第4話「迷いの森への旅立ち」
進むべき道は時に見えづらく
立ち止まるほど、迷いは深まる。
それでも一歩を踏み出す勇気こそが
新たな物語の扉を開く鍵となる。
その決断の瞬間を
わたしは記録する。
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鉱山を出てから半日が過ぎた。私は小人たちから贈られた光る鉱石を頼りに北へと進んでいた。森はだんだんと様子が変わり始めていた。木々は高くうっそうと茂り、日光はほとんど地面まで届かなくなっていた。
「これが迷いの森の入り口なのかしら」
私は立ち止まり、小人たちが描いてくれた簡素な地図を取り出した。確かにこの辺りから森の様子が変わると書かれている。鉱石の光も弱まりつつあった。
深呼吸をして、一歩を踏み出す。森の中に足を踏み入れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。まるで森そのものが私の存在に気づいたかのような感覚。
「大丈夫、怖がらないで」
自分に言い聞かせながら歩を進める。小人たちは「迷いの森では決して後ろを振り返るな」と言っていた。前だけを見て進むこと。
森の中は不思議なほど静かだった。鳥のさえずりも、風の音も、小動物の気配もない。ただ私の足音だけが響く。
「ここには本当に出口があるのかしら……」
「なんだか怖いわ……」
不安がよぎる。もし道に迷ってしまったら?もし永遠にこの森をさまよい続けることになったら?
リュックから水筒を取り出し、一口飲んだ。水は冷たく、喉の渇きを潤してくれた。小人たちの顔を思い出す。彼らの信頼に応えなければ。
歩き始めてから数時間が経ったころ、鉱石の光が突然強くなった。驚いて手のひらを開くと、鉱石は明るく輝き、ある方向を指し示している。
「こっちへ行けってことかしら?」
鉱石が示す方向に進むと、森の中に小さな道が見えてきた。踏み固められた跡があり、誰かが通った形跡がある。
道に沿って進むと、やがて小さな空き地に出た。中央には大きな石があり、その上に何かが置かれていた。近づいてみると、それは小さなランタンだった。
「これは……」
ランタンの中のろうそくはすでに消えていたが、まだ温かさが残っている。つい最近、誰かがここを通ったのだ。
不思議に思いながらも、ランタンを手に取った。すると底に小さな文字が刻まれているのに気づいた。
「赤ずきんの物語より」
私は息を呑んだ。これは他のリボンの持ち主、グレイからのものかもしれない。小人たちによれば、彼は赤ずきんの物語の登場人物だ。
ランタンを持ち、再び道を進む。今度は少し希望が湧いてきた。私は一人ではない。他のリボンの持ち主たちも同じ目的地を目指している。
暗くなり始めた森の中、突然、遠くに光が見えた。小さな明かりが点滅し、まるで私を呼んでいるかのようだ。
「あれは……何?」
ランタンを高く掲げ、慎重に近づく。光はちらつき、時に消え、また現れる。近づくにつれ、それが小さな妖精のような生き物だと分かった。
青い光を放つ小さな存在は、私が近づくと逃げるように少し離れ、そしてまた待っている。まるで「ついてきて」と言っているかのようだ。
「どこへ連れて行くの?」
迷いの森で見知らぬ生き物についていくのは危険かもしれない。でも、小人たちは「光る生き物は味方になることもある」と教えてくれていた。
決心して、私は青い光に従うことにした。小さな存在は森の中を、時に木々の間を縫うように進んでいく。私は必死についていった。
やがて、前方に小さな小屋が見えてきた。壁はつたに覆われ、屋根は少し傾いていたが、窓からは温かな光が漏れていた。
青い光は小屋の前で止まり、そして窓の中へと消えていった。
