三
登場人物
有賀雅耶…北町同心見習い
神尾正義…町医者見習い
葉…雅耶の知り合いの町娘
笙…浪人姿の武士/籐嶺靱負…北町奉行、大名
「そなたはっ───!」
月も凍る初冬の真夜中。
比較的裕福な中小の商人の店が建ち並ぶ、松坂町川芎通り。
とっくに戸締まりの済んだ表店の中で、唯一そこだけが戸の隙間からぼんやりとした明かりが漏れていた。
それは毎夜のことである。切羽詰まって訪れてくる者を迷わせぬよう……。
取り次ぎの小者に呼ばれて階下に降りてきた正義は、裏の上がり口の陰で膝まづくように屈み込んでいた町娘に驚きの声を上げた。
しかし次の瞬間、微かな行灯の明かりの下、白い面が一層血の気を失くしているのに気がついて、
「具合悪いの? どこっ……!」
素早く医者の顔になって娘に駆け寄った。
娘───葉は、やつれた顔を上げた。
「申しわけありません。足を少し、転んだ拍子に切ってしまい……」
「足を? 見せて」
「それより、失礼ですが有賀様への伝言をお頼みしたく……」
「わかったから。とにかく手当てを……」
正義は手を伸ばして、葉を上がり框へと引き上げた。
途端、顔をしかめる彼女に───それでもだいぶこらえているその様子に、正義は彼女が自分で言うよりよほど怪我がひどいのだと悟った。
「さあ、掴まって」
それから半時が過ぎた頃───。
「───まさか動くまいと思ってたから。足の傷……足首のちょっと上くらいにあった傷はかなり深かったし、もしかしたら腱を痛めていたかも。歩くのだってきっと不自由しているはずなのに、俺が部屋を出た隙にいなくなっちゃったみたいで……」
「………」
「───で、残ったのが……」
「………」
「おまえの、その手の中のものだよ」
地平線近く、空は白々と明らみ始めていた。
正義からの知らせで、雅耶が八丁堀にある自宅から取るものも取り敢えず駆けつけた時、葉はすでに姿を消していた。
二人の視線の先、雅耶の手の中にあったものとは、透明に近い、不思議な輝きを放つ金剛石の玉かんざしと、それに結び付けてあった、日時場所と屋号紋が書かれた紙切れだった。
雅耶は難しい顔をしてそれらを眺めた。
正義は、そんな親友の姿をこれもまたじっと見つめていたが、やがて無音で溜め息を吐くと、思い切ったように、
「あの娘……ご公儀の隠密なんじゃないか?」
とぽつりと呟いた。
途端、雅耶の顔が跳ね上がる。
「───そのかんざしについているその石……金剛石っていうものなんじゃないか? 禁制品の」
少年のものに近い思慮深げな声は、二人しかいない正義の私室に目に見えるくらい大きな波紋を広げた。
「……ああ、多分……」
雅耶は小さく頷いた。
「それにあの娘の足の傷、あれは多分、刃物でつけられた傷だと思う」
「………」
応えはない。
正義も口を噤んだ。
鳥すら鳴かないほんの一瞬の、明け始めの透明な狭間の時間。
雅耶の厳しい表情はどんどんと消えていき、やがて完全な無表情のまま、彼は親指の先ほどの大きさの、妖しく輝く金剛石に見入った。
それは、無垢な透明性と圧倒的な輝きの両方を宿す、『ご禁制の』という言葉すら魅力の一つに変えてしまう宝玉だった。
それがこの江戸市中にあるということは、遙か彼方の異国の産出地より不法な手段で運ばれてきた───という証左にほかならない。
実は雅耶が長澤から内密に命じられていた探索がそれだった。
抜け荷の首謀者であろう、この国の南の端に位置する大藩の影は常に朧気ながら見えてはいるものの、支配違いの町奉行所が手を出せるはずもない。今回の探索では、それよりもまず江戸での受け入れ先、及びその先の供給元である海産物問屋の取り締まりを───具体的には荷揚げの現場を捕らえることを目標に、そこに至るまでの道筋をこつこつとつけている最中だった。もちろん、最終的には江戸での抜け荷一味の壊滅を───またぞろ再構築されるにせよ───図ることが目的だった。
