七(終)
登場人物
有賀雅耶…北町奉行所同心見習い
籐嶺靱負…北町奉行、大名
こなみ橋を渡ると増山町を突っ切る大通りに出る。
すぐ近くは奉行所だが、非番の時くらい役目を離れたい雅耶の足は自然、速くなった。
まっすぐ家へと向かう道すがら、彼はこのあとの午後をどう過ごそうかとぼんやり考えていた。(序より)
* * * *
青い透き通るような空だった。
日に日に寒さは緩み始めていたが、風はまだ冷たい。しかし、明るい日差しの中では、それすらも心地よく感じられるのが不思議だった。
こなみ橋を渡って田舎道を少し歩くと、民家が疎らになり、自然が多くなる。
緑に囲まれた寺の裏手は小高い丘で、ゆるやかな斜面は石塔や卒塔婆が並ぶ墓地になっていた。
秋の彼岸の頃に母親の墓参りに来ていた雅耶は、また律儀に春の彼岸近くにお参りにくるとは思わなかったと、少し罰当たりに心の中で呟いた。
墓の下には顔も覚えていない母親が眠っている。
今より若い頃には、死んだらそれで終わりだと、葬式や墓や墓参りなどにはなんの意味も見い出せなかったが───そして、ついこの間まではその気持ちに変わりはなかったが───今は少し違う気持ちで、とはいえ花を供えるでもなく、手を合わせるでもなく、彼はただ墓石の前に佇んでいた。
父親が病床に伏してからは、代わりに年に二、三回、この墓地に足を運ぶようになっていた。
と言っても毎回手ぶらで、墓に土埃や枯れ葉が溜まっていれば、素手で右に左にと払うくらいのことしかしていない。
思えば、たまの休日にやることがない───ただそれだけの理由で墓参りに行った帰り、五年ぶりに葉と再会した───そして靱負と出会ったのだ。
あの時の自分の馬鹿げた態度と、今もなお行方知れず葉のことを思うと、胸が刺されるように痛かった。
「───また、そのような顔をしている」
不意に背後から声を掛けられ、雅耶は飛び上がった。
男の低い、豊かな声の主は瞬時に分かったが、かといって、その人がここに居る理由は分からなかった。───というより目の前の事実がすぐに飲み込めなかった。
「おっ───」
「笙でいい」
丘の上の小道に立っていたのは、鈍色の着流し姿で網傘を深くかぶった侍───靱負だった。
その場で跪くか、とりあえず彼の前まで行くか、一瞬迷った雅耶だったが、とりあえず墓石の間を通り抜け、小道に戻ると、
「……お奉行様……」
と口の中で小さく呟いた。
それに答えるよう靱負は網傘を外すと、それを片手に持ち替えた。
この季節ならではの美しい透明な空気にも負けぬ、いっそ精巧な作りものめいた靱負の男性的な美貌が明らかになる。
「笙様」
雅耶は今度ははっきりと靱負に向かって呼びかけた。
まだ朝早い時間、周囲に人影はなかったが、やんごとなきお方の正体や名を───たとえ早春の清々しい空気に向かってでも口にすることは憚られた。
雅耶は、靱負が何も言わずに自分の頭越しに墓の方向を見やったので、同じく黙って母親の墓を振り返った。
「葉は無事だ」
「!」
「娘の主家筋の御庭番に確かめた。近郊の御料───その者の縁者が代官を務める、娘の母方の里に引き取られたそうだ。いわばその御庭番の家臣一族の村。葉に必要な治療と薬、負傷がお役目によるものであることも理解しているので、生涯手厚く世話をすると───里の長、代官、御庭番とその上役に直に会って約束させた」
御庭番とその上役、───さらにはそれより上の最高位の人物もその場にはいたが、靱負は割愛した。
「……無事だと……」
長澤から聞いた、伝聞による消息ではない、あまりにも説得力のある言葉に雅耶はしばし絶句した。
「……母方の───母親は」
「もう亡くなっている。だが近しい縁者はいるそうだ」
「笙様はお葉にお会いになられましたか?」
回復の程度を知りたかったのだが、靱負はふっと表情を曇らせ、首を横に振った。
「すまない───だが会わせてほしいと言えば大事になる。まだ、動ける状態ではないと。───おそらく一生体に不自由は残るだろうと医者に言われたと、その御庭番は言っていた」
「───」
あの時垣間見た体中の傷……───生きている方が不思議だったのだ。
生きていたのだ……。
雅耶は力が抜けたようにその場に膝をついた。
「ありがとうございます」
葉の今の状態や立場、そしてその本心は量りようもないが───…。
「いや……」
「お葉を松坂町の町医から強引に動かしたのはなぜですか?」
「自分のところに腕利きの医者がいるので息があるうちに診せたかったのだそうだ。名のある野口貞庵のところに担ぎ込まれたとは知らず───……捕物の真っ最中、一刻も争う、混乱した状況だったからな」
現実味のこもったその言い様に、雅耶は靱負もその場にいたことを思い出した。
捕方の中に怪我人は出なかったが、反抗した吾妻屋の者や用心棒たちに死者はでていた。
御庭番配下の者として吾妻屋を探索していた葉が、捕まって拷問を受けたのは───わかる。
しかしなぜ葉は、別の組織の人間である雅耶に抜け荷の受け取り日時を知らせたのかだろうか?