私は警戒しながらも、小屋の扉の前に立った。ノックすべきか迷っていると、中から声が聞こえてきた。
「入りなさい。扉は開いているわ」
女性の声だった。やさしく、しかし力強い声。恐る恐る扉を開けると、中は予想以上に広く、暖炉の火が部屋を温かく照らしていた。
暖炉の前の椅子に、年老いた女性が座っていた。長い白髪を背中に流し、シンプルな青い服を着ている。彼女の肩には、先ほどの青い光を放つ小さな存在が止まっていた。
「よく来たね、白雪姫」
女性は微笑んだ。
「待っていたよ」
「あなたは……誰?」
私は尋ねた。
「どうして私の名前を?」
「私は森の守り手の一人」
女性は言った。
「青い妖精が教えてくれたのさ。あなたが鉱山を出て、この森に入ってきたことをね」
「森の守り手?」
「そう」
女性はうなずいた。
「影の書き手たちが物語を書き換えようとするのを阻止しようとしている者たちさ」
私は安堵のため息をついた。敵ではなさそうだ。
「座りなさい」
女性は向かいの椅子を指した。
「長い旅だったでしょう」
私はお言葉に甘え、椅子に腰掛けた。すぐに女性は温かいスープの入った碗を差し出してくれた。
「飲みなさい。体が温まるよ」
スープを一口飲むと、不思議なほどに力が湧いてきた。疲れが溶けていくようだ。
「あなたに会えて嬉しいよ」
女性は言った。
「他のリボンの持ち主たちも、この森を通ったんだ」
「本当ですか?」
私は目を輝かせた。
「いつ頃?」
「多分三日前だったと思う」
女性は答えた。
「灰色の服を着た少年と、長い髪の女性とその他の物語の住人たちさ……みんな影の書き手の被害者だよ」
「グレイとラプンツェル」
私は呟いた。
「あともう一人、エラという名前の女性もいるはずです」
「まだ見ていないね」
女性は首を振った。
「でも、彼女もこの森を通ることになるだろう」
「みんな、図書館を目指しているんですよね?」
「そうだよ」
女性はうなずいた。
「物語を取り戻すために」
私はポケットから赤いリボンを取り出した。
「このリボンのことを知っていますか?」
女性は静かに微笑んだ。
「もちろん。それは物語の力が宿ったもの。五つ揃えば、図書館への扉が開く」
「五つ目のリボンの持ち主は誰なのでしょう?」
私は尋ねた。
女性の表情が少し曇った。
「それは...…まだはっきりとは分かっていないのよ」
「でも手がかりは?」
「伝説によれば、最後のリボンは長い眠りについた者が持っているとされている」
女性は静かに言った。
「それ以上の詳細は旅をしていくうちに自ずと分かるものさ」
私は自分の夢の中で見た鏡と継母のことを思い出した。
「私の継母...…鏡の女王は、この旅に関わっているのでしょうか?」
「鏡の女王?」
女性は少し驚いた様子で尋ねた。
「彼女を信じるつもりかい?」
「わかりません」
私は正直に答えた。
「彼女は私を殺そうとした人。でも、小人たちによると、彼女は私の棺を訪れ、何度も謝罪していたそうです」
「人は変わることもある」
女性は静かに言った。
「百年という時は、誰の心も変えうるものさ」
「本当に彼女を信じていいのでしょうか」
「それはあなた自身が決めることだね」
女性は言った。
「ただ、五つのリボンが必要なのは事実。そして、全ての持ち主を見つけなければ、図書館には入れない」
私は考え込んだ。継母の役割は何なのだろう?彼女も物語の中で重要な位置を占めているはずだ。
「迷いの森を抜けるには、どうすればいいですか?」話題を変えて尋ねた。
「簡単なことじゃない」
女性は答えた。
「この森は物語と物語の境目にある。あなたの内なる迷いが、外の迷いを生み出す」
「内なる迷い?」
「そう」
女性はうなずいた。
