序
時は───…。
こなみ橋を渡ると増山町を突っ切る大通りに出る。
すぐ近くは奉行所だが、非番の時くらい役目を離れたい雅耶の足は自然、速くなった。
まっすぐ家へと向かう道すがら、彼はこのあとの午後をどう過ごそうかとぼんやり考えていた。
普段、御用繁多な雅耶にとって、休日である今日は珍しく長く感じられる。
のんびり過ごそうと、そのために人出を避けて朝早くに用事を済ませてきたのだが……。
───ここ半月、市中を騒がせている辻斬りの恐怖が人々を外出から遠ざけているかと思いきや……───実際のところ、案外そうでもないようで、昼の表通りはいつもの賑わいを見せていた。
…まぁ───事件はいつも夜だしな…
そんなことを考えていると、
「喧嘩だっ、喧嘩っ───!」
一際大きな叫び声が、突然単調な喧噪を引き裂いた。
表通りにはもう人だかりができていた。
「刀!」
「おいっ、危ない! 抜いてるぞ!」
ざわざわ───…!
誰かの言葉に人垣のざわめきが一層強くなった。
雅耶が人混みをかき分けて抜け出た先は、吾妻屋という、わりと名の知れた海産物問屋の店の前だった。
野次馬が遠巻きする中、浪人風の侍とその背後にいる年若い町娘が三人の男たちに囲まれていた。
雅耶から見える、彼らの法被の背紋と真上の看板の屋号紋が同じだったから、男たちは吾妻屋の者で間違いないだろう。
「!───」
衆目を集めるその場の者の内、雅耶の正面に位置するたった一人の若い武家───背の高い、黒い着流し姿の、おそらくは浪人───の容貌に、雅耶は思わず目を奪われた。
切れ長の二重の黒々とした瞳が印象的───を通り越して、まるで吸い込まれそうな───白皙の美貌。
年は幾つくらいか。
恐ろしく整ったその面は年齢をまるで感じさせなかったが、見た目の印象よりは幾分若いのかもしれない。
三十には届くまい、二十は過ぎているのだろうが……。
…こんな顔の整った人間も世の中にはいるもんだ───…
雅耶が抱いた、驚きを通り越し、呆れにも近い感慨とは正反対に、その場の空気は異様に凍りついていた。
原因はただ一つ。
美貌の浪人が抜き放った、鈍色に輝く刃───。
誰もがこの瞬間、連日の辻斬り事件を思い浮かべたに違いない。
ぴんと張りつめた空気が、町人たちの事件への恐怖をまざまざと見せつけていた。
その時、
「こらこらっ、どけぇ!」
「どこだっ、おまえらか!」
不意に、無粋───とさえ感じられるほど乱暴な声がその場に飛び込んできた。
「水野様!」
一目で町方役人と分かる中年の同心と、それより幾分若いくらいの岡っ引きが人混みを掻き分けながらこの舞台へと上がってきた。
「水野様!」
「水野様! ああ、よかった……」
吾妻屋の若衆たちは今までの物騒な目つきを一変させ、同心にすがるように口々に訴え始めた。
「どうした? 何事だ?」
「水野様、お聞き下さい」
「そこのご浪人がいきなり刀を抜きまして───」
「そうでございます。まずそこにいる娘が勝手に店の中に入って来まして、それを咎めようとしましたところ、飛び出したこの通りで、そこのご浪人がいきなり割り込んで来まして……」
「きっと二人してうちの店を強請ろうとか、難癖つけようとかしてきたに違いありません」
「そうでございます!」
「ほう───ご浪人、そうなのかい?」
男たちの言い分を聞きながら、水野は視線を移した。
浪人はすでに長刀を鞘に収めていた。
さすがに中年男の水野は、相手の稀有な美貌に動じた様子も見せない。
「……違う」
雅耶が初めて耳にする浪人の声は、鋭利でくっきりとした容貌からは一瞬想像しにくい、思いがけず柔らかく響く、男らしいものだった。
「店先でこいつらがこの娘に乱暴を働いていたから助けようと間に入っただけだ。前後は知らん」
素っ気ない言い様。聞いていた雅耶は、やはり姿形・雰囲気と同じくらいの良い声、という意味では釣り合っているのかもと思い直した。
「知らんってねぇ……」
同心はにわかに、その細めのつり上がった目に意地の悪い光を浮かべた。
いくぶん芝居がかった仕草で浅黒い顎に手をやる。
「───特に最近は辻斬りが世間を騒がせてることもあるしな。とりあえず、御番所まで同道してもらおうか」
周囲は水野の“辻斬り”という言葉にざわっとどよめいた。
雅耶は思わず浪人の出方を窺った。
しかし、
「………」
