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銀の帳(とばり)  作者: 麦倉樟美
2/5

登場人物

有賀あるが雅耶まさや…北町同心

 月が変わり、北町奉行所の大門が開けられた。

 途端に町の人々の訴えやそれにまつわる事務、事件の処理などがどっと押し寄せ、同心の雅耶は雑多な用務に追い立てられた。

 それはもう日常と化し……。

「───有賀っ、有賀っ!」

 ちょうど真昼の鐘が鳴り終わった時。

「はっ、はい!」

 当番所を抜け出、玄関に降りようとしたところを雅耶は父親ほどの年の同心に呼び止められた。

「香川様……なんでしょうか?」

 彼は仕方なく───ではなく、神妙な面持ちでえらく年上の先輩同心を振り返った。

「なんでしょうか、じゃない」

 一見賢そうな面差しの、老年に差しかかった同心は、雅耶が目を上げるなりくどくどと小言を言い出した。

「そなた、しょっちゅう御番所を空けて出歩いているそうだな。病気療養中の父親は定廻り同心とはいえ、そなたはまだ見習い。どういうことかと与力の方々も申しておられたぞ」

「それは───」

 雅耶は困ったように頭を掻いた。

「そんなつもりではございませんでしたが……」

「ではどういうつもりと申すのだ」

「いえ、それは……。わたくしが今すぐ父の後を継ぐことなど無論無理なのは分かっておりますが、せめて父の受け持ちであった町内だけでも今のうちに少しでも歩いて、少しでも事情に通じておきたいと存じまして……しかし、そのために御番所内での仕事をおろそかにしたつもりは毛頭ございませんでしたが……いたらぬ身ゆえ、香川様を始め、与力の方々から御覧になれば、まだまだ未熟な点ばかりお目につき……深く反省しております」

 雅耶はできるだけうだうだと喋りながら顔を俯け、廊下の板の目を数えた。途中、途切れがちになったのは言葉に詰まったからではなく、適当な文句を思い出し繋ぎながら喋っていたせいだ。

「う、うむ」

 老同心は、一方的に雅耶にまくし立てられ、反省され、自分の言いたいことをなくしてしまったようだ。それに自分が雅耶に与力と同列に扱われたことにも気を良くし、

「まっ、言いたいことは山ほどあるが、そなたのような弱輩者、いっぺんに言ってもなかなか分かるものでもあるまい。以後、気をつけるように」

「はっ、それはもう───」

 なおも雅耶が深く頭を垂れるのに満足気に頷いて、同心は彼が頭を上げるより先に奥へ戻っていった。何か八つ当たりしたいことでもあったのか。

 雅耶は、遠ざかる足音が完全に消え、さらに周囲に人がいないのを確かめてから(見つかればまた余計な叱言を増やすだけなので)、

「べぇーっ」

 と盛大に舌を出したが、次の瞬間、無駄な労力を使ってしまったと、大人げない自分に脱力した。

 こんなことは珍しくもない。

 奉行所内の雰囲気が悪くなって三月は経っている。原因は奉行所を牛耳る一部の古参与力たちの横行のせいだ。おかげで奉行所内の規律は著しく下がっていた。香川はその与力一派にべったりの腰巾着で……。

 もっとも、それもこれも、そもそもの元凶は───。

 ……それこそ、彼のような新参者にとっては雲の上のような話に、いちいち腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいと、雅耶は奉行所を飛び出した。

 己の職務に励むために。




 「有賀!」

正義(まさよし)───」

 雅耶は見慣れた町の一角で、思いがけず親友───いや、腐れ縁の悪友と行き会った。

 ここのところ遠のいていた見廻りに出てすぐのことである。

 ここは小間物屋、古着屋・太物屋などの店が建ち並ぶ、松坂町(まつさかちょう)川芎(せんきゅう)通り。

 そのうちの一角、二階建ての表店の前でばったり出会ったのは、雅耶よりずっと高い少年めいた声の持ち主で、彼とは対照的に聡明で大人しそうな顔立ちをした神尾(かみお)正義という若者だった。

