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銀の帳(とばり)  作者: 麦倉樟美
3/5

登場人物

有賀あるが雅耶まさや…北町同心

 「こんなに言い聞かせてもか」

 渋い、苦り切った声が、二人きりの部屋に響いた。

 ここは奉行所の左の棟の、一番奥に位置する詰め所。

 雅耶は珍しく真面目な面持ちを崩さず───正座した膝の上に置いた拳に頭をつけた。

 彼を一対一で呼び出した年番方の筆頭与力・長澤は、雅耶の上役といっても先輩同心どころではなく、実質、現在の北町奉行所で一番偉い人物だった。

 古参与力の横行する北町が辛うじてその機能を保っていられるのは偏に彼の采配に依るものだ。

 そんな相手の説得に対して、しかし雅耶は一歩も引く様子は見せなかった。

「そなたにはべつの事件を追わせている。それでもか」

「……申し訳ございません」

 何度、口にした言葉か。

「そなたが目撃した辻斬りの下手人らしき男───」

「下手人、とは申しておりません」

「……その疑わしき男、名も所在も分からぬというではないか。この広い市中、そなた、どうやって探し出すつもりなのだ」

「草の根をわけてでも」

「雲をつかむような話しだぞ」

「はい」

「諦めぬと申すか」

「……申し訳ございません」

 ───この繰り返しだった。

 学者然とした、四十絡みの長澤は、呆れ果てたように大きな溜め息をつくと、この強情な同心見習いの若者を何とも言えぬ複雑な表情で見下ろした。

 その間、雅耶は神妙に下げた頭を動かそうとはしなかった。

「───確かに辻斬りの一件は重大だ。一刻も早く下手人を挙げなければならない。だが南町もそうだが、この北町も総力を挙げて探索に当たっている。そなた一人が他の事件を放り出してかかりきりにならずとも早晩下手人は必ず挙がる」

「しっ、しかし!」

 雅耶は思わず顔を上げた。

「なんだ?」

「……いえ……」

 雅耶は、あの浪人の顔を見たのは自分一人だと言おうとしてやめた。

 記憶に自信がないからではない。きっと何年経とうと、忘れようとしてさえ忘れられない、陽の光の下でも寸分の狂いのない美貌と、それ以上に不思議な、独特の浮き世離れした雰囲気───表情───は、今この瞬間でさえくっきりと眼裏に描くことができる。

 さらに重なるのは、闇の中、赤く燃える炎に照らし出された───…。

「有賀?」

「はっ───あ、いえ……」

 しかし雅耶は同時に、現在の北町奉行所を束ねる、唯一まともな、公正かつ有能な指揮官である長澤の意に反することはしたくなかった。

 だからこそ彼は辻斬りに関連する浪人探しと同時に、三月(みつき)前、直接長澤から命じられ、それ以来内々に黙々と進めていた別の探索も並行して続けるつもりでいた。───それがどんなに大変なことだとしても。

 無謀な試みなのかもしれない。だが、彼は自分が不思議な情熱につき動かされているのを感じていた。

 その源は、あの浪人と二度も出会ってしまったという因縁からか、それとも……。

 彼は周囲にどんなに───たとえ長澤からであろうと───反対されても、あの浪人の行方を突き止める気でいた。

「………」

 頑固に押し黙ってしまった雅耶を眺めながら、長澤は小さく溜め息をついた。───これも何度目か。

 それは普段、物静かな───対立する与力たちからは昼行灯と陰口を叩かれるくらいに───穏やかな彼にしては珍しく大仰な態度だったが、雅耶はもはや余計な言い訳はせず、ただ殊勝に畳に目を落としていた。

 同時に小さな疑問も感じていた。

 いくら己が命じた別の探索の最中とはいえ、市中をあそこまで騒がせている辻斬りに関連する不審者の捜索を止めさせようなど、考えてみれば───考えなくとも───違和感を覚えざるを得ない。