相手は微かに眉を顰めただけで、すぐには返事をしなかった。
まっすぐに水野を見つめるその鋭く美しい眼差しは、まるで別世界の生き物の考えを探ってでもいるかのようだ。
───もっとも、そんなのは雅耶にとっては火を見るよりも明らかだったが。
典型的な、弱き者を挫く小役人である水野は、若い浪人の言うことなどこれっぽっちもまともに取り合うつもりはないのだろう。
おそらく吾妻屋は彼の出入りの店だ。
こんな時、店に有利なように取り計らってやるのが、日頃の店側の付け届けの目的なのだから……。
そしてそれだけでなく、雅耶は同心の、浪人に対する漠然とした悪意をはっきりと感じ取っていた。
まさかとは思うが、このままでは本当に浪人が辻斬りの下手人にされかねない。
それは困る。
自分たちが汗水垂らして、わらじを擦り切らせて下手人の探索に明け暮れているというのに、通りすがりの───それも南の───同心なんぞに濡れ衣の下手人を挙げられては……。
…───冗談じゃねーっ!…
雅耶は反射的に足を前に踏み出していた。
「お役目、ご苦労様ですっ!」
突然響いた若々しい声に、一堂は揃ってその主を探した。
「なっ……何者だっ、貴様!」
浪人までもが驚いたような表情をする中、水野だけがすぐに不愉快そうに、人混みの中から現れた、子どものように幼い顔立ちの雅耶を睨みつけた。
雅耶はそれに対して平然と笑みを返した。
「北町の、有賀雅耶と申します」
彼は臆しもせず堂々と名乗った。
生まれたときからのつきあいである己の容貌を熟知している彼は、自分の笑みがいかに相手に子どもっぽく映るかは承知している。
しかし、わかっているからこそかえって───同心としての覚悟や経験も加味し、一種独特の迫力が加わっていることには───彼はまだ気づいていなかった。
「たしか南の───水野様でしたね」
張りのある、物怖じしない───いかにも若い声。
紺の抑えめな着流し姿がかえってその若さを強調してしまうような、若者───というよりむしろ少年───じみた彼が町方役人かと驚いたのは水野ばかりではなかったが、中年の同心はその名にいささか聞き覚えがあったらしく、
「有賀……同心だな」
と思い出すように呟くものの、そこでいきなり、
「北町がなんだというんだ」
と口調を変えた。
「そなた、その格好、非番であろう。口出し無用だ」
「喧嘩両成敗と申します」
雅耶は言葉遣いだけは丁寧に、そのくせ畳み込むように言葉を続けた。
「まして、そこのご浪人さんは娘を庇っての成り行きだと言い張ってますし、果たして南のお方はどうご裁量なさるのか───まずは双方、御番所に呼ばれるのでしょうね」
「それは……!」
笑顔を絶やさない雅耶に対して、中年の同心はあからさまに困った顔をした。
内心は、何を生意気な…、といったところだろうが、至極まともな彼の言葉を否定すれば、「ではどうするのか?」と問い返されるのは必然で、公正な裁きなど端からする気のなかった水野は返事に詰まった。
これが人気のない場所だったらごり押しも可能だろうが……。
そんな雰囲気を察したのか、吾妻屋の若衆が水野の後ろで何やら顔を見合わせ、渋い表情をし始めていた。
自分たちに都合のいいように決着が着くはずが、どうやら雲行きが…、といったところだろうか。
「水野様……!」
「もういい!」
店の者たちの声を遮って、水野はいきなり結論を出した。
「些細ないざこざであろう! 双方気をつけるように!」
「そっ、そんな……!」
「水野様っ、この者たちをお取り調べには……」
口々に水野に食い下がる男たちの様子に雅耶はおやと思ったが、それよりも今が潮時だと浪人を振り返り、
「水野殿の寛大なご処置だ。あんたたちもさっさと───」
───消えな、と言いかけた時だった。
今まで浪人の背に隠れて見えなかった、件の娘の姿が彼の目に入った。
怯えているのか、居たたまれぬよう目を伏せている白い面。
顔を上げると、きっと寂しそうな面差しをしているに違いない。
それは……。
…ま……さか───?…
俯いている娘はもちろん、浪人も周囲も、誰一人として雅耶が顔色を変えたのには気づかなかった。
「───っ」
咄嗟の動揺をねじ込むように胸の内に押さえつけた雅耶は、水野が人混みを乱暴にかき分け、立ち去っていくのを見送った。