「どう? お父上のご容態は───」

 彼は雅耶と挨拶を交わすよりも先ににそう尋ねてきた。

 彼は二人がその前に立つ、町医の野口貞庵(ていあん)先生のところで見習いをしている若い医者だ。

 十徳を上着として羽織り、月代を剃らず、伸ばした髪を後ろに束ねている。

 一目で医者とわかるその姿に、以前、雅耶はその身なりに何か医者として特別な意味が込められているのかと聞いたことがあったが、答えは「知らない」だった。

 年は雅耶と同じ、二十二。

「ん……」

 対する雅耶の反応は、小さく首を振るだけ───だった。

 それはいいとも悪いとも……変わりがないという意味なのだろうが、わざわざ病床の父親の様子を尋ねてくれている医者に対してはあまり好ましい態度とはいえなかった。

 しかし、

「そう……」

 正義はべつだん気にした様子もなく頷いた。

 幼馴染みといってもいいくらいの間柄の彼にしてみれば、雅耶が父親の話題に平静に答えるようになっただけでもずいぶんと以前よりはマシになったのだ。

「また来月、貞庵先生が診察に行くと思うけど。それまでに何かあったらすぐに知らせてね」

「いつも世話んなるな」

「……そんなこと……」

 正義は仕事時の───医者の仕草で首を振った。

 雅耶とは違った意味で───雅耶はいかにもガキ大将めいていたから───少年っぽさを残す正義だったが、やはりそんな時には年相応の、職業上身につけた貫禄が表れる。

 そんな自分にまるで気づいていない彼は彼で、「世話になる」なんて、雅耶もずいぶん大人びた言葉を口にするようになったものだと心の中で感心していた。

 小銀杏の髷、黒紋付の羽織に黄八丈の着流し姿。

 やはり父親の後を継ぎ、町方役人の恰好を───まだ見習いとはいえ───するようになると、自然に身につくものがあるのだろうか……。

「───お大事に」

「ああ……。そういやおまえは?」

「俺?」

「なにすっとこ───ああ、往診か?」

「すっとこ……? ただのお使いだよ」

 二人は気心の知れた者同士の他愛のない会話を続けながら、見慣れた通りを歩いていた。

 雅耶の胸元からは十手についている朱房がチラリと覗いている。これは粋がってわざと───ではなく、ただ単に無造作に突っ込んだためだ。どちらにしろ町方役人独特の格好には変わりはない。

 連れ立つ正義は、まだあどけなさの残る、どちらかといえば少年に近い風貌だったが、実際はすでに医者として一応なりとも身を立てている一人前の青年である───はずが、同じ年の二人が連れ立って歩くその様子は、まるでいきなり無鉄砲な十代の頃に戻ってしまったような、どことなく手持ち無沙汰げで剣呑そうな───そんな雰囲気を醸し出していた。

 二人はそんなことに気づいてもいなかったが。

 我が道を行くと決めた以上、周囲を窺わない。

 気性が正反対で、選んだ道もかけ離れた二人だったが、そんなところは共通していた。

 だからこそ出会った頃、違う意味で荒れていた二人だったが、共に立ち直った今に至ってもつかず離れずのつき合いを続けられているのだろう。

 正義が時の流れを実感した雅耶の父親のこと───今は寝たきりの元北町同心・有賀弦之丞はかつて仏の有賀とまで謳われた名同心だった。

 それは常に穏やかな態度で目下の者にも細かに気を配る性分が慕われたせいだが───反面、身内に厳しいといった面も持ち合わせていた。

 そのため───というのか、巡り合わせの悪さとでもいうのか、生来大らかで大まかで、裏表なく屈託ない雅耶とはことごとくそりが合わず、雅耶はいっとき、家出同然に有賀の家を飛び出していた時期があった。

 母親は彼を産んですぐに亡くなっていたから、家に温もりが少なかったのもその一因だったのかもしれない(弦之丞はその後、後添えを娶ることはなかった)。

 雅耶のそんな役人としては不名誉な───若気の至りといった過去を知っている正義は、本人にも周囲にも、そのことについて触れたことは一度もなかった。

 それは雅耶が自暴自棄に任せて悪所通いを覚えた時期、まさにその場所で二人が出会ったから───というのが一番の理由ではあったが、もちろんそれだけではなかった。

 人の悩みはさまざまで、それをどう乗り越えていくかもまた人による。さらに、そこに至るまでの一番辛い時期にしでかしたことは、簡単に他人が責められることではないのではないかと……───いっとき、自身も憑かれたように吉原に通い詰めていた正義はそんな風に思っていた。