 とはいえ、長澤は雅耶が奉行所内で唯一尊敬している年長者だ。その信頼が揺らぐことはなかったが───。

「……仕方あるまい」

 上司はやがて、溜め息を吐き出すように口を開いた。

「では」

 雅耶は許可が出されたものと合点したが、

「───ついて参れ。外出する」

 意外にも上司は立ち上がり、驚いた顔をした雅耶に言い放った。






 北町奉行所年番方与力・長澤が配下の雅耶を伴って訪れたのは、大名屋敷が立ち並ぶ、閑静な武家領だった。

 どこへ行くのだろうと当然の疑問を抱きながらも大人しく付き従う雅耶の前で長澤が足を止めたのは、とある武家屋敷───それも大大名らしい格式───の上屋敷の長屋門の前だった。

 脇の番所でしばらく待たされたが、潜門を通り過ぎると待っていた若党に広大な敷地内に延々と設置された塀の向こう側を抜けるまで、また、どの部分とも分からぬ建物に入ってからは、白髪で痩身だがかくしゃくとした用人によって先導され、一度も足を止めることなく歩み続けた。

 明らかに正式な手順を踏んでの公式な道筋ではないようだが、長澤も用人も落ち着き払って、挨拶も無言の仕草で済ませ、言葉を交わす必要もないようだった。

 磨き上げられた長い廊下と幾重もの襖で仕切られた座敷を通り抜け、長澤と雅耶の主従は、やがて端整な障壁画に囲まれた書院造りの主室のような無人の部屋に通された。

 その時点において雅耶の疑問は膨れ上がり、はち切れんばかりに大きくなっていたが、上司に尋ねることは憚れる───というよりも、初めて足を踏み入れる大名屋敷の壮大さに気押されて、彼は無意識に固く口元を引き締めていた。

 そこで、番所以来初めて座して待たされていると、柔らかい足音と衣擦れの音がしたと思う間もなく、一段高い上座側の、趣味のいい文様が描かれた、高価そうな襖が開いた。

 平伏しようと体を傾けながら、しかし雅耶は好奇心に負け、上司の後ろからちらりと前を見やった。

 すると、

「!───あんたはっ……!」

 驚きのあまり、思わず掠れた声が雅耶の口から飛び出した。

 彼の目の前に現れた人物は、彼が今の今まで足を棒にして探していた───そして、必ずやその正体を突き止めてやると決心していた、あの美貌の浪人だった。

 いやもちろん、浪人などではない。

 一見地味としかいいようがない鈍い深緑色の着物は、しかし、よく見れば雅耶にさえ分かる、身分の高い人間しか身につけられない高価なものだった(しかも、着流したその姿はスラリとした長身に怖ろしいほど似合っていた)。

 目の前の浪人は───いや武士は、この屋敷の中でもかなりの地位にある……。

「久しぶりだな」

 男は部屋の中、平伏する主従二人の目の前を通り過ぎながら確かに雅耶に向かって声を掛けた。

「!───」

 声音も記憶にあるものと寸分狂いがない。

 雅耶は息を弾ませ、思わず斜め前の上司を見たが、長澤はそんな気配など感じていないかのように黙って、男の着いた上座に向かって深々と頭を下げていた。

 雅耶はその時、生まれて初めて『絶句する』という体験を味わった。

「長澤、手間をかけさせたな」

 呆然としている雅耶に構わず、落ち着いた声が今度は長澤の方に投げ掛けられると、与力は顔を上げ、二人は視線を合わせた───ようだった。

「向こうで待っててくれるか」

「承知いたしました」

 雅耶が無意識に目で追う中、三人の中で一番の年長者である与力は自然な仕草で己の子より幾分年かさくらいの若者二人に視線を向けると、立ち上がり、そのまま音もなく下手から部屋を出て行った。