「あなたは自分の物語について迷っている。本当に取り戻したいのか、それとも新しい物語を作りたいのか」
私はハッとした。確かに、心の中には迷いがあった。王子様に目覚めさせてもらうという本来の結末を取り戻したいという思いと、百年も経った今、自分の力で新しい道を切り開きたいという思い。
「両方……かもしれません」
私は小さな声で言った。
「それでいい」
女性は優しく言った。
「物語は一つではない。あなたが自分で選んだ道こそが、真の物語になる」
「でも、他の人たちの物語も救いたい」
「だからこそ、図書館へ行くのだね」
女性は微笑んだ。
「さあ、明日は長い一日になる。今夜はここで休みなさい」
女性は小さな寝室を用意してくれた。清潔なベッドと温かな毛布。久しぶりに安心して眠れそうだった。
「ありがとうございます」
私は感謝の言葉を述べた。
「一つ、忠告を」
女性は真剣な表情になった。
「明日、この小屋を出たら、どんな声が聞こえても振り返ってはいけない。どんな懐かしい声であってもね」
「小人たちも同じことを言っていました」
「それは真実だから」
女性は厳しく言った。
「この森は過去の幻影で迷わせようとする。あなたが最も聞きたい声で呼びかけてくる」
私は震えを抑えられなかった。
「でも大丈夫」
女性は再び優しい笑顔を見せた。
「あなたは強い。そして、これを持っていきなさい」
女性は小さな青い花びらを渡してくれた。
「迷いそうになったら、これを握りなさい。道を示してくれるよ」
「ありがとうございます」
私は花びらを大切にポケットにしまった。
その夜、小さな寝室で横になりながら、私は明日の旅に思いを巡らせた。迷いの森の向こうに何があるのだろう?他のリボンの持ち主たちに会えるのだろうか?
そして、最も心に引っかかる問い—継母は本当に変わったのだろうか?
眠りに落ちる前、窓から見える森を見つめながら、私は決意を新たにした。
「必ず物語を取り戻す。そして、私の物語と、みんなを救うんだ」
朝、目が覚めると、女性はすでに朝食を用意してくれていた。テーブルには温かいパンとジャム、新鮮な果物が並んでいた。
「たくさん食べて」
女性は言った。
「今日は森の中心部を通ることになる。最も危険な場所だよ」
私は頷き、朝食をいただいた。青い妖精も私の周りを飛び回り、時々肩に止まっては光を放った。
「彼は?」
私は妖精を指さして尋ねた。
「ブルーと呼んでいるよ」
女性は微笑んだ。
「彼も森の守り手の一人。彼があなたを見つけてくれて良かった」
朝食を終え、準備が整うと、私は旅立つ時を迎えた。
「ここからどう進めばいいですか?」
「朝日が上る方向へまっすぐ進みなさい」
女性は言った。
「途中で道が分かれても、必ず右手を選ぶこと。川に出会ったら、その流れに従って下っていくのだよ」
私は指示を頭に刻み込んだ。
「そして忘れないで」
女性は改めて言った。
「決して振り返らないこと」
「わかりました」
私は頷いた。
「本当にありがとうございました」
女性は私を抱きしめてくれた。
「あなたの旅の無事を祈る。そして、あなたが真の結末を見つけることを」
小屋を出る時、ブルーという青い妖精も私についてくるかのように飛んできた。
「彼も一緒に来てくれるのですか?」
「彼はあなたを森の端まで案内するだろう」
女性は言った。
「それ以降は、あなた自身の力で進まなければならない」
深呼吸をして、私は小屋を後にした。朝日の方向へ一歩一歩進んでいく。ブルーは私の前方を飛び、時々待ってくれる。
森の中心部へと進むにつれ、景色はさらに不思議なものになっていった。木々は不自然なほど曲がり、時に人の顔のような形を見せる。地面からは蒸気のようなものが立ち上り、霧が足元を這っていた。
「怖くないわ」
