9話 木漏れ日の記憶
声がきこえる。和気藹々とした幼い声。
それは天候が不安定な天津の寒さの中にあっても、気温に負けることなく響いていた。
子供は風の子なんて古い言葉を体現したように、天真爛漫で無邪気にはしゃぎ駆け回る子供たちの姿がそこにある。
しかし、その中に私の――僕の声は混じっていない、含まれていなかった。
「ねぇ……キミ、泣いているの?」
木陰の下で蹲り、孤立していた僕に声がかけられた。
それは――とても優しい声だった。
「うっ……うぅ……ぐす――泣いていない。男だもん」
私は子供特有の虚勢で涙をごまかして、自分は男だからと精一杯の背伸びで大人に対して見栄を張っていた。
転ばされて怪我をした体を必死に隠し、鼻水をすすりながら僕は――私は言う。
しかしいくら強気を見せようと、潤んだ瞳で視界の輪郭はぐにゃぐにゃと歪んでいた。
「痛くないよ。あんなやつらのパンチなんか。全然、へっちゃらさ」
その日、子供たちのグループの中で白髪の気弱な子がいじめられていた。
それは単に、彼がメガネをかけていたからという理不尽な理由から起きたものだった。
子供の世界ではままある、外見を理由にしたいじめ。
私はそのいじめが子供ながらに、なんとなく、無性に許せなかったのだ。
「プラーズは強い子なんだね。私は強い子が好きよ」
染み渡る白湯のような暖かい声が、私の内側を、体の芯から温めていく。
私はそのぬくもりに、もはや自分がなぜ泣いていたのかを忘れてしまっていた。
それは涙を拭った先にいたのが、女神と見紛うような美しく神々しい女性だったからなのかもしれない。
この体験は齢十未満だった私にとって――一目惚れで初恋となった。
お姉さんによしよし泣かないで偉いぞと、全てを理解した上で頭を撫でられる。
その手はとても柔らかく心地よかった。
私は彼女にそうしてもらうのが好きだったことを、とてもよく覚えている。
周りに馴染めない私は白髪の気弱な少年と二人で木陰を分け合って、紙の本を読みふける毎日を送っていた。
孤立していた私と白髪の少年にも、雫お姉さんは分け隔てなく声をかけてくれる。
「ほら二人ともこっちにきて。病気がないか調べるから、少し体を見せてね〜」
また医療の心得があった彼女は子供たちの健康状態の診察も無償で引き受けていた。
そんな彼女からすれば、いつも木陰で読書をしているだけでその場を動かない私たちの様子は心配になって当然だったのかもしれない。
雫お姉さんは天津の有力貴族の一つ――禊家の御令嬢で、私たち孤児が集められたペイント園に多くの寄付をしてくれていた。
そんな彼女はみんなの人気者で、いつも誰かが側にいる。
それはペイント園の子供だけではなく、身なりのいい大人たちも例外ではなかった。
お姉さんの隣にお金持ちの大人がいるときは、決まっていつもより寄付の金額が多かったらしい。
雫お姉さんの底知れない魅力が、言語化できない本能的な何かが周りを惹きつけそうさせるのだと、私は子供ながらに感じていた。
――僕らは、愛に飢えていたんだ。
「プラーズ、また本を読んで勉強をしているの?」
お姉さんは有象無象の子供の中から私を見つけてくれた。
知らないことをいくつも知っていて、迷うことなく僕を導いてくれる――宵闇に浮かぶ一等星のような存在だった。
「そうだよ。〇〇くんみたいな馬鹿にはなりたくないからね。あんなやつはすぐ死んじゃうんだ。それにいっぱい勉強して軍隊に入れば食べ物に困ることがないんでしょ。だったらたくさん勉強しないと、それは天津に生きる者の義務だって――」
私の言葉に、雫お姉さんは悲しそうな顔をした。
てっきり自分が軍隊に入ることを喜んでくれると思っていた。
お姉さんは僕の行動を肯定し、歓迎してくれるはずだと思っていた。
そんな彼女が悲しい顔をしたことで、私の思考はひどく乱された。
僕は正しいことをしているはずなのに、どうしてそんな顔をするの、と。
お姉さんが僕を叱る。
その言葉の意味は、よくわからなかった。
私はお姉さんに叱られたことに対する恥ずかしさと悲しさと子供ながらの反発と、諸々の多くの感情がないまぜになった状態で、今にも泣き出し逃げてしまいそうになるのを堪えるので精一杯だった。
だからこの時の私は、素直にお姉さんの忠告を聞き入れることはなく、ただただお姉さんのためを想って、自己中心的に学ぶことを選んだ。
いつも隣にいた白髪の少年も、学ぶことで自分の夢を叶えようとしていた。
親の愛を知らない僕たちは飢えていた。
だから目標が――夢が必要だった。
世の中のルールよりも、今の自分を稼働させるための、心の原動力が必要だったのだ。
だから私がお姉さんの言葉の意味を理解するのは、ここからまだ先のことになる。




