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銀の帳(とばり)  作者: 麦倉樟美
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登場人物

有賀あるが雅耶まさや…北町奉行所同心見習い

長澤ながさわ…北町奉行所筆頭与力

籐嶺とうりょう靱負ゆきえ…北町奉行、大名

よう…雅耶の知り合いの町娘

 霜月の晦日。

 日が落ちてしばらく経つと、折悪しく冷たい霧雨が降り始めた。

 葉から託された、玉かんざしに付けられた紙に描かれていた屋号紋の海産物問屋『吾妻屋』は大店で、増山町にある本店のほかに朱鷺町と佐々原町に小さな店を構えていた。

 それらのうち、海に通じる大川の傍流、瑠璃川に面し、直接舟が着けられる荷揚げ場があるのは佐々原町の店だけだった。

 表通りに面する店の裏には吾妻屋が所有する広い敷地があり、左手の奥に川が流れ、店と繋がる母屋との間に、複数の倉と荷揚げ場があった。

 まっとうな荷揚げは昼日中にするのだろうが、奇数月の真夜中、月のない晩に密かに受け入れる荷が南からの禁制品であることは───今までの探索の成果によりほぼ間違いないと断定されていた。

 佐々原の店に近い、くるせ橋の袂にある二階建ての土蔵造りの表店に集められた北町奉行所の同心やその手下である岡っ引き連中は、まだ今夜の捕物の内容を知らされていなかった。

 大店である吾妻屋出入りの役人は南町の同心が有名だったが、北町にも付き合いのある者がいないとは知れず、長澤は相手方に情報が漏れないよう細心の注意を払っていた。

 今この建物にいる二十人ほどの同心とその小者は、長澤が吟味して声を掛け、集めた者たちだった。

 長澤を信頼している彼らは今夜が通常とは異なる捕物になることは承知しつつも、張り詰めた雰囲気の中、静かで落ち着いた態度を保っていた。

 もちろん彼らは内心では自分たちがこれからどこに向かい、どんな捕物が始まるのか、想像力を働かせていただろう。

 そもそも、捕物の現場に筆頭与力の長澤が指揮、検使として出張ってきていること自体異常なのだ。

 さらにその上、長澤の背後には、暗い色の小袖羽織に野袴という、まるでどこかの剣術道場の師範かあるいは忍びのような───ここには本物の忍者を見たことがある者はいなかったろうが───正体不明の侍が影のように立っていた。

 それは唯一事のあらましを知っていた雅耶を驚愕させた。

 普段は小間物屋を営む夫婦が住む町家を信頼できる人間を通して借り受け、日暮れ前後に目立たぬように集まってきた同僚たちを迎え入れていた雅耶は、完全に日が落ちた頃、長澤の後ろに靱負が続いて入ってきたのを見た瞬間、さすがに息を飲んだ。

 町奉行が捕物の現場に現れることはない。まさに前代未聞の出来事だ。

 もちろん、それは当然のことながら隠密の行動であり、後日作成される出動の記録にその名が記されることは決してないだろう。

 そもそもこの場にいる者は誰も靱負の正体は知らないし、誰かに(本人か、長澤にか)聞くこともしない。

 そんな目下の者たちの戸惑いと不安をよそに、長澤とだけ短く話し合った靱負は、その後は一歩引き、長澤も含めた全員と距離を取っていた。

 混乱を防ぐため、自分は表に出ず、指揮は全て長澤に任せるつもりなのだろう。

 それではなぜ、この場に出てきたのか。

 実際のところは雅耶には分からない。もしかしたらただの気まぐれ、好奇心か……。

 多分、そうではない。

 万一、この出役により証拠品等が押収できなかったた場合───吾妻屋が老中や大名とつながりのある大商人であることを考えると───奉行はもちろん直接指揮を執った与力にも何某かの影響───つまりお咎め───があることは避けられない。

 靱負も長澤もそれは承知の上で、巻き込まれる人間(雅耶のような下っ端の役人ではなく)をできるだけ最小限にするため、通常の決まりごとを破ってこの場にいるのだろう───……おそらく。