 途端、押し寄せる沈黙を待つ余裕もなく、

「あ、あんたっ、何者だ!?」

 雅耶は叫んだ───が、次の瞬間、

「───申し訳ありません」

 と反射的に謝罪したのは、彼自身、生まれながらの武士階級の人間だったからだろう。

 だが、一端口から出た言葉は戻せない。

 咎められたらその時と、雅耶はほとんど睨みつけんばかりの真っ直ぐな視線を上座の男に向けた。

 相変わらず冴え冴えとした美貌と真っ向から斬り合わなければならないとしても───……今の彼には、もはや怖じ気づく余裕すらなかった。

 しかし。

「私か? 私はこの屋敷の人間だ」

 至極真面目な口調で答えが返ってきて、

「……でしょうね」

 雅耶は一瞬、初めてこの男に出会った時に感じた、目眩のようなものを思い出しかけたが、今はそんなものに圧倒されている場合ではないと慌てて自戒した。

「わっ、わたくしがお尋ねしているのは───」

「名は……───そうだな、(しょう)でいい」

 不思議なことに、相手の言葉遣いは以前雅耶と話した時と変わっていなかった。

 長澤と交わしたわずかな言葉の方がよほど格式張っていたかもしれない。

「……笙……」

 雅耶がおうむ返しに口の中で呟くと、男はああと頷いた。

 しかし、

(まこと)の名ではございませんね?」

 雅耶が畳みかけると、男───笙は、反射的に何某かの色を浮かべ、雅耶を見やったが───それは一瞬のことだった。

「いや、本物だ」

 短く断じたその無表情の裏側には何があるのか、雅耶には想像もつかなかった。

「───あのとき、俺は人が倒れているところに駆け寄っただけで、俺が斬ったのではない」

 笙はいきなり本題に入り、雅耶を身構えさせた。

「信じるか?」

「………」

「信じられないか……。かなり怪しげな行動を取ってしまったが……───絶対、俺ではない」

「貴方様の犯行とは端から思っていません」

「そうか」

 意外にも笙は本気で喜んだようだった。

 そこでつい雅耶は、

「もし仮に、貴方様の犯行だとわたくしが思い込んだとしても、れっきとしたお武家様の貴方様に町方風情など手は出せません。よほど───御番所の───お奉行様の特別なご判断でもない限り」

 と今まで振り回されてきた怒りから、嫌みを込めて言った。

 すると途端、笙がなんとも困ったような…、というか、悲しげな表情を(その美貌に似合わず)したので、驚いた雅耶は慌ててつけ加えてしまった。

「だっ、だから、申し上げましたとおり、わたくしは貴方様の犯行とは思っていません。あの時───わたくしが駆けつけたあの時───貴方様には殺気が感じられなかった。その、人を殺した直後の興奮や緊張のようなものが……」

「意外に───」

 鋭いんだな、と言いかけたのだろう、笙は途中で口を噤んだ。

「なんでございましょう?」

 まざまざと理解した雅耶はわざとらしく相手を睨んだ。

「いや……。だが───」

 軽く首を振った笙の口調にそれほどの変化はなかったが、そうとは知れず徐々に解れかけてきていたはずの空気は次の言葉で凍りついた。

「そなたには気の毒だと思うが、下手人はやはりそなたたちが手を出せる相手ではない」

「! それって!」

 素早く察した雅耶を制し、

「ああ、侍だった」

 笙はあっさり頷いた。

「それもかなり身分の高い───……」

「見たのかっ?───目撃したんですねっ?」

 雅耶は膝を立て笙ににじり寄った。だが相手は頷かない。

「見たんだなっ、そうなんだろっ!」

 間近に覗き込んだ笙の切れ長の目は相変わらず恐ろしいほどに整い、ともすれば吸い込まれそうだったが、雅耶は相手を問い詰める勢いを殺すことはできなかった。

 とはいえ───その黒曜石の瞳が確かな意志を持って雅耶を見つめ返すと、彼の息は止まった。

「忘れた方がいい───この件は」

「! なっ……に言ってんだよ!!」

 恐ろしいほど冷静な声音に、雅耶の怒りはぶつりと沸点を越えた。

「言っただろう、町方の手に負える相手ではない。これ以上の探索は無意味だ」

「なにが無意味だっ!」

 憤怒とも呆れともつかぬ激情に雅耶の声は逆に掠れた。

「───相手が侍だろうと、お奉行様を通して老中なり若年寄りなりに処罰してもらう御法はあるはず。いくら侍だって、殺されたのが町人だからって、不問に処されていいはずはない!」