紙に書かれた店の屋号紋は雅耶が追っている海産物問屋の一つだった。
そして日時。
おそらくは……。
「おまえにはその意味が分かるんだな」
「………」
「なぜおまえに知らせようと思ったんだろう?」
「………」
「ああいう人たちって、一人じゃないよね? 上か横かは知らないけど、ちゃんと仲間内の連絡網とかはあるよね? なんか異常事態とかで連絡取れない状況だったのかな?」
「………」
「有賀───有賀!」
「……んだよ?……」
いかにも心配そうな正義の声がどこか遠くから聞こえていたのにようやく気がついて、雅耶はのろのろと顔を上げた。
いつまでも宝玉の輝きに見入られて、現実から逃避できていればよかったのに───……それは今は許されないことだった。
雅耶が再び笙───籐嶺靱負と会ったのは、明くる日の夕方のことだった。
どうしてももう一度お奉行様にお目通り願いたいと、出仕前の朝一番に血相を変え、屋敷まで押しかけてきた雅耶に対し、学者然とした筆頭与力はどういうわけか何も聞かずに靱負と繋ぎを取ってくれた。
返事は昼過ぎまで待たされた(───本来ならばあっただけでもましだったのだが)。
あの広大な阿部藩上屋敷でなく市中でという先方の要望に、雅耶はすぐに、町屋の多いわりに静かな一角にある民家を指定した。
以前にも御用で借りたことのある、かつて大店の隠居の住まいだった家だ。
現在は空き家で、たまに店の者が掃除にやって来る程度らしい。
元々この辺りは武家地なのだが、裕福な町人の別宅などに貸し出されている家も多く、閑静な雰囲気はそのせいもあった。
陰りの差し始めた午後、天井の低い二階の部屋で先に待っていた雅耶は、実際に大小の刀を差した羽織袴姿の靱負が編み笠片手に階段を上がってきたのを見た時、何ともいえぬ感慨と身の内に走る震えを感じた。
供一人連れず、雅耶が小さな窓から外の通りを見張る中、彼はたった一人でこの家までやってきたのだ。
その現実離れした現実に、やはり、『西国の大大名のお殿様』というのは偽り、騙りであり、何らかの事情があってそう名乗っているのではないかと……。
そもそも靱負自身は何も語っていない。
彼にそれを告げたのは北町奉行所の重鎮、長澤だ。
だから少なくとも靱負は本当に北町奉行で間違いないのだろう……。───そこを信頼せずには、雅耶は話を先に進めることはできなかった。
将軍様のお膝元、江戸の町の治安を預かる雅耶たちのお役目は、いつも一刻を争うのだから。
「───それで?」
雅耶の話を聞き終えると、靱負は今までの三度の邂逅のどれとも違う───冷ややかな眼差しで、部屋の下座にかしこまる雅耶を見やった。
場所を入れ替え、今は靱負が少し窮屈そうに長身を屈めて格子窓の傍に立っていた。
「……っ……」
雅耶はどうしてもたじろいでしまう自分を心の中で叱咤した。
「───現場を押さえれば積み荷の出荷元まで判明するやもしれません。その場合、町方の手に負えず、みすみす取り逃すことになります。ですから───」
そこで雅耶は強く睨むように相手を見上げた。
「───お奉行様の、お指図を」
雅耶が、後で報告するにせよ長澤でなく靱負に先に話したのは、どのみちこの案件は奉行職より上の大目付、下手したら老中まで上げる必要のある話だと思ったからだ。
もちろんそうしない判断もある。
町奉行の所管する町地で起きた事件であっても、旗本や他家家臣に対する扱いはいつも複雑で慎重を要し、都度町方は覚悟を試され、危険にさらされる。雅耶はそれに長澤を巻き込むつもりはなかった。
これは奉行の判断だ。
それで雅耶の知りたかったことも知れる。
この浮世離れした麗人は、果たして本当に、要職とされる町奉行職を覚悟を持って務める気があるのか、それとも、何かの間違いで、たまたま今その任にあるだけの大名家のお殿様なのか───。
「……指図もなにも……」
しばらく沈黙の後、靱負は口を開いた。
