずむ離れへと導かれた。


「お嬢様は、光を嫌われます。……どうか、声はお控えください」


 執事の言葉に、健吾は無造作に答えた。


「光を嫌うのは、網膜の異常か、あるいは向精神的な要因です。部屋を暗くしていても病は治りませんよ」


 執事は健吾の言葉を無視するように、重い引き戸を開けた。室内は、昼間だというのに厚い遮光カーテンが引かれ、わずかな隙間から差し込む陽光が、埃の粒を白く照らしている。そこには、重苦しい沈黙と、微かな「桔梗ききょうの花」のような香りが満ちていた。


「……失礼します」


 健吾が足を踏み入れると、部屋の奥の寝椅子に、一人の少女が座っていた。


「あなたが……藤木先生?」


 その声は、鈴を転がすような透明感がありながら、どこか遠くから響いているようなはかなさがあった。久遠寺綾子くおんじあやこ。十八歳という若さ、そして華族の令嬢らしい気品を纏っているが、その姿は驚くほどに白かった。雪をそのまま削り出したような肌。細い首筋には青い血管が透け、彼女を取り巻く空気だけが、数度低いように感じられる。


「帝都医大の藤木です。今日から君の主治医を務めることになりました」


 健吾は努めて事務的に接し、彼女の前に膝をついた。


「……そんなに近くへ寄っては、先生がけがれてしまいますわ」


 綾子は力なく微笑み、顔を背けた。


「穢れる? 微生物学の用語にそんな言葉はありません」


 健吾は迷わず、彼女の細い手首を掴んだ。その瞬間、健吾は息を呑んだ。


(冷たい。……なんだ、この冷たさは)


 それは、生きている人間の温度ではなかった。冬の日の石像を触っているかのような、芯まで凍りつくような冷気。しかし、指先に触れる拍動は、微弱ながらも確かに「生」を刻んでいる。


「……脈拍、一分間に四十八。除脈気味ですが、リズムは一定だ。綾子さん、顔を見せてください」


 健吾が彼女のあごに手をかけ、自分の方を向かせようとした時。綾子がゆっくりとまぶたを持ち上げた。


 その瞳は、深い闇をたたえていた。だが、その奥底に、助けを求めるような、あるいはすべてを諦めたような切ない光が宿っているのを、健吾は見逃さなかった。


「……先生、無駄ですわ。この病は、お薬では治りません。私の家が、代々背負ってきた『宵闇よいやみ』なのですから」


「私は、君の家系図を治しに来たのではない。君の身体を治しに来たんです」


 健吾は彼女の目を真っ直ぐに見つめ返し、断言した。


「いいですか、綾子さん。呪いや因縁といった言葉は、原因を突き止められない無能な医者が使う逃げ口上です。君の体温が低いのも、顔色が白いのも、すべてには医学的な理由がある」


 綾子は驚いたように、瞬きをした。この屋敷を訪れる者は皆、彼女を「呪われた器」として怯えるか、あるいは「死に行く者」として哀れむかのどちらかだった。これほどまでに自分を「個」として扱い、力強く否定する者は、初めてだった。


「心強いのですね、先生は。……まるでお日様に服を着せているようです」


「……白衣のことですか? これはただの布です。清潔を保つための道具ですよ」


 健吾は照れ隠しのように眼鏡を押し上げると、往診鞄から聴診器を取り出した。


 診察は一時間ほど続いた。健吾が聴診器のチェストピースを彼女の胸元に当てると、綾子は微かに身を震わせた。


「……冷たいですか?」


「いいえ。……とても、温かいです。先生の手が」


 健吾の指先が、彼女の肌に触れるたび、そこから「熱」が奪われていくような錯覚に陥る。しかし、健吾はそれを無視した。


「心音に雑音なし。肺雑音もありません。……重度の栄養失調と、日光欠乏による貧血です。まずは食事を改善し、少しずつ外の空気に触れることから始めましょう」


「お外へ……?」


「ええ。君に必要なのは祈祷ではなく、新鮮な牛肉のスープと、適度な太陽光だ」


 健吾が手帳に処方箋を書き込んでいると、ふと、部屋の温度がさらに下がったような気がした。風もないのに、遮光カーテンが一度、大きく波打った。


(……気のせいか?)


 健吾がふと、綾子の背後の壁に目をやった時だ。ガス灯の予備の火に照らされた、彼女の「影」が、壁の上で不自然に揺れた。彼女自身は微動だにしていない。なのに、壁の影だけが、まるで健吾を品定めするかのように、ゆっくりと首を傾げたのだ。


「藤木先生……?」


 綾子の声に我に返る。影は、いつの間にか彼女の輪郭通りに収まっていた。


「……なんでもありません。立ちくらみでしょう。最近、研究で寝不足なもので」


 健吾は自分に言い聞かせるように呟いた。科学者である彼が、視覚的な錯誤を認めるわけにはいかない。


 診察を終え、離れを出た健吾を、老執事が門まで見送った。


「先生。……一つだけ、忠告を」


 執事が声を潜めて言った。


「なんです?」


「もし、お嬢様のそばで『桔梗の花』の匂いが強くなったら……その時は、たとえ診察の途中でも、すぐに部屋を出て、こちらを振り返らずに母屋へ戻ってください」


 健吾は立ち止まり、執事を冷ややかな目で見据えた。


「執事さん。迷信を広めるのは、患者の精神衛生上、最も有害な行為です。桔梗の匂い?それはただの芳香成分に過ぎない。あるいは、精神的な不安が見せる嗅覚の幻覚だ」


「……そうであれば良いのですが」


 執事は深く頭を下げ、それ以上は何も語らなかった。


 一人、人力車に揺られながら、健吾は鞄の中の診察記録を眺めていた。


(久遠寺綾子。……医学的には、ただの衰弱だ。だが、あの冷たさと、あの影は――)


 脳裏に、彼女の白い指先と、哀しげな瞳が焼き付いて離れない。これほどまでに守ってあげたいと感じるほどに脆く、同時に、触れてはいけない深淵を感じさせる患者は初めてだった。


「……必ず、科学で解き明かしてみせる」


 健吾は、夕闇に染まる帝都の街を見つめ、自分自身を鼓舞するように呟いた。しかし、彼の白衣の袖口には、いつの間にか一輪の桔梗の花が、押し花のように張り付いていた。それを剥がそうと指をかけた瞬間、花は黒いすすとなって、春の風に消えていった。


 健吾の心に、小さな、しかし消えない「亀裂」が入った瞬間だった。

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