「もう二度と起きないかもしれん。あれ以来───起きていないと聞いている」

「ならいいのか!」

 雅耶は我慢できずに叫んだ。

 さすがにその声を聞いて、どこかにいるだろうこの屋敷の他の者が現れるかもしれないと思われたが───……何事も起こらなかった。

「───あんたは……捕まんない方がいいのか」

「そうは言ってない」

「同じだろう。これ以上被害が出なきゃいいのか? 町人が八人も殺されてるんだぞ。それなのに下手人はおかまいなし? 殺されたのが町人だから? 殺したのが侍だから? 人を殺しても罪にならないっていうんですかっ!」

「そうは言ってない」

 笙は同じ言葉を幾分声を張って繰り返した。

 雅耶は愕然と相手を見つめ返した。

 最初に会った時、この目の前の若い侍は身分を越えて町娘を助けたのではなかったか? それは絡んでいた相手が町人だったから? 相手が侍だったら、話は違ったのだろうか……。

「じゃあ───どう言ってるんだ?」

 意識はしていなかったが、怒りの孕む、地を這うような低い声音だった。

 顔立ちに幼さすら残す若い町方同心とはいえ、今の彼には下手な小悪党くらいなら震え上がらせるほどの迫力があった。

 だが、相手は……。

「罪にならぬと言ってるわけではない」

「では───では、どのような者だったかお上に申し上げてください。直参ですか? 陪臣ですか? 貴方様はどこかの大名家のご重臣ですよね? 直接公儀に関わるのが差し支えがあるのなら、この家のお殿様を通して───……どうか!」

「それはできない」

「!」

 やけにきっぱりした口調に雅耶は弾かれたように目を見張った。

 笙は───彼はすでにその頃にはもうその端正な面を一筋の感情で歪めることなく完璧な美貌のまま雅耶を落ち着いて見返していた。

 まるで今まで無造作に現れていた感情こそが真実ではない、まやかしだったとでもいうように……。

「───」

「───」

 互いに一歩も引かぬ───引けぬ───睨み合いが続いた。

 やがて不意に、それらを断ち切るように雅耶が素早く両膝をついて立ち上がった。

 笙がその動きを視線で追う。

 雅耶は何も言わずに横の襖まで歩み寄ると、引手に手を掛け、大きな動作で開けながら、何か捨て台詞を吐こうと室内を振り返ったが、

「───ごめん!」

 結局、身に叩き込まれた武士の作法からほかに言うことは見つからず、何かを叩きつけたい衝動に駆られながらも最大限抑えて襖を閉めると座敷を出て行った。


 笙の表情はそれでも───優美な眉を毛筋ほども動かさず───変わらなかった。




二(その一)