 第一義は、今夜の捕物がどこにも漏れぬよう、動かす人数をできるだけ少なくしたかったのだろうが……。

 そして今夜の結果が丁半どちらに転ぼうと、おそらく雅耶にまで累が及ぶことはない(上役や同僚の心証はともかく)。

 町方の一同心に過ぎない彼は、上からも下からも世間からも、物の数とは見なされず、処分の対象にさえならない───というのは、ある意味ありがたいことなのだろうが、彼の内心は違った。

 密貿易の噂を聞きつけた長澤の命により雅耶の地道な探索は始まり、そこで得られた情報が基になって今夜の捕物は計画された。

 その結果が吉と出ず、凶と出ても……───たとえ誰に咎められなくとも、彼はその責任を負うつもりだった。

 それに対しては些かの迷いもなかったが、やはり家で病床に伏している父親を思うと、気は重くなる。

 自分は『見習い』すら全うできなかったのかと……。

 だがもう後戻りはできない。

 脳裏を掠るいくつかの面影。これは彼にとって運命の事件なのかもしれない。

「───皆の者、聞け」

 長澤の声に、全員がはっと顔を上げた。




 瑠璃川に架かるくるせ橋より一つ川下のきよし橋を見張っていた小者から、それらしき荷足船の通過を告げる知らせが寄せられたのは、長澤の説明から半時ほど経った後だった。

 くるせ橋から吾妻屋の倉までは川岸伝いに走ればほんのわずかな距離にある。

 月のない夜は暗い。

 霧雨は止む気配がない。

 雨の(とばり)は音も立てずに周囲を覆い、戸締まりを厳重にする商家が多いこの辺りはいつもより分厚い静寂に包まれ、川岸のせせらぎ以外、耳にするものはなかった。

 雨はすでに地面も建物も川端の草むらも───やがて着ている物までぐっしょりと濡らしていくだろう……。

 長澤たちと別れた雅耶は、配下の者数人を連れて川とは反対側の表通りから吾妻屋に近づいた。

 通りの外と内の人の気配に警戒しつつ、身の軽い者が一人塀を越えて小さな木戸の向こうに飛び降りた。

 閂が開けられると雅耶たち一行は音もなく敷地内に忍び入った。

 表の店と繋がる大きな母屋の一階には浪人崩れの用心棒が控えている。

 彼らに気づかれぬよう、雅耶たちは敷地内の東屋や樹木に紛れながら倉と母屋を結ぶ入り口が見える茂みに身を潜めた。

 荷揚げ場は倉の向こう側にある。川の水音は彼らのいるところまでは聞こえてこない。雅耶は一瞬、川岸から倉へ回った長澤たちの合図が聞こえないのではないかと案じた。

 ───が、それも一瞬のこと。

 ピィ───ッ!

 甲高い呼子笛の音が、濡れた空気を鋭く引き裂いた。


「御用だッ、神妙にしろッ!」

「なっ、なんだ───!」

「御用だッ!」

「御用だッ!」

「誰かぁ───ッ!」

 混乱は川の方から始まり、茂みから飛び出した雅耶たちは騒ぎを聞きつけてどこからともなく現れた店の者や用心棒たちと倉の母屋側の入り口の前で乱闘になった。

 とはいえ突然の出来事に浮き足立った彼らは比較的容易に捕縛されていく。

 雅耶は母屋の方へ逃げ出す人影を追いかけた。

 その背へ、

「有賀ッ!」

 川から回ってきた同心が叫んだ。

「荷は押さえた!」

「! 分かった!」

 『荷』とはこの場合、『禁制品』を指す。

 これでこの捕物は半分は成功したようなものだ。

 安堵の心を抑えて、

「俺は母屋に!」

 雅耶は振り返らずに叫んだ。




四(その二)

 表通りに面した店と、人が居住する母屋の二つに分かれた土蔵造りの複雑な屋敷は、今や叫び声と怒号が飛び交っていた。

 始めからこちらに回っていた捕方は何も知らない奉公人もいる───大体は二階で寝ていたが───母屋の中ではできるだけ穏便に任務を進めていたが、いかんせん倉側に多く人手を割かれたため、混乱は予想以上に大きくなっていた。

