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銀の帳(とばり)  作者: 麦倉樟美
7/9

六(その二)

登場人物

籐嶺とうりょう靱負ゆきえ…北町奉行、大名

厳泉げんせん時継ときつぐ…将軍家

 年が変わり、新年の行事全てが終わり、日常の慌ただしさが戻ってきた頃、月はすでに一つ先に進んでいた。

 千代田の城の中奥の一角。

 将軍が執務を行う部屋ではすでに人払いをし、上座の時継は段差のギリギリまで靱負に近づき、書類を丁寧に読み込んでいた。

「これで抜け荷の一件は落着か。───ああ、これでいい。番頭などには少し甘い気もするが。彼らも自分たちが法を犯していたのは分かっていたはずだ」

「吾妻屋の大番頭以外は、ただ主人に命じられて唯々諾々と従っていただけです。それは高給はもらっていたでしょう。しかし、仕事と家を失い、これから家族を養って行かねばなりません。江戸払いで十分だと───」

「わかった。異論はない。……奉行所の切れ者どもが知恵を出し合って決めたのだろう。そなたも納得しているなら、間違いはない」

「はい」

「───」

 自分より経験値の高い配下を信じる奉行とそれを評価するその上司。

 それぞれが配下と自分を信用しているからのこその結論に、靱負は言葉を付け足す必要を感じなかった。

「捕物の論功行賞も終わったようだな。───直接危険に接する者たちだ。たとえ末端の者でも功を上げれば褒美があって当然だ。───今回は捕方には怪我人や死人は出なかったようだが……万一、不幸にもそういうことが起きた場合も遺された家族は手厚く扱わねばな」

 時継は神妙に書類に手を滑らせて呟いた。

 数十枚にもわたるその中の論功行賞の欄には有賀雅耶の名前もある。

「それもまたご裁可をいただけてありがたく存じます」

「ほかに何か今日はあるか?」

「はい」

「───」

「ぜひとも上様にはお願いしたき儀がございます」

 口調は変わらなかったが、時継はおやという顔をした。

「なんだ?」

「今回の一件の黒幕の処分を」

 さらりと言った靱負の言葉に、時継の表情が、今までのわずかながらも感傷的なものから事務的な……専制君主めいた冷酷なものへと微妙に変わった。

 それをまざまざと目にしながらも、しかし靱負はそれに怯むことも自分が理不尽な言いがかりをつけているという負い目もなかった。

「お構いなしとされるおつもりでしょうか?」

「大名だからね」

 時継は困ったなというような、子どもに向けるような苦笑いを返した。

「はっきり仰る……。商人たちの証言や証拠の帳簿、書きつけは山ほど出てきましたし、中には領主の花押が押された書状まで見つかっています。それでもですか?」

 そう言う靱負の口調にはまだ感情的なものはなく、今のところ、ただ素朴に疑問を口にしている───といった感じだった。

「分かっている……。しかし、取り潰せば多くの家来が路頭に迷うことになる」

「………」

「浪人を増やすことは世情を不穏にし、武士階級はおろか町人、農民にまで影響を及ぼす。───それでもいいと?」

 相変わらず子どもを諭すような口調だった。

 しかし、その程度では相手が反発しないことを知っている時継は、果たして彼がどこまで理解してくれるだろうか……と推し量るように靱負を見つめた。

「確かにお取り潰しは影響が大きすぎます」

「……では、どうしてほしいと?」

「領主の蟄居を───そして、そのまま隠居を」

「蟄居?」

 平然と口に出された言葉を時継が聞き返した。すると靱負は相変わらず何でもないことのように頷いた。

「あそこには二十を過ぎた世嗣がいたはずです。家督を譲らせ、代替わりさせるべきです。江戸でも領地でも今の領主にいい噂はありません」

「よく調べている……」

 町奉行の職務ではない。本来ならば幕府の監察役である目付の役目だが、外様大名として普段監視される立場だからこそ、逆に幕府や他国の情報を集める術に精通しているのだろう。───そして実行している。