吾妻屋の男たちはまだ憎々しげに娘と浪人を睨みつけていたが、さすがにそれ以上手出ししてくるような様子は見せなかった。
浪人が娘を振り返り、なにやら促している。おそらくはこの場から離れるように言っているのだろう。
ざわざわとざわめきを尻つぼみにさせながら、周囲の人々も散りかけていた。
雅耶は、水野が手の者を従えつつ完全に人混みに消えたのを確かめてから、自分も踵を返した。
彼には自然と人が開く。
周囲も気づいているのだ。
この童顔の若者が、年かさの意地の悪い町方同心と同等にやり合った───どころか、実際には言い負かしたことを。
それは彼の容貌と声に似つかわしい、爽やかなやり方だった。
そしてその姿こそが、町人たちがいざというとき頼みにする「お役人様」本来の姿。
普段であれば、雅耶もその理想の姿のそのままに、この場で当事者たちに一言二言なりとも声をかけるくらいのことは手間も惜しまずするのだが……。───しかし、この時の彼は、まるで一刻も早くここから離れたいとばかりに足を早めた。
「………」
その背を、娘は立ち去ろうとする歩みをふと止めて見送った。
思いの外まっすぐな娘の視線に背を向けている雅耶は当然気づかない。だが、少女につられるようにそちらに視線を移した浪人は、不思議そうな様子で再び娘を見やった。
相手も気づいて浪人を見上げる。
「あの……」
顔立ちがどうのというより、まず線の細さが目につくような、どこか儚げな風情の娘だった。
年は十七、八くらいか。
「……ありがとうございました。本当に───助かりました」
高くかぼそい声音だが、案外口調ははっきりしていて、聞き取りやすかった。
「いや……」
対する浪人は相変わらず物柔らかい声で応えると、小さく首を振った。
衆目を集める騒ぎに巻き込まれた娘は───おそらくそれどころではなかったのだろう───相手の美貌に心を動かされた様子もなく、ちらっと雅耶の、人混みに消えかかる方向へと視線を飛ばせて、
「───では、失礼いたします」
深々と頭を下げると、気にした方とは反対の道を歩き去っていった。
その心細げな後ろ姿を追う者はもはやいない。
浪人はそれを確かめてから、彼一人が終始通した無表情のまま、無造作に踵を返した。
娘とは反対の方向へと。
通りの行き止まりは小さな神社で、浪人は社の脇で雅耶に追いついた。
「おいっ」
声をかけると、年若い同心は二重のはっきりとした目をさらに大きく見開いて振り返った。
どうやら完全に周囲を失念していたらしい。
先ほどの俊敏な印象からは少し離れるその様子───何かよほど深い物思いにでも耽っていたのか。
「礼を言おうと思って追ってきた。先ほどは助かった。かたじけない」
浪人はしかめっつららしい口をきいた。
「……そんなこと、わざわざ……」
虚を突かれた雅耶は、戸惑ったように呟いた。
間近で顔を合わせると、男としては中背の雅耶は長身の相手を見上げる形になる。
雅耶は咄嗟に───この綺麗すぎる顔と顔を突き合わせるのは苦手だと感じた。
「それに、聞きたいこともあって」
「聞きたいこと?」
無意識に警戒感が強まる。
「あの……娘のことか?」
「え?」
「───」
いや、と口の中で呟きながら、雅耶はまっすぐな浪人の視線から逃れるように目を逸らした。それだけでも彼を知る人には常にないことと驚かれただろう。
「ああ……あの娘」
微妙に焦る雅耶とは対照的に、浪人は遅れて合点してから告げた。
「礼を言われて別れた。……そういえば名も聞かなかったな」
「知り合いじゃなかったのか?」
雅耶は驚いたように声を上げた。相手が浪人とはいえ、侍に向かって自分の口調が乱暴すぎることに───彼は気づいていなかった。
「いや……? 先ほど言ったとおりだ。あの店の前で、店の者に物凄い剣幕で迫られていたから放っておけなくて」
「いったいどうして……」
「さあ? 聞かなかったな」
先刻からどうも首を傾げてばかりの浪人に、雅耶は少し見る目を変えながら改めて向き直った。
「───で?」
「?」
「俺に聞きたいことがあるって言ってなかったか?」
「ああ。そうだ」
「………」
「さっき言っていた辻斬りのことだが」
「辻斬り」
「そう。その……起こっているのか?」
「なにが?」
「辻斬りが」
「……ああ」
「そんな頻繁に?」
「あんた……もしかして今日、江戸に着いたとか?」
「? いや?」