 それでも捕方の手によりいくつもの燭台が壁や柱に打ち込まれ、最低限の視界の中、逃げ出そうとする者、抗う者、怪しい素振りを見せる者の捕縛が次々に進んでいった。

 倉から逃げ出してきた男を追って屋敷の中に入った雅耶はその男を捕まえ、手下に渡した後、利き手に刀を、反対の手に携帯用の提灯を持って薄暗い廊下を進んだ。

 外で荷受けに直接関わっていた店の者と用心棒はあらかた押さえたようだ。

 二階に閉じ込めた何も知らない───かどうかはこれからの調べによるが───店の者たちの混乱も少しずつ収まっていくだろう。

 倉の中や主の居室など、抜け荷に関わる帳簿の類を探す役目の者はもう取りかかっている。

 決定的な証拠である積み荷を押さえていても、帳簿はある意味さらに重要だ。

 しかし雅耶はそれとは別に、少しでも事件に関する証拠を集めたくて、人気のない方向を選び、母屋の端に位置する離れのような場所に入り込んでいった。

 どこか黴臭い空気が立ちこめるこの辺りはさすがに無関係かも知れないと思いつつ、行き止まりに辿り着くと襖があり、開けてみるとそこは阿蘭陀風───とでもいうのか、馴染みのない装飾が施された、変わった小部屋になっていた。

 一見、豪華な物置のようにも見えるそこには普段使われているような痕跡や誰かが住んでいたような気配は感じ取れなかった。襖を広く開け放ち、正面のみを照らす提灯を注意深く室内に向けながら、刀を鞘に収めた雅耶は奥の壁を覆う漆塗りの豪華な棚に歩み寄った。

 彼は無意識に、今まで経験したことのないような違和感に、そそけ立つような感覚を抱いた。

 よく見ると左半分の棚の方が奥行きが浅い。そこでさらに左側の側板に手を滑らせるとわずかな引っかかりがあり、嵌め込まれた小さな板を爪を使って無理に取り外すと、鎌形の錠前が現れ、外すと棚がわずかに揺らいだ。

 それは隠し戸だった。

 引き戸になっている左側の棚を右側の後ろにずらすと、暗い地下への階段が現れた。

 冷たく淀んだ空気が鼻につく。

「有賀様!」

 ちょうどその時、雅耶を追ってきた岡っ引きの仁助が慌てて、無鉄砲に飛び込んでいこうとする(あるじ)を止めた。

「お一人では───」

「だったらついて来い!」

 雅耶は腰から十手を抜き出し、構わず狭い穴の中へ飛び込んでいった。

 捕物が始まってからある程度の時間が経ち、広い敷地と屋敷のせいで、捕方の数はだいぶ分散していた。

 屈まなければ頭を擦る高さの地中を左右の柱が支える地下道には人気も物音もなく、雅耶は逸る心に委せて小走りに出口を探した。

 やがて板切れと土でできた粗雑な階段を見つけ、駆け上がって目の前を遮る木塀に体当たりすると、いきなり煙るような霧雨に鼻先を突っ込んだ。

 視界に広がるのは地中と変わらぬ暗闇───。

「ここは───…」

 雅耶は咄嗟に、抜け出た先の位置の把握に戸惑った。

「隣……の敷地じゃないですか?」

 あとから出てきた仁助が気づいたように叫んだ。

 吾妻屋の敷地の片側はおおよそ川に沿い、もう片方は小商人がいくつか入る表長屋と裏長屋に接していた。一帯の地主は吾妻屋だ。

 路地を隔て、吾妻屋に一番近い表長屋の内の一軒は酒仲買の───…。

 そのとき、

 シュッ───!