 「───これ待てっ! 有賀っ、有賀っ!」


 廊下を全速力のすり足で駆け抜けた雅耶は、屋敷の外に飛び出ると、今度は広大な敷地の中を全速力で半刻前の道筋を逆走した。

 大名屋敷は要所以外、案外人気は薄い。とはいえ、長屋門に近づくとさすがに遠巻きに奉公人たちから注目された。

 門番所からは先刻取り次いだ警護の者が出てきたが、勢いを殺さぬまま潜門に突進する雅耶を見て、慌てて閂を開けてくれた。

 長い塀が続く、玉砂利を敷き詰めた道に飛び出て雅耶はようやく足を止めた───というよりも、長澤に腕を引かれて無理矢理止められた。

「あいつっ、何者ですかっ!?」

 途端、雅耶は上司に食ってかかった。

「こっ、これっ。あいつとは───!」

「笙と名乗った、あの浪人野郎ですよ!」

「いい加減にせぬかっ!」

「!!」

 予期せぬ長澤の一喝で雅耶はようやく口を閉じた。

 小柄で穏やかで、とてもそうは見えぬがさすがに年の功、長澤の声には厳しい筆頭与力の迫力があった。

「あのお方は……」

 そこで長澤はちらりと周囲を見やり、人影がないのを確かめてから、再び歩き出しつつ声を低めた。

 雅耶も顔を寄せてくる。

「───あのお方こそお奉行様なのだ。北町奉行、籐嶺(とうりょう)靱負(ゆきえ)様であらせられるぞ」

「はぁっ……!?」

 雅耶は口をぽかんと開けた。

「そ……んな……! だって、まさか……ありえない!」

「ありえるのだ」

 長澤は渋い顔、複雑そうな声色だった。

「しかし───今のあの屋敷は、どう見ても大大名の……」

 雅耶は、延々と続く塀と背の高い冬枯れの木々に囲まれてもう見えなくなっている、今出てきた屋敷の方向を振り返った。

「そうだ……」

 長澤はふっと声の調子を落とした。

「───詳しくは知らん。しかしあの方は確かにお奉行様なのだ。同時に西国の阿部五十万石の領主様でもある」

「! え? しかし、町奉行は普通……」

 雅耶は思わず言葉を失った。

 この国の中心、江戸の治安を預かる町奉行は通常、厳泉(げんせん)家直属の、旗本と呼ばれる武士が選任される。

 寺社奉行だけは格式が上の大名が任命されるが、それも譜代大名と呼ばれる、厳泉家の古くからの家臣である大名から選ばれるのが慣例となっていた。

 西国の五十万石の大大名ともなれば、元を辿ると、かつては天下の覇権を現在の棟梁、厳泉家と争った歴史を持つ戦国大名である可能性が高い。

 時は流れ、往事の諸国の覇者───外様大名を含めた現在の諸大名は、すでに厳泉家に忠誠を誓って久しい。

 とはいえ、将軍お膝元の江戸施政の要、町奉行職になぜ外様大名が……。

 格式もそうだが、そもそもの筋がだいぶ外れている。

 雅耶のような下級武士や町人、農民には関知せぬこととはいえ、上の方の世界では、いったい何が起きているのか……。


 「あのお方───お奉行───籐嶺様は、五年前、将軍家をお継ぎになられた今の公方様と血が繋がっておられるとの噂もあるが……───定かではない。しかし、そうであったとしても───いや、だとしたら余計ますます異例中の異例ではあるのだが……」

 自身混乱交じりの長澤の言葉を、雅耶はもうこれ以上驚きようもないといった表情で聞いていたが、───同時に、なるほど、あの整いすぎた美貌はやはり自分たち庶民とはかけ離れた出自の方であったからだからなのかと、心のどこかで妙に納得もしていた。

「しかし、そのようなことは……」

 前代未聞だと言いかけて、それよりも、

「───お奉行様が着任されたのはこの春のことでしょう。今までどうしてたんです?」

 こちらの疑問の方を先に聞くことにした。

 今は晩秋───。

 そもそも今日に至る北町奉行所の混乱と腐敗は、春に着任した新しいお奉行様が一度も与力らの前に姿を見せない───実際のところ、奉行所に出仕していない───ことから始まっているのだ。

 監督する最高責任者の不在が、一部の人間による権力の私物化を生み……。

 奉行の不在については、それまでも様々な噂や憶測が飛び交っていた(当然、耳目を避けて秘かにではあるが)。

しかしまさか、与力同心の誰一人として、新任のお奉行様がそんな高貴すぎる身分のお方とは思いもしなかったはずだ。

「なぜ一度もお出ましにならないんです?」

「それは……」

 お城に程近い、大名屋敷が建ち並ぶこの辺りは、日中でも人気が薄かった。

 日の当たらない建物や木々の陰などは、冬用に仕立て直した着物をきちんと着込んでいても寒さが感じられる。

「───儂にも分からん」

「長澤様!」

「そこまでは知らんのだ。なぜあのお方がお奉行になられたのかもそうだが……。あのお方には謎が多すぎる。しかし……」

 長澤は不意に語気を強めた。

「───わかったな? あのお方が辻斬りの一件とは無関係なことは」

「………」

「そなたは元の役目に戻るのだ。よいな?」

「……は……」

 何もかも釈然としない───。

 雅耶は内心、憤りと疑問が大きく脹れ上がっていくのを感じながらも、この場ではただ頷くことしかできなかった。

 ただ忙しなく歩みを進める己の足先を見つめる雅耶を───正義感と才気に溢れ、ついでに血気盛んな若い同心見習いを───長澤は複雑な表情で見やった。

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