浪人はごく素直な仕草で首を振った。それには雅耶が絶句する。
饒舌な彼が珍しく押し黙るのに、
「どうした?……どうして?」
浪人はいっそ無邪気なくらいの様子で雅耶に尋ね返した。
「───江戸の町でまさか辻斬りの一件を知らぬ者がいるとは思わなかったぜ……」
ぼやくように、嘲るように、雅耶は口の中で呟いた。
「そんなに人々の口にのぼっているのか……」
浪人は、問いとも確認とも───こちらはしみじみとした口調で───呟いた。
雅耶はそんな相手をじっと見つめた。
若くとも彼は、職業柄、この町のありとあらゆる市井に通じているが、こんな───容姿が常人離れしている上、今までずっと生真面目な様子でありながら、どこか不真面目な───違う、浮き世離れした雰囲気を持つ人間とは初めて出会った。
「……本当に知らないんだな?」
「ああ」
「んで?」
「下手人の目星は?」
「! っんなん───!」
ついてる訳がないと言いかけて、寸前のところで彼は、
「……奉行所が鋭意探索中だ」
と言い替えることに成功した。
「探索中……」
「なんだよ?」
雅耶はぶすっとして言い返した。彼はもはや───浪人とはいえ侍相手に───乱暴な口調を隠しもしなかった。
端から気遣ってもいなかったが
彼はこの、稀有な美貌の持ち主への印象をようやく固めつつあった。
つまり、一目見たら忘れられない白皙の面の下は、どこか一本抜けているのではないかという……。
…そんなもんだよなぁ。面が良すぎる奴って、どっかおかしいんだ…
かなりの偏見が含まれていたが。
「おまえは北町と言ってたな」
「ああ。辻斬りは先月から起こったからうちが担当だったが、上から声がかかって北南共同で探索に当たることになったんだ」
「そうなのか。で、今までにどれくらい……」
「五件。三日から四日を空けて。五件目がおとといだったから、あさって辺りが危ないかもな」
雅耶はすらすらと教えてやった。これくらいは読売にも書いてある。
もちろん彼はそれ以上詳しい内容にも通じていたが、この得体の知れない浪人にそこまで話す義理はなかった。
第一、この興味の持ち方───…。
「あんた───なんでそんなに事件のことを知りたがる?……もしかして心当たりでも───」
半分は当て推量だった。とはいえ、装わずとも無意識に目つきは鋭くなり……。
「ちっ、違う!」
浪人は驚いた声を上げ、両手で雅耶を止める仕草をした。
「信じられんかもしれんが、本当に知らなかったんだ! だから驚いて、どういうことなのかを聞きたかっただけだ!」
きっと男にしては珍しいに違いない、焦った口調は相変わらず響きのいいその声音には少し似合わなかった。
そして、こんな時も彼が纏う、どこかおっとりとした雰囲気は依然として消えず……。
…───不思議な男だ───…
「……ならいいけど」
もともと本気ではなかった雅耶はあっさりと矛先を収めた。しかし、
「知らなかったとはいえ、そんな時に抜刀騒ぎなんざ馬鹿もいいところだぜ。以後気をつけんだな」
結局、伝法な口調を改めぬまま言い捨てると、雅耶はくるっと相手に背を向けた。
「───」
その後ろ姿に咄嗟に何か言いかけようとした浪人は───しかし、結局、何も言わぬまま口を閉じた。
それらを気配で察しつつ、雅耶は振り返らずにその場を後にした。
すたすたと、行き先を定めずただ自動的に歩みを進める。
───南町はずいぶん息巻いているが、今月中に辻斬り事件が解決しなければこの共同探索は当分続く。それでなくても混乱しているというのに、その上さらに……。
「ええいっ!」
雅耶は思いっ切り頭を振った。
すでに人のいる通りに出ていたため、周囲から怪訝そうな目を向けられた。
しかし、そんなことは気にもせず、彼はいつのまにか再び己だけの思考に陥っていた。
およう…、と無意識に唇が動く。
あの状況からいって、彼女が浪人と知り合いでなかったことは意外だったが……。
「………」
長身の美貌の男の背に庇われ、目を伏せていた白い横顔。
「───」
雅耶は何かを断ち切るように───あるいは逆らうように、目に見えないものへ向けてぐいっと顔を上げた。
途端、町を流れる冷たい空気が彼の頬を撫でた。
行き交う人々の隙間を縫って渡る秋風は冷たい。
彼は今年初めてぶるっと寒さに身を震わせた。
神無月が終わろうとしていた。