 何かが空を切り、雅耶は無意識に地面に転がっていた。

「有賀様!」

 足元も確かめずにそんなことをしたのは結果的には正解だったが、おかげでますます周囲の状況が分からなくなった。

「有賀様!」

「どけっ───!」

 部下に危ないと叫ぶ間もなく、雅耶は手にした十手を振り上げた。

 キンと音を立て、それは白刃を受け止める。

 思いきり跳ねのけると、

「刃向かいするな! 神妙にしろ!」

 暗闇に向かって叫んだ。

 証拠の荷は押さえ、店の者も大部分は捕縛されている頃。

 余計な抵抗を、と舌打ちする間もなく雅耶は不利な体勢のまま起き上がろうとしたが、相手はそれを許さなかった。

 闇に白刃がきらめき、転がりながらそれを避けるだけで精一杯。

 いつの間にか仁助も敵の一人とやり合っていた。

「有賀様っ!」

「味方を───!」

 呼べ、とさえ続けられず、雅耶は三度めの突きを間一髪でよけ、ようやく立ち上がる隙を見つけた。

 向かい合った相手は暗闇の中、そうとは分からぬが武士───浪人崩れの用心棒か? 太刀筋に何かしらの癖があった。

 まともな立ち合いに十手は不利。

 雅耶は刀を抜きたがったがその隙を見つけられなかった。

 このままでは!───と、自分の不利が頭に閃いたその瞬間、

「有賀っ!」

 誰かの声が───相手が、その正体より先に味方ということだけを認識して雅耶は咄嗟に再び地に手をついた。

 間一髪で白刃が通りすぎていく。

 次の瞬間、すらりと閃いた誰かの刀が敵のものを跳ね上げ、その隙に雅耶は自分の刀を抜いて滑るように立ち上がった。

「───大丈夫か?」

 声は靱負だった。

 呼吸を全く乱していない彼は、まるでそんな暇があるとでもいうように雅耶を振り返り、部下の無事を確かめた。

「!」

 案の定、敵は素早く体勢を立て直して靱負に打ち込んできた。

 すると彼は構える様子も見せずに相手の小手あたりを打った。

「っ……!」

 軽い動きに見えたがその鋭さに気づいていた雅耶は一瞬手首が飛んでくるかと身構えた───が、

「───峰打ちだ」

 靱負の言葉通り、相手の手からは痺れたようにポロリと刀が零れた───だけだった。

 思わず手を抱え込んで蹲ったところを駆けつけた他の同心や岡っ引きたちが取り囲む。と同時に御用提灯も現れて、辺りはいくらか視界が効くようになった。

「水野様!? 南町の───!」

 仲間の一人が上げた声に雅耶は振り返った。

「!───」

 人垣の隙間から見える───彼を襲った人間の、悄然というよりは茫然自失しているような横顔は、確かに一度見かけたことのある南の同心・水野だった。

 まさか…、と雅耶は愕然とした。

 八丁堀同心が捕物から逃げ出すために、同じ町方を襲うとは───。

 大店である吾妻屋に出入りして、いつの間にか小遣いや付け届けを貰う以上の立場になっていたのか。この場で見つかれば進退窮するほどの関係に……。

 果たして、抜け荷に関わっていたのか。この先調べが進めば分かるかもしれないが、とりあえず雅耶は今この時は馬鹿な男だと蔑む気も起きず、言葉も交わさず、男が引き立てられていくのを見送った。

