可愛い笑顔
涼さんのアパートを出た後、胸の奥がざわつく。
「緊張しすぎじゃない?これってむしろ私の方が緊張する場面だと思うけど。ほぼ初対面の人を説得しないといけないし、旦那さんのお母さんに会いに行くとかハードル高いと思うけど」
「そうだけど…そうだけどさ…」
「まぁ、ダメならダメで適当に人を用意するから」
「…うん」
893の事務所でのあの緊張感とは別の緊張感を感じる。
説得できるだろうか…。
そう、次のステップは、証人を用意することだった。
「とりあえず、証人は大学の友達と母さんに頼もうと思う」
「そう。いいんじゃない?」
「うん。本当は何も知らない高校時代の友達にとか考えたけど…まぁ、どうせ涼さんの苗字が変わったら…バレるわけだし…」
「確かにそうだね。お母さんにもいずれバレることだろうしね」
こうして、涼さんと相談し、まずは友達である健太に証人をお願いすることにした。
ただし、いきなり「実は結婚しようと思ってる」とか言うと、色々詮索されそうだから、半年前から付き合っていたことにしようと決めた。
もちろんそれでも涼さんの噂を考えると、佐藤がすんなり納得してくれるか不安だったが、こればっかりは説得するしかない。
そして、母さんには、涼さんが風俗で働いていたことは黙って、普通に付き合って結婚したいと話すつもりだ。
それと、20億円の宝くじが当たったことも、正直に伝えようと思う。
俺を育てるために全力を尽くしてくれていた分、母さんにこれからは楽をしてほしいから。
そして、深呼吸をして、俺は大学に向かうのであった、
◇
今日は授業が被っていなかったので、違う講義終わり昼に行く前、講義室で健太を捕まえた。
いつものように軽いノリで話しかけてくる健太に「ちょっと話があるんだけど。いい?」というと、「んだよ、その雰囲気。今から俺に告白でもする気かー?」と、笑い始める。
しかし、俺のマジな雰囲気を察して真顔になる。
「え?何?重い話?」
「…思いの…話」
「なんか上手いこと言おうとしなくていいよ」
そうして、近くのファミレスに行き、話を始める。
「…結婚しようと思うんだ」
「…はぁ?」と、あまりの突拍子もない言葉に怪訝そうな顔をする健太。
「相手は誰だよ。俺の知ってるやつなのか?」
「その…相手は…風峰…涼さん」
急に真剣な顔になった。
「お前それ…どう考えたって結婚詐欺じゃねーか」
「…いや、俺お金とかないから」
「ないやつからさらにむしり取る気じゃねーの?」
「…それは…ないと思う」
「てか、お前…風峰のこと好きだった…ってか付き合ってたのか?いつからだよ」
「半年前から…」
「それ…言えよ…」
「…ごめん」
重苦しい雰囲気を感じてか、周囲の学生がチラリと振り返る。
佐藤は眉をひそめ、じっとこちらを見つめた。
「風峰って…あの噂を知ってて付き合ってて、結婚したいってことか?悪いこと言わないからやめとけ。それ、お前にメリットないぞ。必ず痛い目を見る。金を返せない以上、お店だって続けるわけだろ?」
「いや、借金はもう完済して…その場には俺も同席して…893とはちゃんと話はついてる」
「待て…待て待て待て…お前…知らない間に何しちゃってんだよ」
「…悪い」
まぁ、予想通りの反応だった。
涼の借金の話も、健太から聞いたくらいだし。
多分、俺も逆の立場ならまぁ止めるだろうな。
「…涼の過去は知ってる。でも、俺はそれでもいい。彼女にはちゃんと理由があってああいう仕事してたんだ。それともう辞めたし、これからは一緒に新しい生活を始めるつもりだ。だから…」と、婚姻届を出す。
佐藤はしばらく黙り、ため息をついた。
「…証人になれ…と。まぁ、お前の家母ちゃんだけだもんな。確か風峰さんも親は離婚してどっちもいなくなったんだっけ。それで俺に白羽の矢が立った…と。はぁ…お前、ほんとにまっすぐすぎるよな。めっちゃいい奴だけど、だからこそ心配なんだよ。そもそも学生で結婚とか、普通じゃねえし。しかも、相手が…な」
「分かってる。でも、俺は…涼と一緒にいたいんだ。頼む、証人に名前書いてくれ」と、頭を下げる。
健太は渋い顔のまま、腕を組んで考え込んだ。
「とりあえず…考えさせろ。お前の人生を左右する選択だからな。はいそうですかでは書けねーから。悪いけど、3人で改めて話をさせてくれ」
そうして、一旦お開きになった後、その夜、涼さんを連れて健太と3人で改めてファミレスで会うことになった。
涼さんは普段の無表情な顔ではなく、柔らかい笑顔を浮かべていた。