 もちろん、どんな事情を抱えていようと、もし他人に取り返しのつかない迷惑をかけていたとしたら、それは“なかったことに”程度の話では済まされないが……。

「なあ……」

 少し歩いたところに小さな祠があり、小さな鳥居が立っていた。

 雅耶がどことなく重かった口を開いたのはその辺りに差しかかったときだった。

「前に話したことあったっけ───?」

「なにを?」

 職業柄、健脚の雅耶から二、三歩遅れて歩いていた正義が聞き返したとき、唐突に雅耶が立ち止まった。

「……?」

 不審に思う間もなく正義は雅耶に追いついて、彼の背に隠れていた前方を覗き見た。

 目の前に延びている細い路地の向こうに、町娘が一人立っていた。

 朱の唐桟縞模様の木綿の小袖が、娘の若さを引き立てるように粋にも、あるいは、逆に幼子のようにあどけなくも見せていた。

「……お(よう)……!」

 小さな、掠れたような声を正義は確かに耳元で聞いた。

「誰?」

 正義の問いに雅耶が答えようと───あるいは答えようがなくても───口を開きかけたその時、少女は雅耶の前まで歩み寄っていた。

「───」

「お久しぶりです」

 娘らしい、愛らしい声音だった。

 派手さはないが、崩れたところのない───少し寂しげな雰囲気を纏う若い娘。

「………」

「このあいだは、ちゃんとお礼も言えずに……」

「───気づいていたのか……?」

 雅耶の声は聞き取りにくいほど低かった。

 そんな彼の常にはない態度に、正義は遅れて、自分がまずい場面に居合わせたことを悟った。

「あの───」

「はい。助けていただき、ありがとうございました」

「わざわざそんなことを言いに?」

「はい。それと……」

「ほかにもあるのか」

 思いがけず冷たく───というより無感情に響く声。

 はっと目を見張ったのは正義だけだった。

「───貴方様にお目にかかりたいと」

 娘はたじろぎもせず雅耶の目をじっと見上げて言った。

 いい度胸というべきか。とてもそんな風には見えない、それこそそう屈強ではない若者にすら片手で押し倒されそうな、楚々とした細い頼りない姿をしているのに……。

「はっ。いったい俺になんの用が……───今さら」

「いえ、ただ……」

 不機嫌なのは一目で分かる雅耶の問いに、娘はその時初めて少し困ったように小さく目を伏せた。

「……貴方様に会いに」

「正義!」

 唐突に雅耶が背後の友人を振り返った。

「な、なに?」

 その場を離れることしか考えてなかった正義は、急に呼ばれて思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

「覚えてるか? 俺、昔こっぴどく振られたことがあるって話したこと───」

「え……あ、ああ───」

 訳も分からず頷く正義とは対照的に娘は無言で雅耶を見つめていた。

 その(おもて)は無表情に近く、非難はもちろん、何を言い出すのかとはらはらと見守っている気色すらなかった。

 ただ───見つめている。

 それは……。

「有賀」

「今考えると本当に馬鹿馬鹿しいくらい恥ずかしい───ガキの思い込みだったんだな。一緒になろう、なんて───そんな約束までしてた」

「有賀……」

 困惑する正義に構わず、雅耶は続けた。

「それがよー、ある日突然、約束した場所に行ってみりゃ相手は女、じゃなくって男がいてよ。知っている奴だったけど。学問所の同門で俺が嫌ってた奴さ。そいつは俺を見るなりしたり顔で言いやがった」

「あ───」

「おように頼まれたって。俺につきまとうなって───迷惑だから」

「有賀!」

「言ったこと───……なかったよな、ここまでは」

「───本当のことなのか?」

「さあ───?」

 雅耶は、己が凍らせた空気を壊すように、装った素っ気なさで肩を竦めた。

「───だけど、その時の俺たちの約束を知っていたのは俺たちだけだった。どのみち二度と彼女には会わなかった。……消えちまったんだ、そのまま……。二度と───確かめようもなかった」

「………」

 正義は何も言えなかった。

 彼は思わず相手───葉に目を遣った。すると、

「───」

 じっと静かに雅耶を見つめていたはずの彼女の表情に、一瞬だけだが───謝罪ではなく、同情でも嘲りでもない───潔い何かが浮かんだような気がして、正義の視線は釘付けになった。

