第7話「新たな名前」
「物語には多くのバージョンがある」
フリードリヒは説明した。
「最初の物語では、赤ずきんもおばあさんも狼に食べられてしまい、救われなかった」
「えっ?」
狼は驚いた。
「次のバージョンでは、猟師が現れて二人を救い、狼は死んだ」
フリードリヒは続けた。
「そして、さらに別のバージョンでは…」
彼はページをめくった。
「赤ずきんは二度と森に行かなくなった。おばあさんは町に引っ越し、狼は森に一人残された」
それは狼が経験したことに近かった。
「なぜ物語が変わるんですか?」
狼は尋ねた。
「物語は生きているからだ」
フリードリヒは静かに言った。
「語り手によって、時代によって、聞き手によって変化する。しかし…」
彼は一瞬言葉を切った。
「最近の変化は自然なものではない。誰かが意図的に物語を書き換えているんだ」
「誰かが?」
狼は身を乗り出した。
「誰が?なぜ?」
「それが問題だ」
フリードリヒは顔を曇らせた。
「我々もまだ分からない。だが、多くの物語が書き換えられている。主役が消え、結末が変わり、時には物語そのものが消滅することもある」
「赤ずきんも…書き換えられたんですか?」
「可能性は高い」
フリードリヒは頷いた。
「彼女が突然森に行かなくなったのは不自然だ。本来の物語なら、彼女は再び森を訪れるはずだった。二度と森に行かなくなるというのは、誰かの介入があったと考えるべきだろう」
狼は手の中の赤いリボンを強く握りしめた。
「彼女はどこにいるんですか?」
「確かなことは言えない」
フリードリヒは首を振った。
「しかし、リボンのメッセージと手紙の内容から、彼女も図書館を探していると考えられる」
「図書館…」
狼は繰り返した。
「そこには何があるんですか?」
「すべての物語の原本だ」
フリードリヒは真剣な表情で言った。
「物語が最初に書かれた形。そして、書き換えられる前の真実の結末」
「そこに行けば、赤ずきんに会えるんですか?」
「可能性はある」
フリードリヒは慎重に言った。
「しかし、図書館に行くのは簡単ではない。場所は秘密にされ、道も険しい」
「教えてください」
狼は懇願した。
「どうすれば図書館に行けるのか」
フリードリヒは深く息を吐き、再び奥の部屋に向かった。
今度は戻ってくるまで時間がかかった。
彼が持ち帰ったのは、古い羊皮紙に描かれた地図だった。
「これはグリム王国の隠された道を示している」
彼は地図を広げた。
「マルヘン町から東へ進み、ガラスの山を越え、眠りの谷を抜け、歌う海を渡る。その先に、図書館があるとされている」
狼は地図を見つめた。長く険しい道のりだった。
「一人では難しいだろう」
フリードリヒは続けた。
「道中には多くの危険がある。物語の混乱に巻き込まれた者たち、元の役割を失った者たち、そして…物語を書き換える者の手下たち」
「手下?」
「影の書き手と呼ばれる存在だ」
フリードリヒは声を潜めた。
「彼らは物語に入り込み、内側から書き換える。すでに多くの物語が彼らによって変えられてしまった」
狼は黙って考え込んだ。
危険は多いが、それでも行かなければならない。
赤ずきんを見つけるため。物語の真実を知るため。そして…自分自身の本当の役割を見つけるため。
「行きます」
彼は決意を込めて言った。
「どんなに危険でも」
フリードリヒは彼をじっと見つめ、やがて頷いた。
「予想通りだ」彼は微笑んだ。
「君は本当は悪い狼ではないんだね」
彼は地図を丁寧に畳み、狼に渡した。
「これを持って行きなさい。道は示されているが、注意が必要だ。地図は完全ではない」
「ありがとうございます」
狼は深く頭を下げた。
「もう一つ」
フリードリヒは棚から小さな本を取り出した。
「これは旅の記録帳だ。見たこと、聞いたこと、感じたことを書き留めなさい。それが君自身の物語になる」
狼は感謝の言葉もままならず、本を受け取った。
「マルヘン町には一晩泊まるといい」
フリードリヒはアドバイスした。
「北区の『眠れる森のホテル』なら安全だ。明朝、東門から出発するといい」
「眠れる森の…」
「ああ、あの物語から来た人たちが経営している」
フリードリヒは説明した。
「彼らも物語が書き換えられた被害者だ。きっと君を歓迎するだろう」
狼は再び礼を言い、立ち上がった。
「これから何が起こるか分かりませんが…」
「物語は続くよ」
フリードリヒは穏やかに言った。
「そして、君はもう悪役ではない。自分の物語を作る主役だ」
その言葉に、狼の胸は温かくなった。
主役。自分の物語の。
「行ってくる」
彼は決意を新たにした。
「赤ずきんを見つけて、物語を取り戻す」
フリードリヒは頷き、彼を店の扉まで見送った。
「幸運を祈る、旅人よ」
狼は夜のマルヘン町に踏み出した。
街灯が灯り、星空が広がる美しい夜。
明日から始まる本当の旅に向けて、彼は深呼吸をした。
ポケットの中で、赤いリボンが彼の決意を見守っているようだった。
「待っていてくれ、赤ずきん」
彼は心の中でつぶやいた。
「僕は必ず見つけ出す。本当の物語を」
彼は北区の通りを進み、フリードリヒの教えてくれた宿を探した。
明日は長い旅の始まり。
休息が必要だった。
眠れる森のホテルは、通りの角に建つ美しい建物だった。
薔薇のつるが壁を這い、柔らかな光が窓から漏れていた。
狼は扉を押し、中に入った。
フロントには若い女性が立っていた。
彼女は狼を見ると、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませ、旅人さん」
狼は恐る恐る近づいた。
「一泊、お願いできますか?」
「もちろんです」
女性は頷いた。
「お名前は?」
「名前…」
狼は考え込んだ。彼には名前がなかった。物語の中では単に「狼」だった。
「グレイ」
彼は突然思いついた。
「グレイです」
「グレイさん、ようこそ」
女性は微笑んだ。
「私はローズと申します。眠れる森のホテルへようこそ」
彼女は鍵を渡した。
「ご滞在が心地よいものでありますように」
狼—いや、グレイは微笑んで鍵を受け取った。
彼は自分の名前を手に入れた。
これが、彼の新しい物語の始まりだった。
部屋に入り、窓から町の夜景を眺める。
星空の下、無数の光が瞬いていた。
彼はフリードリヒからもらった記録帳を開き、ペンを手に取った。
そして、最初のページに書き始めた。
「私の名前はグレイ。
かつて森に住む狼だった。
今は自分の物語を探す旅人。
明日、私は図書館への旅に出る。
そこで赤ずきんを見つけ、真実を知るために」
彼は深く息を吐き、ペンを置いた。
明日から始まる旅は長く危険なものになるだろう。
だが、彼はもう後戻りはできない。
彼は赤いリボンを枕元に置き、灯りを消した。
闇の中、リボンの刺繍が微かに光っているように見えた。
「図書館へ」
その言葉が、彼の夢への入り口となった。
(つづく)




