第9話「ガラスの山への道」
平原は意外にも歩きやすかった。
よく整備された道が東へと続いており、時折他の旅人や商人の馬車とすれ違った。
皆、彼に気軽に挨拶し、特に彼の姿を怪しむ様子はなかった。
歩きながら、グレイは周囲の景色を楽しんだ。
森の中では見られなかった広大な空、遠くまで続く地平線、風に揺れる草原の花々。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、彼は自由の感覚に酔いしれた。
ローズから受け取った鍵は、赤いリボンと一緒にポケットにしまってあった。
時折、彼はそれらに触れ、自分の使命を確認するかのようだった。
正午頃、彼は小さな丘の上で休憩することにした。
バッグから食料を取り出し、簡単な昼食を摂る。
パン、チーズ、そして水。質素だが、十分な栄養があった。
食事をしながら、彼は記録帳に今朝からの出来事を書き綴った。
ローズとの出会い、金色の鍵、そして東門での兵士との会話。
すべてが重要な情報だった。
「この世界には、同じような境遇の者がたくさんいるんだな」
彼は独り言を言った。
書き終えると、彼は地図を広げ、現在地を確認した。
ガラスの山までは、あと半日の道のりだった。
順調に進めば、夕方には山の麓に到着するだろう。
「さて、行くか」
彼は荷物をまとめ、再び歩き始めた。
午後の太陽が照りつける中、彼の影は長く地面に伸びていた。
道が次第に上り坂になり、周囲の景色も変わり始めた。
草原は岩がちな地形に変わり、木々も少なくなっていく。
代わりに、奇妙な形の結晶が地面から突き出しているのが見えた。
「ガラスの山の前触れか…」
彼が進むにつれ、結晶はますます大きく、多くなっていった。
太陽の光を受けて、それらは虹色に輝いていた。
美しい光景だったが、どこか不気味さも感じられた。
やがて、道は二手に分かれた。
左の道は険しそうだが直接山へ向かっており、右の道はなだらかだが遠回りに見えた。
グレイは地図を確認したが、この分岐については記載がなかった。
「どちらを行くべきか…」
彼が悩んでいると、遠くから声が聞こえてきた。
「左の道は危険だよ!」
振り返ると、一人の少年が彼に向かって走ってきていた。
10歳くらいの少年で、明るい青い服を着ていた。
「左は危険?」
グレイは少年が近づくのを待った。
「うん!」
少年は息を切らせながら彼の前に立った。
「左の道は最近、結晶の嵐が起きているんだ。誰も通れないよ」
「結晶の嵐?」
「ガラスの山の魔法が不安定になっているんだ」
少年は説明した。
「結晶が突然成長して、道をふさいでしまうことがあるんだよ」
グレイは少年をじっと見た。どこか見覚えのある顔だった。
「君は…?」
「ピーター」
少年は元気に名乗った。
「この辺りの羊飼いだよ。君は?」
「グレイ」
彼は答えた。
「マルヘン町から来た…旅人だ」
「へえ、旅人か」
ピーターは興味深そうに彼を見上げた。
「どこへ行くの?」
グレイは少し躊躇った。誰にでも目的地を明かすべきではないかもしれない。
しかし、この少年は純粋な好奇心から尋ねているように見えた。
「遠くへ」
彼は曖昧に答えた。
「ガラスの山を越えて、その先に行きたいんだ」
「ふーん」
ピーターは首を傾げた。
「じゃあ、右の道を行った方がいいよ。少し遠回りだけど、安全だから」
「ありがとう」
グレイは感謝した。
「君はこの辺りをよく知っているんだね」
「うん!」
ピーターは誇らしげに胸を張った。
「僕はいつもここで羊を放牧しているんだ。でも、最近は山の様子がおかしいから、あまり近づかないようにしているんだ」
「物語の書き換えのせいかな…」
グレイは思わず呟いた。
ピーターの表情が変わった。
「物語の書き換え?」
彼は興味深そうに尋ねた。
「君も知っているの?」
グレイは驚いた。
「君も?」
「うん」
ピーターは頷いた。
「僕の物語も変わっちゃったんだ。本当は『オオカミが来た』って嘘をついたせいで、誰も僕の言うことを信じなくなるはずだったんだけど…」
「狼少年のピーター」
グレイは気づいた。
「君があの物語の…」
「そう」
ピーターは少し悲しそうに頷いた。
「でも、物語が途中で変わっちゃって。オオカミは本当に現れたのに、物語から消えちゃったんだ。それで僕は…物語の外に出てきたんだ」
