表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れられた童話たちは、まだ終わっていない  作者: 水月 りか
第一章:赤ずきんのいない森
7/35

第7話「新たな名前」

「物語には多くのバージョンがある」

 フリードリヒは説明した。


「最初の物語では、赤ずきんもおばあさんも狼に食べられてしまい、救われなかった」


「えっ?」

 狼は驚いた。


「次のバージョンでは、猟師が現れて二人を救い、狼は死んだ」


 フリードリヒは続けた。


「そして、さらに別のバージョンでは…」


 彼はページをめくった。


「赤ずきんは二度と森に行かなくなった。おばあさんは町に引っ越し、狼は森に一人残された」


 それは狼が経験したことに近かった。


「なぜ物語が変わるんですか?」


 狼は尋ねた。


「物語は生きているからだ」


 フリードリヒは静かに言った。


「語り手によって、時代によって、聞き手によって変化する。しかし…」


 彼は一瞬言葉を切った。


「最近の変化は自然なものではない。誰かが意図的に物語を書き換えているんだ」


「誰かが?」

 狼は身を乗り出した。

「誰が?なぜ?」


「それが問題だ」

 フリードリヒは顔を曇らせた。


「我々もまだ分からない。だが、多くの物語が書き換えられている。主役が消え、結末が変わり、時には物語そのものが消滅することもある」


「赤ずきんも…書き換えられたんですか?」


「可能性は高い」


 フリードリヒは頷いた。


「彼女が突然森に行かなくなったのは不自然だ。本来の物語なら、彼女は再び森を訪れるはずだった。二度と森に行かなくなるというのは、誰かの介入があったと考えるべきだろう」


 狼は手の中の赤いリボンを強く握りしめた。


「彼女はどこにいるんですか?」


「確かなことは言えない」


 フリードリヒは首を振った。


「しかし、リボンのメッセージと手紙の内容から、彼女も図書館を探していると考えられる」


「図書館…」


 狼は繰り返した。


「そこには何があるんですか?」


「すべての物語の原本だ」


 フリードリヒは真剣な表情で言った。


「物語が最初に書かれた形。そして、書き換えられる前の真実の結末」


「そこに行けば、赤ずきんに会えるんですか?」


「可能性はある」


 フリードリヒは慎重に言った。


「しかし、図書館に行くのは簡単ではない。場所は秘密にされ、道も険しい」


「教えてください」


 狼は懇願した。


「どうすれば図書館に行けるのか」


 フリードリヒは深く息を吐き、再び奥の部屋に向かった。

 今度は戻ってくるまで時間がかかった。


 彼が持ち帰ったのは、古い羊皮紙に描かれた地図だった。


「これはグリム王国の隠された道を示している」


 彼は地図を広げた。


「マルヘン町から東へ進み、ガラスの山を越え、眠りの谷を抜け、歌う海を渡る。その先に、図書館があるとされている」


 狼は地図を見つめた。長く険しい道のりだった。


「一人では難しいだろう」


 フリードリヒは続けた。


「道中には多くの危険がある。物語の混乱に巻き込まれた者たち、元の役割を失った者たち、そして…物語を書き換える者の手下たち」


「手下?」


「影の書き手と呼ばれる存在だ」


 フリードリヒは声を潜めた。


「彼らは物語に入り込み、内側から書き換える。すでに多くの物語が彼らによって変えられてしまった」


 狼は黙って考え込んだ。

 危険は多いが、それでも行かなければならない。

 赤ずきんを見つけるため。物語の真実を知るため。そして…自分自身の本当の役割を見つけるため。


「行きます」


 彼は決意を込めて言った。


「どんなに危険でも」


 フリードリヒは彼をじっと見つめ、やがて頷いた。

「予想通りだ」彼は微笑んだ。


「君は本当は悪い狼ではないんだね」


 彼は地図を丁寧に畳み、狼に渡した。


「これを持って行きなさい。道は示されているが、注意が必要だ。地図は完全ではない」


「ありがとうございます」


 狼は深く頭を下げた。


「もう一つ」


 フリードリヒは棚から小さな本を取り出した。


「これは旅の記録帳だ。見たこと、聞いたこと、感じたことを書き留めなさい。それが君自身の物語になる」


 狼は感謝の言葉もままならず、本を受け取った。


「マルヘン町には一晩泊まるといい」


 フリードリヒはアドバイスした。


「北区の『眠れる森のホテル』なら安全だ。明朝、東門から出発するといい」


「眠れる森の…」


「ああ、あの物語から来た人たちが経営している」


 フリードリヒは説明した。


「彼らも物語が書き換えられた被害者だ。きっと君を歓迎するだろう」


 狼は再び礼を言い、立ち上がった。


「これから何が起こるか分かりませんが…」


「物語は続くよ」


 フリードリヒは穏やかに言った。


「そして、君はもう悪役ではない。自分の物語を作る主役だ」


 その言葉に、狼の胸は温かくなった。

 主役。自分の物語の。


「行ってくる」


 彼は決意を新たにした。


「赤ずきんを見つけて、物語を取り戻す」


 フリードリヒは頷き、彼を店の扉まで見送った。


「幸運を祈る、旅人よ」


 狼は夜のマルヘン町に踏み出した。

 街灯が灯り、星空が広がる美しい夜。

 明日から始まる本当の旅に向けて、彼は深呼吸をした。


 ポケットの中で、赤いリボンが彼の決意を見守っているようだった。


「待っていてくれ、赤ずきん」


 彼は心の中でつぶやいた。


「僕は必ず見つけ出す。本当の物語を」


 彼は北区の通りを進み、フリードリヒの教えてくれた宿を探した。

 明日は長い旅の始まり。

 休息が必要だった。


 眠れる森のホテルは、通りの角に建つ美しい建物だった。

 薔薇のつるが壁を這い、柔らかな光が窓から漏れていた。


 狼は扉を押し、中に入った。

 フロントには若い女性が立っていた。

 彼女は狼を見ると、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。


「いらっしゃいませ、旅人さん」


 狼は恐る恐る近づいた。


「一泊、お願いできますか?」


「もちろんです」


 女性は頷いた。


「お名前は?」


「名前…」


 狼は考え込んだ。彼には名前がなかった。物語の中では単に「狼」だった。


「グレイ」


 彼は突然思いついた。


「グレイです」


「グレイさん、ようこそ」


 女性は微笑んだ。


「私はローズと申します。眠れる森のホテルへようこそ」


 彼女は鍵を渡した。


「ご滞在が心地よいものでありますように」


 狼—いや、グレイは微笑んで鍵を受け取った。

 彼は自分の名前を手に入れた。

 これが、彼の新しい物語の始まりだった。


 部屋に入り、窓から町の夜景を眺める。

 星空の下、無数の光が瞬いていた。


 彼はフリードリヒからもらった記録帳を開き、ペンを手に取った。

 そして、最初のページに書き始めた。


「私の名前はグレイ。

 かつて森に住む狼だった。

 今は自分の物語を探す旅人。

 明日、私は図書館への旅に出る。

 そこで赤ずきんを見つけ、真実を知るために」


 彼は深く息を吐き、ペンを置いた。

 明日から始まる旅は長く危険なものになるだろう。

 だが、彼はもう後戻りはできない。


 彼は赤いリボンを枕元に置き、灯りを消した。

 闇の中、リボンの刺繍が微かに光っているように見えた。


「図書館へ」


 その言葉が、彼の夢への入り口となった。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