第8話「旅立ちの朝」
物語の外へ踏み出す者は、自らの運命を書き換える覚悟をしなければならない。
主役も、脇役も、悪役も、その境界は曖昧になる。
新たな物語を紡ぐとき、彼らは真の自由を手にする。
わたしは見届ける。彼らの選択と、その結果を。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、グレイの瞼を照らした。
彼はゆっくりと目を開け、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
柔らかなベッド、清潔な部屋、窓から見えるマルヘン町の朝の風景。
これらは彼の森の生活からはかけ離れていた。
「そうだ…」
彼は思い出した。
「今日から旅が始まる」
彼は身を起こし、窓際に歩み寄った。
マルヘン町は早朝から活気に満ちていた。パン屋の煙突から煙が立ち昇り、市場へ向かう商人たちが荷車を引き、通りを清掃する人々の姿も見える。
「さて」
彼は深呼吸した。
「準備をしなければ」
昨夜、宿に着いた後、グレイはフリードリヒからもらった地図を詳しく調べていた。
マルヘン町から図書館までの道のりは確かに長い。まずはガラスの山を越え、次に眠りの谷を抜け、その後に歌う海を渡る。そして最後に、迷いの森を通り抜けなければならない。
「食料と水、それから…」
彼は持ち物を確認しながら、旅の準備を進めた。
おばあさんの家から持ってきた乾パンはもう少ししかない。旅の途中で食料を調達する必要があるだろう。
身支度を整え、彼は記録帳に簡単な日記を書き留めた。
「旅の初日。
マルヘン町を出発する。
目指すは図書館。
そこで赤ずきんと本当の物語を見つける。」
部屋を出る前に、彼は赤いリボンを大切にポケットにしまった。
それは彼の道標であり、希望だった。
「行くぞ」
彼は部屋を後にし、階段を下りてロビーへと向かった。
早朝にもかかわらず、ホテルのダイニングはすでに何人かの客で賑わっていた。
「おはようございます、グレイさん」
昨夜のフロント係、ローズが彼に気づいて微笑みかけた。
「朝食はいかがですか?出発前に何か食べていかれては」
グレイは感謝の意を示し、テーブルに案内された。
朝食は思った以上に豪華だった。焼きたてのパン、チーズ、フルーツ、そして温かいスープ。
彼は久しぶりにまともな食事を口にし、力がみなぎるのを感じた。
「旅に出られるのですか?」
ローズが尋ねた。
「ええ」
グレイは頷いた。
「図書館を探しているんです」
その言葉に、ローズの表情が少し引き締まった。
「図書館…」
彼女は小さく呟いた。
「気をつけてください。道中には様々な危険が潜んでいます」
「あなたも知っているんですか?図書館のことを」
「噂程度には」
ローズは周囲を見回し、声を低めた。
「私たちもかつては、そこを探していました。物語を取り戻すために」
「あなたたちも…物語の住人なんですね」
「ええ」
彼女は少し悲しげに微笑んだ。
「私たちは『眠れる森の美女』の物語から来ました。でも、私たちの物語は書き換えられてしまったのです」
グレイは驚いた。
「どのように?」
「本来なら、王子様のキスで目覚め、幸せに暮らすはずだったんです」
ローズは静かに語った。
「でも、突然物語が変わりました。王子は現れず、私たちは百年の眠りから目覚めることができませんでした」
「では、どうやって…?」
「物語の外から来た旅人に助けられたのです」
彼女は言った。
「彼は私たちを目覚めさせ、物語の外へと導いてくれました。そして…」
彼女は言葉を切り、懐から小さな鍵を取り出した。
「この鍵を渡されました。図書館への鍵だと」
グレイは息を呑んだ。
「それは…」
「でも、私たちにはどこで使うのか分かりませんでした」
ローズは続けた。
「そこで、このホテルを開き、同じように物語から来た旅人たちを助けることにしたのです。いつか、正しい人が現れると信じて」
彼女はグレイをじっと見つめた。
「あなたが探しているのは単なる場所ではなく、真実ですね?」
グレイは頷いた。
「赤ずきんを探しています。そして、私たちの本当の物語を」
ローズは決意を固めたように、鍵をグレイに差し出した。
「これを持っていってください。きっとあなたなら、正しく使えるでしょう」
「いいんですか?」
グレイは躊躇した。
「私たちの希望も一緒に持っていってください」
ローズは微笑んだ。
「すべての物語が本来の姿を取り戻せますように」
グレイは感謝の意を示し、鍵を受け取った。
小さな金色の鍵。何を開けるものなのか、まだ分からない。
しかし、それが重要なものであることは間違いなかった。
朝食を終え、彼は宿の支払いを済ませようとした。
しかし、ローズは首を振った。
「お金は結構です。代わりに、これを」
彼女は旅行用のバッグを差し出した。
「中には食料と水、そして薬草が入っています。きっと役に立つでしょう」
グレイは改めて感謝し、バッグを肩にかけた。
「戻ってきたら、必ず報告します」
「お待ちしています」
ローズは微笑んだ。
「そして、この話を忘れないでください。あなた自身が物語になるのですから」
彼は頷き、宿を後にした。
朝の光が眩しく、マルヘン町は一層鮮やかに見えた。
地図によれば、東門から出発すべきだった。
彼は北区から東区へと向かい、町の中心を通り抜けていく。
中央広場は朝の市場で賑わっていた。
色とりどりの商品が並び、人々の声が響き渡る。
グレイはその中を進みながら、人々の会話に耳を傾けた。
「最近、また物語が変わったらしいよ」
「ええ、『ラプンツェル』の塔が突然消えたんですって」
「影の書き手の仕業だろうな」
「噂によれば、図書館では対抗策を練っているとか」
断片的な会話だったが、状況の深刻さを物語っていた。
グレイは歩みを速め、東門を目指した。
途中、彼は小さな市場で追加の食料を購入した。
乾燥果物、ナッツ、硬いチーズ。長持ちする食料を選んだ。
「遠出ですか?」
商人が尋ねた。
「ええ」
グレイは簡単に答えた。
「ガラスの山に向かうなら気をつけてください」
商人は忠告した。
「最近、山の魔法が不安定になっているそうです」
「ありがとう」
グレイは感謝し、情報を記録帳に書き留めた。
東門は中央広場から少し離れた場所にあった。
高い石造りの門は、朝日を受けて金色に輝いていた。
門の前には何人かの旅人が集まっており、警備の兵士たちが出入りを管理していた。
グレイは恐る恐る近づき、門を出ようとした。
「おい、待て」一人の兵士が彼を呼び止めた。
グレイは緊張して立ち止まった。
兵士は彼をじっと見つめ、やがて言った。
「旅の目的は?」
「図書館を探しています」
グレイは正直に答えた。
兵士の表情が変わった。彼は周囲を見回し、声を低めた。
「気をつけろ。道中には影の書き手の手下が潜んでいる。特にガラスの山は危険だ」
「なぜ教えてくれるんですか?」
グレイは驚いて尋ねた。
「私も物語の住人だったからさ」
兵士は微笑んだ。
「『勇敢な錫の兵隊』の物語だ。今は…ただの門番だがな」
彼はグレイの肩を軽く叩いた。
「幸運を祈る、旅人よ。物語が再び正しく語られますように」
グレイは感謝し、門をくぐった。
マルヘン町の外には広大な平原が広がっていた。
遠くにはガラスの山の輪郭が見え、朝日を受けて虹色に輝いていた。
「あれがガラスの山か…」
彼は深呼吸し、一歩を踏み出した。
物語を探す旅の、本当の始まりだった。
(つづく)