健太は最初、気まずそうにしていたが、涼さんが静かに普通に話す姿に少しずつ態度が軟化した。
「…まぁ、話はわかった」
「…佐藤くん、千太くんと私のこと、応援してくれると嬉しいな」
涼の穏やかな声に、佐藤は目を逸らし、頭をかいた。
「…はぁ…正直、友達としては書きたくはない。友達だから幸せになってほしいし、相手だってちゃんと選んでほしい。本人の前で言うのもなんだけど、正直2人は合わないと思う」
「…そうだね。確かにそれは否めないかも。それでも…俺は…」
それから2時間ほど話をした。
馴れ初めとか、簡単なことの経緯とか、今後どうするかについてとか…。
そして、最後の最後で健太は首を縦に振った。
「…分かった、証人に名前書くよ。でも、千太、ほんとに大丈夫か? 何かあったら俺に言えよ」
「うん。ありがとな、健太」
なんとか証人欄に健太の名前を書いてもらえた。
涼さんがそっと微笑むのを見て、ほっと胸をなで下ろした。
あと…もう1人…か。
◇
次は母さんだ。
週末、母さんがパートから帰ってくる時間を見計らって、涼さんを連れて実家で待っていた。
「ただいまー」と帰ってきた母さんを2人で出迎える。
「初めまして」と、ニコッと笑う涼さん。
演技上手いな…と、素直に感心する。
「えっと…え?」
「…彼女の…風峰涼さん」
「え?誰の彼女?」
「…俺の」
「…はぁ」
そして、ボロアパートの狭いリビングに、母さんと涼さんと3人で座る。
涼さんは緊張した様子で、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、風峰涼です。千太くんと…その、お付き合いをさせていただいております」
母さんは目を丸くし、しばらく言葉を失っていた。
「…結婚? 千太、急に?彼女ができたって話も聞いてなかったのに…」
「実は、半年前から付き合ってて、色々あって結婚しようって決めたんだ」
言葉を選びながら、経緯を話して、そして宝くじの話も切り出した。
「それと、母さん。実は…ロト7で20億当たったんだ。だから、母さんにはパート辞めて、好きなことして暮らしてほしい」
母さんの手が止まり、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「…20億? 千太、冗談言わないでよ。本当…なの?」
俺はスマホで口座の残高を見せると、母さんは目を細めて画面を見つめた。
「…本当だ。こんなこと…。でも…そうね。千太、このお金はあんたが使いなさい。母さんはこれまで通りでいい。私だってあんたにたくさん苦労かけたんだから、あんたには幸せになってほしい。だから、そのお金は自分のために使いなさい」
「でも、母さん…これまでずっと我慢してきただろ? せめて、衣食住は俺が面倒見るよ」
母さんはしばらく考え、渋々頷いた。
「…分かった。じゃあ…お願いするわ。でも、結婚の話は…風峰さんは悪い子じゃないと思うけど、急すぎるよ。しばらく3人で暮らしてみて、ちゃんとやっていけそうなら、母さんも認める」
涼さんが小さく微笑み、母さんに頭を下げた。
「ありがとうございます、お母さん。よろしくお願いします」
母さんの目が、少し柔らかくなった気がした。
数日後、涼が荷物をまとめてアパートにやってきた。
狭い部屋に、涼の小さなスーツケースが置かれると、なんだか急に現実味を帯びてきた。
「…狭いとこでごめんね、涼さん」
「いえいえ、うちより全然良いので。それに好きな人と一緒に居れるなら…」
涼さんがくすっと笑う。
母さんが台所で夕飯の支度をしながら、ちらりとこちらを見る。
「涼さんは料理は得意? 千太は全然ダメだから、手伝ってくれると助かるんだけど」
「…あ、料理はこれから勉強します。今まではインスタントばっかりで…ごめんなさい。お手伝いはするので」
涼が少し照れながら答えると、母さんも笑った。
「ゆっくり覚えなさい。千太も手伝いなさいよ」
「お、おう」
夕飯は母さんの手作りのカレーだった。
3人で小さなテーブルを囲み、ぎこちないながらも笑い声が響く。
涼さんがカレーを頬張りながら、ふっと柔らかい笑顔を見せた。
「…美味しい。こんなの、久しぶり」
その一言に、胸が温かくなった。
夜、母さんが寝静まった後、涼とリビングでコーヒーを飲みながら話した。
「千太くん、ありがとうね。私を選んでくれて」
「うん…。俺の方こそありがとう」
涼さんはしばらく黙り、そっと手を握ってきた。
「…馬鹿で律儀で、まっすぐな千太のことよろしくお願いします」と、母さんが言った。