 雅耶について来て、敵とぶち当たってしまった仁助も味方を得、無事に始末をつけたようだ。

 雅耶はまだ自分が抜き身を手にしていることに気がついて、それまでの動転ぶりと荒い鼓動を自覚しながら急いで刀を収めた。

「……助かりました」

「───怪我はないようだな」

 離れて立っていた靱負に頭を下げる。

 相手の、相変わらず柔らかく響いた返答には今の危機の余韻一つ感じられず、雅耶は内心舌を巻いた。

 大名家の総領ともなれば幼い頃から一流の師匠に就いて武芸一般を修めるのだろうが、靱負があの、ほんの一瞬垣間見せた太刀さばきはとても殿様芸とは思えなかった。

 その立ち振る舞いは風雅に見えるのに、その身に秘めるものは思いがけず激しい───。

 武術に打ち込んだ時期でもあったのだろうか? そうでなければ、あの鋭さは……。

 捕物の喧噪はようやく収まりつつあった。

 とはいえ、まだ直後の殺気が残るこの冷たい夜の一角で、靱負一人、まるで違う場所にでも立っているかのような……───いつもの、手持ち無沙汰げな雰囲気をまとっていた。

 敵と対したあの瞬間がまるで嘘のように。

 しかし、お殿様の───文字通り───浮き世離れした部分はともかく、このような、一つ間違えば命を落としかねない場面での冷静さは敬服に値するものだった。

 我が身と比べ、雅耶はうなだれた。

「───申しわけありません」

「……?」

「油断しました」

 隠し戸から地下道に入る前、自分が応援を待っていたら。

「いや……。遅れていたら、逃げられていたかもしれぬ」

 靱負はぽつりと答えた。

 実際のところ、道を外した役人一人、逃がしたところで大勢に影響はないのだが……。

 龕灯や松明の決して十分とはいえない明かりと、依然降り止まない霧雨が、まるで銀の紗のように誰しもに覆いかぶさっていた。

 雅耶は辺りは見回し、ようやく自分が、路地一本隔てて吾妻屋に隣接する表長屋の裏の空き地に来ていることを視認した。

 空き地には大小の土蔵が二、三建ち並んでいる。

 これは表店の酒仲買のものか、だが店は半年前に潰れていて……。

「───ここも」

「多分」

 前もって吾妻屋の敷地周辺の見取り図を頭に入れていたのだろう、靱負の言葉に雅耶は短く頷いた。

「ではここも───」

「はい、調べます」

 雅耶は、周囲の者に指示を下そうとした目で、手前の小さな土蔵の扉が壊れているのに気がついた。

 そこは雅耶主従が飛び出してきた、吾妻屋の母屋から続く地下道の入り口だった。

 一番小さなそれはよく見れば土蔵ではなく粗末な木造の小屋で、それに比べると隣の三坪ほどの土蔵はやけにしっかりとした造りで扉には頑丈そうな鍵が取り付けられていた。

 小屋から長澤が出てきたのに気づきながら、雅耶はその隣の土蔵に大股で近づいた。

 仁助が龕灯を手渡してくると、

「あっしが」

 別の岡っ引きがいつの間にか鍬を持ってきて雅耶を見る。

 彼が頷くと、閂鎹のような部分に思い切り鍬を叩き付け、鍵を壊してくれた。

「助かった」

 一言言って、雅耶は観音開きの戸を開いた。

 外の喧騒とは裏腹に、静まりかえった土蔵の中は霧雨からは逃れられていた。

 それでも湿気った空気が満ちる内部は意外に広さが取られていて、行李や箪笥など大小様々な───がらくたのようなものが無造作に積み上げられていた。

 空振りかと思った瞬間、提灯を差し出していても暗い視界の端、奥にある古い箪笥のようなものの陰から白い足が飛び出していて、雅耶は飛び上がった。

「!」

 ……どうやってその場に膝をついたのか、どうやって腕を伸ばして彼女を腕の中に引き上げたのか───……何もかも……意識の全てが混乱した。

 確かめるのが恐くて、背後に落とした提灯がほとんど用をなさぬ暗闇の中、彼は頭の中が真っ白になるのを感じながら、相手の状態を探った。

 残酷な事実が明らかになる。

 …お葉───!…

 噛みしめた唇から悲鳴は洩れなかったのに、腕の中の人間はまるでその声に気づいたかのように微かに身じろいだ。

「お葉っ!」

 瞼が動く。

「お葉! しっかりし───」

 ろ、と言いかけたとき、うっすら開いた瞳が雅耶を認めて微かに動いた───ようだった。

「お葉───ッ!」

 ……しかし。

 ───そこまでだった。

 少女は雅耶の腕の中で精根尽きたかのように、身に纏った着物の中に体を沈めた。

「だめだッ!───」

 死んではいけない。

 雅耶は自分の羽織を脱ぐと、意識のない体を包んで抱き上げた。

「有賀様!?」

「───怪我人を見つけた。重傷だ。松坂町の貞庵先生のところまで連れて行く」

「重傷ならば、動かさずにここに医者を呼んだ方がいい」

 長澤の声だった。

「いえ、時間がありません。連れて行った方が早い」

「負担がかかるぞ」

 もはや誰の声かも分からない。

 重傷者を動かす危険と、一刻も早く治療を受けさせること。

 難しい判断だったが、

「少しでも早く医者に診せた方がいい。失礼します!」

 雅耶は無我夢中で土蔵を飛び出そうとした。

「揺らすな。できるだけ慎重に。できるだけ早く。おぶった方がいいだろう。森沢、そなたとそなた、付いていけ。有賀の体力が落ちたら変わってやれ。重傷者だ。松坂町川芎通りの町医、野口貞庵先生、分かるな? 近くまで行ったら一人は先駆けして先方に知らせろ」

「はっ」

 その時にはもう雅耶は通りに向けて早足で歩き出していた。

 どんなに駆け出したくても走れない。走ればその振動が背負った娘の体を深く傷つける。

 もうすでに息は……。

 足がもつれそうになる。不意に旧友・正義の賢そうな顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、そこまで辿り着けば……。


 静かで真っ暗な大通り。

 白銀の雨が優しく───残酷に雅耶を包み込んでいた。

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