第10話 其の二:甘い蜜と影の理
「……落ち着くんだ、皆! 出口はあちらだ。押し合わないでください!」
健吾はパニックに陥る観客を誘導しながら、綾子の……否、宵闇の細い肩を抱き寄せ、ひとまず劇場の外へと連れ出した。
外に出ると、浅草の夜気はまだ活動写真の興奮を湛えていた。だが、背後の館からは「役者が消えた」という信じがたい噂が波紋のように広がり、野次馬が集まり始めている。
「……藤木、そんなに硬くなるな。私の肩に食い込んでいるぞ」
宵闇が、不敵な笑みを浮かべて健吾を見上げた。その瞳は夜の闇よりも深く、それでいて炎のように紅く揺らめいている。
「……仕方ないだろう。あんな非科学的な消失を目の当たりにして、平然としていられるか」
健吾は眼鏡を押し上げ、乱れたネクタイを整えようとした。だが、宵闇はその手を遮るように、彼の胸元に指を這わせた。
「それよりも、藤木……喉が渇いた。この体は、どうにも繊細すぎてな。あんな刺激的な光る映像を見せられたら、中の私が乾いてしまった」
「喉が渇いたなら、あそこにラムネの屋台が……」
「……そうではない」
宵闇は健吾の耳元に唇を寄せ、熱い吐息を吹きかけた。
「私を潤せるのは、ラムネのような安っぽい砂糖水ではない。……もっと、こう。お前が隠し持っている『高鳴り』のような、熱いものが欲しいのだ」
宵闇は、健吾の首筋にそっと唇を触れさせた。
「……っ、なっ、何を……!」
健吾の全身に電撃が走る。周囲は人混みだ。街灯の下で、白衣の……今は背広の男が、絶世の美女に首筋を弄ばれている。その背徳感と、宵闇の放つ圧倒的な色香に、健吾の理屈は一瞬で雲散霧消した。
「……人前だと言っているだろう! 行くぞ、あっちの屋台で何か飲ませてやる!」
健吾は赤面したまま、逃げるように宵闇の手を……いや、もはや指を絡めるようにして、路地裏の静かな屋台へと連れ込んだ。
辿り着いたのは、仲見世の裏手にある、小さな汁粉屋の屋台だった。
「……はい、冷やし汁粉だ。これで我慢しなさい」
健吾は、お椀を宵闇の前に突き出した。
「ちっ」
宵闇はと小さく舌打ちをしたが、素直に白玉を口に運ぶ。
「……ふん。綾子が喜んでおる。よしとしよう」
「当たり前だ。君が勝手に彼女の体を使いすぎて、栄養失調になられては困る。……さて、宵闇。先ほどの『役者の消失』について、君の見解を聞きたい。あれは、何らかの光学的な反射を利用したトリックか?」
健吾は手帳を取り出し、真剣な目つきで書き込みを始めた。
「トリック? お前はまだそんなことを言っているのか」
宵闇は呆れたように白玉を飲み込み、健吾の手帳を奪い取った。
「いいか、藤木。あれは『影隠し』だ。活動写真というやつは、光が強ければ強いほど、その裏側に濃い影を生む。あの劇場のスクリーンには、長年蓄積された観客の『思念』が影となってこびりついていた。そこに、悪戯好きの影の小鬼が住み着いたのだ」
「思念の蓄積……? 物質的な裏付けがない話は理解しがたい」
「理解しなくていい。要は、あのスクリーンは今、あちら側の世界への『門』になっているということだ。役者は引き摺り込まれた。今夜中に助け出さねば、あいつは一生、あの白黒の世界で同じ芝居を繰り返すことになるぞ」
宵闇は、健吾の顔を覗き込んだ。
「どうする、科学者殿。お前の数式で、あの役者を救い出せるか?」
「……救う。救うに決まっているだろう」
健吾は宵闇から手帳を取り返し、力強く閉じた。
「たとえそれが未知の物理法則によるものだとしても、私の目の前で不条理な消失が起きるのを看過することはできない。それに……」
「それに?」
「……君がそんなに面白そうに笑っているのが、癪に障る。私が君の予測を超えて、この事態を解明してやる」
「ははっ! いいぞ、藤木。その傲慢さ、嫌いではない」
宵闇は楽しげに笑い、健吾の飲みかけの茶を奪って飲み干した。
「……おい、それは私の……」
「間接接吻か?科学者なら微生物の移動程度に思っておけ」
健吾はもはや言い返す気力もなく、立ち上がった。
二人は再び、騒動の冷めやらぬ帝国館へと戻った。正面玄関は警察や野次馬で封鎖されている。健吾たちは、宵闇の案内で、建物の裏手にある非常口へと向かった。
「ここだ。……藤木、ここから先は『影』の歩き方で行くぞ」
宵闇が非常口の重い鉄扉に手をかけると、扉の隙間から、ドロリとした漆黒の闇が溢れ出してきた。それは、夜の暗闇よりもなお深い、光を拒絶するような真の闇だ。
「……ここに入るのか?」
「怖いか? 安心しろ。私の影の中にいれば、お前をあちら側の小鬼に見つからないようにしてやる」
宵闇は、健吾の手をギュッと握り締めた。その掌は、驚くほど熱い。先ほどまでの「冷たい綾子」とは違う、宵闇自身の生命力が溢れているような、力強い熱だ。
「……君を一人で行かせるわけにはいかないからな。主治医として、患者の安全を確保する義務がある」
「ふん。相変わらず、可愛げのない男だ」
二人は、闇に包まれた劇場の裏舞台へと足を踏み入れた。そこは、現実と虚構が混ざり合う、歪な空間だった。緞帳の陰から聞こえるのは、観客のいないはずの拍手。何もない空中を、活動写真のフィルムのような光の帯が走り抜ける。
「……あそこだ」
宵闇が指し示したのは、舞台中央に鎮座する、あの巨大なスクリーン。裏側から見るそれは、まるで脈打つ巨大な皮膚のように、怪しく震えていた。
「藤木、私の手を離すなよ。……あちら側の世界は、お前の常識が一切通じない。頼れるのは、お前のその『頑固な理屈』と、私の『影』だけだ」
「承知した。……科学の光で照らせないなら、私が君の影になってやる」
健吾は、宵闇の手を強く握り返した。二人は光り輝くスクリーンの「裏側」へ、決死の覚悟で飛び込んだ。
――その瞬間、浅草の喧騒は消え、世界は色彩を失った「白と黒」の静寂へと塗り替えられた。




