第11話 其の三:白黒の迷宮
スクリーンの「裏側」を通り抜けた瞬間、健吾を襲ったのは、耳を突き刺すような完全な静寂だった。 「……っ、ここは……」 健吾は、反射的に眼鏡を直そうとした。だが、自分の手を見て息を呑んだ。
白衣の……いや、仕立ての良い背広の袖も、自分の掌も。 すべてが、古い写真のように「黒と白」の濃淡だけで塗り潰されていた。 見上げれば、空には太陽も月もなく、ただ映写機のレンズを思わせる巨大な光の輪が、無機質に天頂を支配している。
「ようこそ、藤木。……理屈の通じない、影の牢獄へ」
隣で囁く声に振り返った健吾は、再び言葉を失った。宵闇――綾子の姿をした彼女もまた、モノクロームの世界に溶け込んでいた。だが、皮肉なことに、色彩を失ったことで彼女の「造形」の美しさはより研ぎ澄まされ、彫刻のような神々しさを放っている。ただ一箇所、彼女の瞳だけが、この死んだ世界で唯一の例外として、濡れた柘榴のような「赤」を妖しく発光させていた。
「……君だけが、色を持っているのか」
「私は影の主だ。この程度の呪いに染まりはしない。……それより、藤木。そんなに呆けた顔をして私を見つめて、どうした? 慣れぬ世界に、私の助けが欲しくなったか?」
宵闇は、健吾の胸元に指を這わせた。色のない世界で、彼女の指先が触れた場所だけが、微かな熱を帯びる。
「……助けなど。私はただ、この空間の光学的組成を分析しようとしているだけだ」
「ふふ、まだ言うか。お前の心臓、さっきからこの静寂を突き破るほど大きく鳴っているぞ。……可愛い男だ」
宵闇は、健吾の首に腕を回し、ぐいと自分の方へ引き寄せた。
「……な、何を……!」
「声が大きい。……小鬼どもに居場所を教えたいのか?」
宵闇の顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで近づく。彼女の唇は、モノクロの画面の中で、そこだけが鮮烈な「欲望」の色をしていた。
「藤木。ここから先、あの役者を見つけるためには、お前の『魂の震え』が必要だ。この世界は、感情の揺らぎが道を作る」
「魂の震え……? そんな非科学的な……」
「黙れ。……お前のその、うるさい理屈を一度止めてやる」
宵闇は、健吾の唇を塞ぐように、自分の指をあてた。そして、その指をゆっくりと滑らせ、彼の唇をなぞり、そのまま自らの顔を近づけた。健吾が目を見開いた刹那、宵闇は彼の耳たぶを甘く噛んだ。
「……あ、……」
健吾の喉から、掠れた声が漏れる。
「お前の熱が、私に流れ込んでくる。……いいぞ、藤木。もっと私に酔え。お前が狂えば狂うほど、この世界の影は従順になる」
宵闇は、健吾の反応を楽しむように、彼の頬を愛おしそうに撫でた。健吾は、逃げなければならないと頭では理解していながら、彼女から放たれる圧倒的な色香と、モノクロの世界で唯一の「温もり」に、抗うことができなかった。
(……いけない。私は、彼女を観察する立場で……いや、彼女を守る立場……)
思考が混濁する。健吾は、震える手で宵闇の腰を引き寄せた。それが恐怖によるものか、あるいは彼女への抑えきれない渇望によるものか、彼自身にももはや分からなかった。
「……ふふ、合格だ。道の先が見えてきたぞ」
宵闇が健吾を解放し、前方を見据えた。すると、何もなかった白黒の空間に、カタカタと映写機を回すような音が響き渡り、巨大な「セット」が次々とせり上がってきた。
それは、映画『白百合の純情』に登場した、あの華麗な伯爵邸の広間だった。だが、そこにあるピアノも、豪華なシャンデリアも、すべてが紙細工のように薄っぺらく、それでいて触れれば指が切れそうなほどに鋭利な影を落としている。
「あそこにいるのが、お前の探している『迷子』だ」
宵闇が指し示した先、広間の階段の中ほどに、一人の男が立ち尽くしていた。帝国館の看板役者、長谷川純三郎。 彼は、誰もいない広間に向かって、虚ろな瞳で何度も何度も、同じ台詞を繰り返していた。
「……ああ、白百合のような君。僕の愛を……僕の愛を……受け取って……」
「……長谷川さん!」
健吾が駆け寄ろうとするが、宵闇がその腕を掴んで止めた。
「待て。よく見ろ、藤木。彼の足元を」
見れば、長谷川の足元からは、無数の「黒い手」が伸び、彼の影を地面に縫い付けていた。そして、その影の影……さらに深い闇の中から、小さな、猿のような形をした影の小鬼たちが、ニタニタと笑いながら現れた。
「……あれが、君の言っていた小鬼か」
「ああ。奴らは、役者の『演じたい』という情熱を吸い取って太る。……お前が救おうとしている男は、もうすぐ空っぽの殻になるぞ」
小鬼たちは、異邦人である健吾と宵闇に気づき、一斉に首を真後ろに回転させた。その口が、裂けるように大きく開く。
「……宵闇。この現象を解決する方法は?」
健吾は、カバンの中から往診用のメスを取り出した。色のない世界で、鋼の刃だけが鈍く光る。
「小鬼どもの心臓を突くか……あるいは、この『物語』の結末を書き換えて、彼らの食いぶちを奪うか、だ」
宵闇は、優雅な手つきで自らの長い髪をかき上げた。
「私は小鬼どもの相手をしよう。藤木、お前はあの中途半端な役者を正気に戻せ。……お前の得意な『理屈』でな」
「……承知した。精神疾患における現実検討能力の回復。……私の専門分野だ」
健吾は、白黒の階段を一歩ずつ踏みしめた。背後では、宵闇が影を操り、襲い来る小鬼たちを無慈悲に引き裂き始めている。彼女の赤い瞳が、戦いの中でさらに輝きを増し、時折健吾を振り返っては、妖艶に舌を覗かせる。
「……藤木! 早くしろ! さもなくば、お前の唇もその小鬼どもにくれてやるぞ!」
「……っ、やかましい! 黙って見ていろ!」
健吾は、虚空に向かって愛を叫び続ける役者の前へと立ちはだかった。現実と虚構が交差する、白黒の舞台の上。合理主義者・藤木健吾の、命懸けの「治療」が始まろうとしていた。