 その辺りのことは時継には口が裂けても漏らさないだろうが。

 阿部藩の家臣は有能で、次期当主の教育は完璧だったようだ。

「蟄居でも厳しいと?」

「本来ならば改易は免れぬ大罪だ。しかし───」

 言葉を途中で止めた時継に、靱負は「なにがいけないんだ?」という感情をあからさまにする代わりに目にだけ強情な色を湛えた。

 整っているだけにそれは迫力がある。

 時継には通じないが。

 靱負は昔から何か言い張りたいときに限って言葉少なになり、目だけで抵抗した。その上とても辛抱強く……。

 彼の言い出したことが実行されれば、それが時継から発せられたものであっても、江戸での探索を北町奉行の靱負が指揮したことが公になっている以上、彼の関与は疑われ、幕閣及び諸大名たちの反発が彼に向くのは避けられないだろう。

 それは時継が配慮しても完全に庇うことはできず、靱負が特殊な立場───彼らと同じかそれ以上の有力大名である───だけに余計風当たりが強まるのは想像に難くはなかった。

 それが分からない靱負ではないだろうが、そもそも彼はそういった逆風を───周囲の悪意を───まるで気にしない性質(タチ)だった。

 その強さは時継にとって見覚えのある生来のもののほかに───彼と道を分かってから出会ったものに影響され、身につけたもののようでもあった。

 それを頼もしいとも口惜しいとも思える時継は、幾分芝居がかったようにため息をついた。

「実際に采配を振るった者がいる───おそらく家老あたりか。その者に詰め腹を切らせるくらいなら簡単にできるだろう」

「だめです。必ず領主を」

「……言いたいことは分かるが……」

 当代の領主が抜け荷に関して強い意向を持って積極的に関与していることは分かっていた。お飾りの領主が家臣らに取り込まれてやむをえず罪を犯しているのとは違うのだ。

 時継はそこで折れたように両手を軽く降参の仕草で上げた。

「分かったよ」

「───本当はそれでも……」

「?」

「国許に閉じこめて、二度と江戸には……人々に触れられるところには決して出さぬように───徹底させてください」

「………」

 靱負は時継には通じないのを承知で低く呟いた。

 領主が国許でならまだしも───この将軍家お膝元の江戸の町で、無辜の民を自ら手に掛ける狂気の沙汰に及んでいたことが公になれば、それこそ改易どころではない、お家断絶すらあり得るだろう。

 しかし現実はこの人物を罰することはできない。ならば少なくとも二度と犠牲だけは出さぬようにすることが───唯一自分にできることだった。

「靱負……」

「国許でも厳重に閉じ込めるように───と」

「………」

 そこまで将軍自ら次期領主や重臣たちに念を押せば、さすがに彼らも気づくだろう。お殿様のご乱心を───江戸の町を騒がせた非道な辻斬りの下手人を───幕府は知っていると、───次はないと。

 不意に靱負は、配下の同心である有賀雅耶がこの件に関して言及した際の激した態度を思い出した。

『殺されたのが町人だから? 殺したのが侍だから? 人を殺しても罪にならないっていうんですかっ!』

 ───確かにその通りだ。罪にはならない。

 雅耶がこの顛末を知ったら───決して知られることはないだろうが───どう思うのだろうか? 怒るだろうか、それとも、苦汁を飲み込むのだろうか……。

 ただでさえ、彼は今困難の最中にいる。

「どうした? 靱負……」

 そして、二度と登城することはないとまで思い詰めていた自分に時継との面会を決断させたのが一人の若い町方同心だと知ったら、時継はなんと言うだろうか───。

「……いえ……」

 いつかは話せる日が来るかもしれない。

 もしくは……。

「ただ今回の件───いや、恒常的に密貿易に関わっているのは、やはり財政上追い詰められているからだと思われます。追い詰めすぎは良くない。領主の蟄居祝いに、一度天下普請を減らしてやるくらいのことは考えてやってください」

 皮肉と、そして他国の窮状を慮っての負担軽減の上申を、靱負は町奉行の顔と外様大名の顔の両方で言ってのけた。

 時継は思わず、そなたのところは大丈夫か、ご禁制に触れる商売に手を出していないかと聞きたくなったが───さすがにそれは飲み込んだ。

「……なるほど。分かった。しかし蟄居祝いというわけにもいくまい。代替わりの祝いで大盤振る舞いするのも後々妙な慣例を残すことになる……。となると、義父(ちち)上───大御所様の姫君の一人でも押しつけて、その婚礼の祝いに……」

「それは……お好きなように───」


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