今となってはもう聞くことはできないだろうが……。
仲間内で何か齟齬が───不和や裏切りが───あったのだろうか。
隠密理に情報を集め、不正を暴く組織を成立させていくことは難しいし厳しい。
幕府の公の組織である北町奉行所ですら春からの一時期、奉行が不在だったため、あからさまに規律が乱れた。
前任の奉行から重用されていた───そして心ある与力・同心から信頼されていた筆頭与力の長澤がいたからこそ北町奉行所は崩壊せず真っ当に職務を遂行できていたのである。
そして長澤は奉行所に現れない新任の靱負と連絡を取り合う力(権力か、人脈か)があり、雅耶には通常の任務以外に、当時裏の社会で噂になっていた抜け荷の探索を命じた。
有能な長澤の存在に奉行所はどれほど助けられたか……。
危険な激務に従事できるのは助け合える仲間がいてこそ。
統率する御庭番の旗本(あるいは御家人)は、靱負の話によると、問題のある人物のようには思えなかったが、組織の末端の───しかも若い女である葉はどれたけ気に掛けられていたのか、仲間に疑惑や不安があった時、直接葉から上申できるような関係だったのか……。
同じ事件を───下手人を追う町奉行所の同心・雅耶に情報を渡した理由は……。
雅耶側の探索でも、大坂を経由した船の動きや、吾妻屋側が荷を受け取る仕組みは明らかになってきていたが、具体的な受け取り日時が分かったことは大きかった。
店の者の動きなどを見て裏付けを取った雅耶は長澤に報告し、長澤は自ら動くことで情報の漏洩を防ぎ、綿密な計画のもとに捕物は無事成功した。
江戸の商人側の主犯一味は証拠とともに捕縛され、ついこの間、相応のお裁きを受けた。
江戸より遠く離れた南の大藩については───……靱負は「すぐには無理だが、いずれは」とだけ語った。
それでも靱負なら「お構いなし」なら「お構いなし」と言うだろう。
きっと時間が必要な処置が施されたのだと、雅耶は考えることにした。
南の大藩に対して、江戸の庶民にまで見えるようなお裁きが下ることはないだろう。ではどこまで……誰が、罰を受けるのか。二度と御法度に背かないと、言えることはできるのか。あるいは、一時期だけは、千代田のお城の機嫌を窺って、身を潜めるのか……。
それでも、江戸の町を巻き込んだ───誰かが犠牲になる───所業は許さない。また同じような事件が起きても、必ず暴き出してやる───と雅耶は心に誓った。
少し離れた場所から、母の墓を見つめながら。
───特に母に語りかけていたわけではないが。
母の墓の隣の空いている場所に、唯一の肉親である父親もいつか埋められることになるだろう……───それは悲観しても仕方のないことだった。
「おまえ……正式に父親の跡を継いだらどうだ?」
知らぬ間に長い沈黙が続いていた。
靱負の口からは、葉に関するそれ以上の言葉はなかった。
そもそも彼はどれほど雅耶と葉の関係を知っているのか。その情報源となる長澤ですら、二人のことは何も知らないはずだ。雅耶から聞かされたのは正義ただ一人。
春は───というより年中忙しい、貞庵先生のところの見習い医者には最近会っていなかった。
それにしても虚を突く言葉だった。
雅耶は反応できなかった。
今? 今だからこそか、それとも、今では遅すぎるのか……。
「おまえはもう一人前だ」
「───」
反射的に違うと叫び出しそうになり、雅耶は黙ってその衝動をやり過ごした。
『立派なお役人様になられたのですね』
『───まだ見習いなんだ』
『お喜びでしょう、お父上様も。貴方様のそのお姿……』
今なら素直に、雅耶が父親と同じ道を歩んでいることを、葉が心から喜んでいたことが分かる。
純粋に寄せられた心。
出会った時、葉は二人の運命を知っていたのだろうか……。
皮肉にも雅耶は今ほど自分の未熟さを実感したことはなかった。
「お奉行様……」
靱負はそれ以上何も言わなかった。この御仁は本当に口数が少ない。
こんな大きな、取り返しのつかない後悔の中で、自分は“一人前”なんてものになるのだろうか……。
父親が望んでいた通り、───葉が望んでいた通り。
しばらくして、雅耶は顔を上げると、靱負に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。───後ほど、御番所にも───」
「今日は非番だろう。ゆっくりしたらいい」
「おっ───笙様は……」
「私も休みだ」
「お一人で、供も連れず───」
靱負は微かに顔をしかめた。それすらも見惚れるほど絵になって、雅耶は口元が緩むのを感じた。
その時。
ポツ───。
「?」
ポツ、ポツ、ポツ───…。
あっと思う間もなく、雨が降り出した。
決して強くはないが、霧雨とも言い難い。
空はいつの間にかうっすらと灰色になっていたが、雲のようなものは見えず、周囲は雨とは不釣り合いなほどに明るかった。
雅耶は思わず額辺りを手で翳し、靱負は黙って網傘をかぶりなおした。
「どちらまで? お供いたします」
「いや、いらん」
「それでは、この先のこなみ橋まで───町に出るまで、どうぞお供させてください───」
「わかった」
靱負が先に歩き出す。それに続こうとして、雅耶は一瞬、振り返った。
低い木立と明るい日差しに囲まれた墓地に降り注ぐ、薄い銀の帳のような雨。
その先に見えるのは───…。
「どうした?」
「いえ……」
これで、本当にお別れです……。
雅耶は踵を返して、小走りに、笙の後ろに追いついた。
完
ここまでお読みいただき、ありがとございました。麦倉樟美