「有賀……」

 しかし、刹那だったそれは捉えようもなく、彼は結局、何も言えずに彼女から目を逸らした。

 雅耶は気づかなかったようだ。

 己の言葉にさらに傷つき、そんな余裕などなかったのだろう。

「───風の便りに上方かさらに西の方へ行ったとも聞いたけど……。───忘れた。どうしようもなかったし、どうでもいいことだった───袖にされた身としちゃあな」

「有賀……」

 正義は、普段は見たこともない雅耶の自暴自棄な表情と言葉に戸惑いながらも、それでもようやく、口にすべき言葉を見つけ出した。

「そんな言い方するもんじゃない───と思うよ。雅耶、おまえのためにね」

「正義」

「私は失礼するよ」

 正義は、行動に出るのが遅すぎたことにいささか気が引けながらも珍しくきっぱりとした口調で言うと、驚いたような顔をする雅耶から視線を離した。

 気づいた娘が小さく頭を下げてきた。

「………」

 それは完璧なほど抑制された、極めて儀礼的な動作にすぎなかったが、正義にはそれが彼女の精一杯の誠意のような気がして、微かに頷き返した。

「おいっ、正義!」

 それから柄にもない大股で身を翻した彼の背に雅耶の声が被さった。

 しかし、彼は振り返らずに、右手を中途半端な高さに上げて、そのまま歩み去った。




一(その二)

 「………」

 短い路地の、すぐに角を曲がって消えてしまった親友の背を見送って、雅耶は軽く唇を噛んだ。

 葉がいきなり現れたことに動揺して、喋らなくていいことまで喋ってしまい、親友の気を悪くさせたのではないかと───雅耶は一瞬、自己嫌悪に陥った。

 しかし、

「───江戸にはいなかったんだろ?」

 態度だけはより一層冷めたように見えたかもしれない。雅耶は、正義の言葉によって頭を冷やしつつ、ゆっくりと、相手を振り返った。

「はい……」

 娘は頷いた。

「───」

 彼は話をする必要があるかどうかをしばし考えて、それから無言で目の前の小さな社へと歩き出した。少女は黙ってついてくる。

「どうして江戸に?」

「法事を兼ねて───家の者の代わりに───商用で」

「一人で?」

「───供の者はおりますが……」

 身辺は語りたくない…、というのは先を濁す言い様から見て取れて、彼はそれ以上問いを重ねることはしなかった。

 それでも、一つだけ───。

「どこに戻るんだ?」

「長崎です。長崎に……」

 この江戸から離れ、京都、大坂どころか、さらに……。

「……遠いんだな」

 他意なく漏れた言葉だった。

 葉は答えなかった。

 竹林に囲まれた小さな敷地は、遠くの通りに甘酒売の声がするだけで、ほかに人の気配はなかった。

 雅耶と葉が偶然揃えてしまった沈黙は、まるでそれ自体が意思を持って、二人に過去を思い出させているかのようだった。

 それでもいいと、雅耶は頑固に沈黙を続けた。

 それでも無意味な感傷には引きずられたくなくて、過去ではなく現在に気持ちを残すために───彼はあえて目を閉じた。

 今この瞬間、何を言おうと結局はあの時の恨み言にしかならず、それを素直に口にはするには、五年という月日はあまりにも短く、彼の矜持も邪魔をして……。

 晩秋にしては暖かい日の光もこの竹林までは届いていなかった。

 足元には連日の冷たい空気が淀んでいる。

 思いやりや余裕のある言葉一つかけられない未熟な己を自覚しつつ、彼はこの再会の時を終わらせようと、再び路地に向かって歩き出した。

 少女は先ほど同様、黙ってついてくる。

 しかし───。

「立派なお役人様になられたのですね」

 不意に背後からかけられた声に、雅耶は思わず振り返った。

「───お父上様のあとをお継ぎになられたのでしょう?」

 葉の眼差しが告げているのはその身なり。

 一目でそうと分かる───。

 五年前と寸分変わらぬ寂しげな白いおもて、平坦な口調の中に、あるはずのない気遣いと好意が垣間見えて……。

「………」

 路地は透明な光に包まれていた。

 雅耶は、まるで出し抜けに過去に追いつかれてしまったかのような感慨と、目眩のような記憶の渦に巻き込まれて……。

 言葉を失ったまま、黙って相手を見返した。


 ……今は昔……。

 優しい言葉を囁くよりも多く口にした、父親との確執で繰り返される悩みごと。その度に与えられた、聡い忠告でもなければ賢い知恵でもない、ただ痛んだ心に染み入るような労り、慰め、優しさ……。