雅耶は固唾を飲んで、後に続く言葉を待った。
「───江戸から遠く離れた南国のどこかの家中が堂々と密貿易をやっているんだろう。……公儀の締めつけが厳しく、どこも財政難だからな」
言いながら、物憂げに窓の外に目を転じた靱負の口調の冷ややかさは、しかし、雅耶に向かってだけではなく、俗世一般をも虚無的に眺めているようで、雅耶は今までに何度も感じた───最初の印象との違和感と同時に、彼が大名家としての立場からそう言っているのではないことだけは感じ取った。
…この御仁は、あまりに複雑すぎる…
「では……?」
「ほっとけ」
「!」
相手は雅耶を見なかった。
「ご定法に背いてまでも儲けたいのであれば、それなりの理由があるのだろう」
「理由?」
雅耶の心の中に、何か振動のようなものが伝わった。
「たとえば私腹を肥やしたい、贅沢をしたいとか?」
「………」
「この世の中で一番偉い、大名家のお殿様にはそれが理由として通るんですか?」
怒りは、今度ばかりは彼を熱さずに冷やしたようだ───珍しいことに。
心の中で起きた嵐とは裏腹に、自分でも驚くほど冷ややかな口調は靱負をも振り向かせたが、雅耶は構わずに続けた。
「町人や農民はそうはいきません。下の者はご定法に従っているのに、それで辛い目に遭う時もあるっていうのに、上の者はそんな勝手なことをしていいんですか? 下の者が守っているものすら上の者は守れない、そんな───馬鹿な方々なんですか?」
もっともっと───心のままに強い言葉で罵りたかった。咄嗟に言葉が浮かばない、自分の頭の鈍さを雅耶は呪った。
「……そうは言ってない。───理由というのは……」
雅耶の言葉に応える気になったのかどうか、相変わらず無表情のまま靱負は再び口を開いた。
「俺は武家だが───……家中のごく一部の人間の私腹を肥やすためだけに、ここまで大がかりなことをするとは考えにくい。密貿易は大罪だ。公になれば改易もあり得る。よほど財政上追い詰められているのか……。どちらにせよ、どんな身分であろうとなにがしかの制約や障害はつきまとう。本当に好き勝手振る舞える身分などこの世には存在しない───……と俺は思うが」
どこまでも冷静に響く落ち着いた声。その口調が熱くなることはなかったが、最後はさらに静かに終わった。
もしかしたら幾分かの本音は混ざっていたのかもしれない。
見極めることなど出来ないと悟っていても、雅耶はなおも相手を凝視した。
早い冬の弱々しい───それでも十分に強烈な夕陽が格子越しに靱負の横顔を彩り、余計にその表情を捉えにくくさせていた。
「そう思われるのなら……───いや、やっぱりお分かりになっておられない。貴方様のご身分に制約があるというのなら、それは武士階級が支配者であるからこその制約なんじゃないんですか? 秩序こそ、お武家様たちが他の身分の者より偉いとされている拠りどころなんじゃないんですか? それを自分たちで無視するというんなら……!」
他の身分の者も法を守らなくなり、この世は荒れる。
秩序が乱れると、女子どもや年寄りといった弱い者は平和な生活が営めなくなり───もちろん、今だって決して安穏な世界ではないが───今以上に食べるものにも困る地獄が口を開けて待っている。
誰もが皆、刀を振り回して自分の身を守れる者ばかりではないのだ。
───上下のある身分制度は基本的には理不尽だ。だが、それでもないよりはまだましの秩序を生み出しているからこそ、皆それぞれの分を守って必死に理不尽に耐え、生き抜いている。
今、この瞬間も……。
不意に雅耶は、靱負が真面目に自分を───あの、初めて辻斬りの件を教えた境内の時のように見つめているのに気がついた。
靱負の端正な面差しは、冷たさと生真面目さがまるで同居しているかのように───一瞬でどちらからどちらかへと移り変わる。
その動かぬ表情から、それらを正確に区別できる者などいるのだろうか……?