グレイは深く共感を覚えた。彼も同じように物語から抜け出してきたのだから。
「グレイさんの物語は?」
ピーターが尋ねた。
「僕は…」
グレイは少し考えた後、正直に答えることにした。
「赤ずきんと狼の物語の、狼だった」
ピーターの目が大きく見開かれた。
「え!でも君は…」
「ああ、姿が変わったんだ」
グレイは説明した。
「物語の境界を越えたとき、少しずつ変化していった」
「すごい…」
ピーターは感嘆の声を上げた。
「僕は変わらなかったけど、君は変われたんだね」
「多分、それぞれ違うんだろう」
グレイは微笑んだ。
「それで、君はここで何をしているの?本当に羊を飼っているの?」
「うん」
ピーターは頷いた。
「でも、それだけじゃないんだ。僕は見張り役でもあるんだよ」
「見張り役?」
「うん」
ピーターは声を低めた。
「影の書き手の手下が現れないか見張っているんだ。彼らが通ったら、マルヘン町に連絡するんだよ」
「危険じゃないのか?」
グレイは心配になった。
「大丈夫」
ピーターは笑った。
「僕、隠れるのがとても上手なんだ。それに、こんな子供に誰も疑いをかけないから」
グレイは感心した。幼い外見ながら、彼は重要な役割を担っているのだ。
「それじゃあ、右の道を行くよ」
グレイは決断した。
「ありがとう、ピーター」
「うん!」
ピーターは元気よく手を振った。
「気をつけてね、グレイさん。もし図書館を見つけたら、僕の物語も探してくれるかな?」
グレイは驚いた。
「どうして図書館だと…?」
ピーターはにっこり笑った。
「だって、そこに行く人たちはみんな同じ顔をしているもの。物語を取り戻したいって」
グレイは微笑み、頷いた。
「約束するよ。必ず探すから」
彼らは別れ、グレイは右の道を進み始めた。
ピーターの姿が小さくなっていく中、彼は少年の言葉を思い返していた。
「みんな同じ顔をしている…」
彼は記録帳に、ピーターとの出会いを書き留めた。
そして、右の道を進み続けた。
道はなだらかだったが、予想以上に曲がりくねっていた。
まるで山を慎重に迂回するかのように、大きく弧を描いている。
しかし、ピーターの忠告通り、この道は安全だった。
結晶は道の脇に美しく並び、害を及ぼす様子はなかった。
夕方近くになると、ガラスの山がすぐそこまで近づいていた。
夕日を受けて、山全体が赤く染まり、まるで燃えているように見えた。
「あれが…ガラスの山」
グレイは畏敬の念を抱きながら、巨大な山塊を見上げた。
その名の通り、山全体が巨大なガラスでできているようだった。
無数の結晶が複雑に組み合わさり、光を反射して幻想的な景色を生み出している。
道の先には小さな宿があり、多くの旅人が集まっていた。
「麓の宿」という名前のその施設は、ガラスの山を越える前の最後の休息地だったようだ。
グレイは疲れた足を引きずりながら、宿に向かった。
一日の旅で、彼は多くのことを学び、多くの出会いがあった。
明日はさらに険しい道が待っているだろう。
彼はポケットの中の赤いリボンと金色の鍵に触れた。
「もう少しだ、赤ずきん」彼は心の中で呟いた。
「僕は必ず見つけるから」
麓の宿の扉を開け、彼は旅の第一日目を終えようとしていた。
物語を探す旅は、まだ始まったばかりだった。
「麓の宿」の中は、様々な旅人で賑わっていた。暖炉の火が部屋を明るく照らし、温かな雰囲気が漂っていた。グレイは宿の主人から一部屋を借り、その日の疲れを癒すことにした。
「明日はガラスの山を越える準備をするといい」と主人は言った。
「早朝に出発すれば、一日かけて山を越えられるだろう。ただし、最近は結晶の嵐が頻発している。装備をしっかり整えることだ」
部屋に入ったグレイは、窓から外を見た。月明かりに照らされたガラスの山は、青白く輝いていた。その美しさに見惚れながらも、彼の心は明日の挑戦に向けて引き締まった。
赤いリボンと金色の鍵を手に取り、彼は小さく呟いた。
「この山を越えたら、一歩近づくんだな」
彼は記録帳に今日の出来事をまとめ、装備を整えると、早めに休むことにした。明日は長く険しい一日になるだろう。
外では風がガラスの結晶を撫で、かすかな音楽のような音が聞こえてきた。それは彼を優しく眠りへと誘っていった。
(つづく)