私は自分に言い聞かせた。
「前だけを見て」
しばらく歩いた後、確かに道が二つに分かれた。女性の言葉通り、右手の道を選んだ。
道はだんだんと狭くなり、木々はより密集していった。日光はほとんど届かなくなり、ブルーの青い光だけが道を照らす。
「大丈夫、私は一人じゃない」
リュックから小人たちの贈り物である七つの宝石の入った箱を取り出した。箱を開けると、七色の宝石が光を放った。それぞれが小人たちの個性を表しているようだった。赤い宝石はオコリ、オレンジはヨロコビ、黄色はハズカシー、緑はクシャミ、青はモノイワヌ、藍色はネムリ、そして紫はドク。
「みんなの力をかりるわ」
宝石を一つ握りしめると、不思議と勇気が湧いてきた。
その時、背後から声が聞こえた。
「白雪姫……」
振り返りそうになる衝動を必死に抑える。
「白雪姫、どうして行ってしまうの?」
それは父の声だった。温かく、優しい、幼い頃によく聞いた声。
「私たちはここにいるよ」
今度は母の声。私が幼い頃に亡くなった、ほとんど記憶にない母の声。
「お願い、振り返って……」
両親の声は切なく、懐かしさで胸が締め付けられる。でも、これは森の幻。振り返ってはいけない。
「前だけを見て」
私は震える声で自分に言い聞かせた。
さらに進むと、今度は小人たちの声が聞こえた。
「姫様、戻ってきてください」
「私たちと一緒に住みましょう」
「危険な旅はやめて」
涙が頬を伝った。小人たちの声はあまりにも本物のように聞こえる。でも、本当の小人たちは私の旅を応援してくれていた。これも幻だ。
「前だけを見て」
ブルーの光に従い、必死で前進した。女性から貰った青い花びらを握りしめる。すると、不思議と心が落ち着いてきた。
やがて、森の中に水の音が聞こえてきた。川だ。
女性の言葉通り、川の流れに沿って下っていく。水は清らかで、時に光を反射して虹のように輝いた。
川沿いを歩いていると、突然、背後から激しい風が吹き始めた。木々が揺れ、葉が舞い上がる。
「戻れ……」
風が囁くような声を出した。
「お前の居場所はここではない……」
風は強くなり、私を押し戻そうとするかのようだ。
「前だけを見て!」
今度は声に出して自分に言い聞かせた。
必死に前進する。風に向かって一歩一歩踏み出す。リボンが胸ポケットで温かくなり、まるで私を励ますかのようだった。
風が最も強くなったとき、ブルーは急に明るく輝き、風に向かって飛んでいった。彼の光は風の中心に吸い込まれ、突然、風は止んだ。
「ブルー!」
青い妖精の姿が見えなくなった。彼は風と一緒に消えてしまったようだ。悲しみに襲われたが、彼の犠牲を無駄にしてはならない。
「ありがとう、ブルー」
勇気を振り絞り、再び歩き出した。川は次第に広くなり、流れも穏やかになってきた。やがて前方に明るい光が見えてきた。
「あれは……森の出口?」
希望が湧いてきた。足を早め、光に向かって走り出す。木々の間から漏れる光はどんどん強くなり、そして——
突然、森が開けた。
目の前には広大な草原が広がっていた。青い空、輝く太陽、そよ風に揺れる草。
「出られた……」
安堵のため息と共に、私は草原に足を踏み入れた。振り返ると、迷いの森は暗く、不気味に見える。でも、もうそこに戻る必要はない。
草原の向こう、丘の上に何かが見えた。近づいてみると、それは石で作られた標識だった。
「物語の交差点まであと半日の道のり」と刻まれている。
「あそこで他のリボンの持ち主と会えるのね」
新たな希望を胸に、私は丘を越え、物語の交差点へと向かって歩き始めた。
迷いの森を抜け、一つの試練を乗り越えた私だが、旅はまだ始まったばかり。他のリボンの持ち主たちと会い、図書館へと向かう冒険が、これから本格的に始まろうとしていた。
(つづく)