「……ご定法を守らず、秩序などないと標榜するのなら……」
雅耶は靱負の視線を意識しながら───緊張しながら───続けた。
「身分も関係ない。自分より偉い人なんか存在しない。みんな平等なはずです。……生きることに関しては」
言いたいことははっきりしているのに、うまく言葉にできない雅耶は一瞬傷ついたような顔をした。
靱負は、彼が泣き出すのではないかと驚いて身構えたが───どうやらそれは見間違いだったようだ。
童のようにあどけない顔立ちの町方同心は、どこまでもまっすぐに、きつい眼差しで靱負を見据えていた。
不撓不屈───きっとそれが彼の性分なのだろう。
あるいは、まだ本当の挫折を知らない、若さという純粋さに拠るものなのかもしれないが……。
「秩序を守ることこそが武家としての身分の拠りどころなのか……そんな風に考えたことは一度もなかったな」
呟く口調は雅耶に聞かせるものではなかった。
今度は雅耶がハッとして、靱負を見守った。
「身分は平等でなくても、生きる悩みはみな等しく持っている───中身はそれぞれだろうが。そんなところだけは平等だな───そう思わないか?」
「お奉行様……」
「秩序も、事細かな身分も制約も、堅苦しいしきたりも全て、俺にとっては煩わしい───そのくせ生まれた時から傍にあるもので、己の身分を定義するものなどとは考えてみたこともなかった」
「………」
「結局、なにもかもが理不尽で……」
「……───だからといって、逃げ出すわけにはまいりません」
雅耶は詰めていた息を吐き出すようにきっぱりと言った。
「生きている以上悩みはつきものだとして、一旦諦めたり、一時期腐ったりはありでしょうが、だからといって、一々逃げ出したりしていたら、それこそこの町から人はいなくなってしまいます。───違いますか?」
「───」
かもしれないな、と靱負の唇が動いた気もしたが、雅耶には届かなかった。
しかし、彼を見る靱負の眼差しはずっと和らいでいて、雅耶はこの時初めて、彼らが最初言葉を交わしたあの境内の時ですら相手の瞳がこうも穏やかでなかったことに気がついた。
常に泰然とした空気をまとわりつかせながら、この人自身の内面はいつもピンと張り詰めていたのかもしれない。
「───確かに……」
雅耶の想いを知らず、靱負は呟いた。
「逃げ出しても行き場はないな……。生きる苦しみから逃げるだけならそもそも身分など必要ない───……武士の誇りなど腹の足しにもならない」
「………」
どのような禅問答か。
いくら相手の顔をじっと見つめても、雅耶にはその意図するところは読めなかった。
ただ漠然と、この、容姿や身分が完璧すぎる御仁にもかつて───あるいは今か───逃げ出したいほどの何かがあったのかもしれない…、とふと感じた。
それがどのような類のものか、何に由来するのか、雅耶には想像もつかなかったが……。
靱負はそれきり───雅耶にはその整った横顔だけを見せて───口を噤んだ。
いつの間にか、内の座敷には闇色が一捌け混ざり、外は暮れ始めた。
言を尽くした雅耶はただじっと待っていた。
───やがて。
靱負はゆっくりと───このとき初めて、己のこの先の行動を告げるために───雅耶を振り向いた。
「………」
「………」
視線が、まっすぐぶつかり合う。
靱負は、
「明日、登城する」
───とだけ言った。
あまりにも大きすぎる我が身の流転に心を閉ざして数年───。
靱負は、まさか今さら自分が他人の言葉に心を動かされるとは思ってもみなかった。
身分も年も下。それなのに、その心や考え方は何にも囚われず自由で、真の意味で誰にもへりくだることなく生きている───北町奉行所の若き同心、有賀雅耶のような人間に出会ったのは生まれて初めてのことだった。
「……秩序などないなら……」「身分も関係ない。自分より偉い人なんか存在しない。みんな平等なはずです。……生きることに関しては」
その通りだ。
だからこそ『偉い人』は秩序を守らなくてはならない。
法を守らせる立場にある者は、怠けることなくその職務に勤しまなければならない。
秩序を破る『偉い人』を公正に取り締まらなくてはならない。たとえ大名家であろうと、───将軍家であろうと。
三(その二)
靱負はこの春以来初めて、武家の総領・厳泉家の居城である江戸城に上がった。
町奉行の仕事は奉行所にあるだけではない。ひと月ごとの交代制とはいえ、月番のときは毎朝登城して公務を行う決まりになっていたが、靱負は奉行を拝任して以来、一度も出仕していなかった。