「───まだ見習いなんだ」

 路地の方を向きつつ、万感の想いを込めて刹那目を閉じた雅耶は、それらを断ち切るように娘を振り返った。

 それから強いて無感動に続けた。

「親父は今病気で休んでいるが、引退はしていない」

「───お悪いのですか?」

「……まあ、年だからな」

「そうですか……。しかし───お喜びでしょう、お父上様も。貴方様のそのお姿……」

「………」

 雅耶は、僻みでも悪意からでもなくただ単純に、なぜ葉がそんな───まるで喜ばしいことのように言うのか、理解ができなかった。

 葉もまた、過去の幻影を今現在のもののように錯覚しているのか。

 ……わからない。

 ただ、心の奥深くに疼くものがあることだけは確かだった。

 やがて、

「お引き留めいたしまして───申し訳ありませんでした」

 相手が静かに言った。

「………」

「御用の途中にお邪魔立てをして……」

「………」

「それでは───」

 葉は雅耶に向かって丁寧に頭を下げると、通りに沿って歩いていった。

「───」

 雅耶は、離れていくその姿を黙って見送った。

 未だ心の奥底に何かがあったとしても───それを口にすることはできないと悟っていた。

 五年という歳月も、変わってしまった立場も、そして男としての矜持もそれを許さなかった。

 だが、しかし───別れ際のこの時、相手に声一つかけなかったことが、その後の彼をどんなに後悔させることになるかは───……無論、この時の彼は知る由もなかった。




 その日の夜遅く───。

 月番が北に変わり、前の凶行が起こって十日が経った今夜も、町方は異例の総動員で市中の見廻りに当たっていた。

 辻斬りは犯行の間隔が大きくなる傾向にある上、このまま事件が起こらなければ───怪しい人物さえ浮かんでいない現状では───迷宮入りは必至だった。

 そんな不安を抱えつつ、それとも今日こそは凶行が繰り返されるのかと、連日連夜、探索に関わる者たちの緊張は続いていた。

 ───そんな身に十一月の冷え切った夜風は厳しい。

 いい加減、体の芯が凍りつきそうだと思いながら、雅耶は年上の小者に提灯を持たせ、受け持ちの町内を歩いていた。

 小者───岡っ引きの仁助は元々父親の手先で、老練で堅実な男だ。役目とは言え、息子ほどの年の雅耶にもうまく仕えていた。

「なぁ───」

 黒い虚空が広がる寝静まった町には、提灯の明かりだけが視界の全てだった。

 何を言うか定まらないまま、沈黙に飽いて雅耶が口を開こうとした、その瞬間。

「ギャッ───!」

 人の声とも思われぬような、一瞬の叫び声が雅耶主従の耳を貫き、二人は瞬時に駆け出した。


 商家の多いこの辺は比較的戸締まりが固い。

 角を曲がり、広めの路地に飛び出した二人の目に映ったのは───。


 通りの真ん中に投げ出され、燃えて大きな明かりを放つ提灯と、それが作る大きな影。


 思わず目を凝らした雅耶には、次の瞬間、それが地面に倒れた人の体と、それに屈み込んでいる人影だということが分かった。

 駆けつけた雅耶たちに気づいたのか、はっとして立ち上がり、駆け出した───その横顔は……。

「待てっ! おまえがやったのかっ!」

 雅耶は叫んだ。

 仁助が倒れた人間に駆け寄った。

 暗闇に消えゆく人影から応答はなく、雅耶は地面を蹴って後を追った。


 辺りを照らす、一瞬の炎に映し出された幻のような白い美貌───。


 今夜は月がない。

 夜の(とばり)はそれを強引に押し開こうとする者には容赦なく厚く立ちはだかり、逆にその懐へ逃げ込もうとする者には惜しげもなく恩恵を与える……。


「……っ……」


 荒い息を吐いて、雅耶は何も見えない路地に独り立ち尽くした。

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