実際のところ、誰に何を言われようと、自身に何が起ころうと、二度と登城すまいと決めていたのだが……。
公方様との謁見───目通りは拍子抜けするくらいすんなりと許された。
それも通されたのは公務を行う表の間ではなく、中奥と呼ばれる、通常将軍家が執務をし、寝食する部分の一部屋だった。
廊下を挟んで、小造りだが贅を凝らした庭が見える───。
昼間とはいえ、十一月の空気はしんとして冷たく、その分雑気なく澄んでいるようだった。
───やがて。
小姓を供に、当代の将軍、厳泉時継が姿を現した。
前もって上座に向かって平伏している靱負の頭上に、
「久しぶりだな───!」
席についた時継から、少し高めの落ち着いた声が投げかけられた。
靱負はそれを合図にゆっくりと顔を起こしたが、両手を膝の前に揃えたまま完全には上体を上げなかった。それでも相手の、こちらを見下ろす視線は目に入る。
時継は羽織袴という日常的な身なりで、靱負の方も肩衣袴の略礼装───。一瞬にして、互いが互いの姿を読み取るのがわかった。
実際に相まみえるのはこの春以来だが、半年の間にそう外見が変わるわけもなく、そして、表面を見ただけで内側を計り知ることができないのはその時も今も同様だった。
中肉中背、小顔で全体的に線が細く、知的な容貌の持ち主である時継は、いつも端然とした───もしかしたら、ただの癖なのかもしれない───微かな笑みを口元に湛えていた。
だが、それは不思議と女性的でも男性的でもなく……───今もまた、彼はそのとおりの表情で靱負を見つめていた。
その理知的な顔立ちと意味不明の微笑に惑わされて、そこから彼の感情を読むことは難しい。───どんなに年や経験を重ねた人間であっても。
それは昔からそうだ。
いつの頃からか靱負はただ漠然と、何を推し量ることもなく、その色の薄い瞳を眺めるようになっていた。
時継が将軍家となったのが五年前。
去年、靱負は養子縁組先の籐嶺家を継いだ。
従兄弟同士の乳兄弟として育ち、十五で別れた同じ年の二人が、立場を異にして対面するのは無論、これが初めてではない。だが今日は靱負が初めて北町奉行の立場で目通りを願っていた。
そのためか、最初の言葉以降、時継は靱負から話し出すのを待つようにして口を噤んでいた。
才気そのもののように、靱負よりよほど口のたつ彼にしては珍しいことといえるのかもしれないが、靱負はそれすらも気づいていなかった。
彼は今、時継の前で平静さを保つので精一杯で……。
彼の時継への感情は異例の───どころか前代未聞の降格ともいえる町奉行職への任命命が下った瞬間から凍りついていた。
十年前、たとえ二度と会えなくても、その人を信じられなくなるなんて有り得るはずもなかった人を、靱負は今、信じられなくなっていた。
「用が……」
やがて、自分を見つめたまま、いつまでたっても口を開こうとしない靱負に───子どもの頃から知っているだけあってさすがに彼の美貌に気を取られる様子もなく───時継が焦れたような声を出した。
「───あったから来たのだろう?」
微かに上擦ったが、落ち着いた口調だった。
それにハッと身を震わせた靱負は、覚悟を決めたように、その余計な肉のない頬を引き締めて、顔を上げた。
「───はい。……公方様におかれましては───お変わりなきことなによりでございます」
「………」
「さっそくのお目通り、お許し頂きまして恐悦至極に存じます……」
いくぶん淀みはしたが、止まりはしなかった。
時継は何も言わずに靱負を見ている。
彼はそれまでが期待で緩んでいたかのように、元から冷静な表情をさらに冷たく引き締めた。
口元が微かに引き結ばれ、微笑のようなものが酷薄なものへと変わっていく。
靱負は気づかなかった。いや、気づいても慇懃な言葉遣いを改めることはしなかった。
「おそらくすでに手の者よりお聞き及びだと存じますが、南国のある家中における密貿易が再び盛んになってきています」
「!───」
二人の視線が重なった。
それは二人の立場が、気心の知れた乳兄弟から将軍家と町奉行という公人へと切り替わった瞬間だった。
「管轄外であることは承知の上。しかしご公儀が禁じた品物を御府内で売り捌くことを町奉行として見過ごすことはできません」
「………」
時継の表情が改まり───そして収まった。それは靱負の言い分を認めたようでもあり、と同時にその先を促すようでもあった。
「たとえ大名家であろうと、幕閣と繋がりのある商人であろうと、天下のご定法はお守りいただきます───この江戸市中においては」
「それで……?」
「はい。前もって公方様にはお許しをいただきたいことが───」