第3話「おばあさんの空き家」
記憶は風化し、物語は色褪せる。
だが、物語の登場人物たちにとって、それは現実の変容を意味する。
誰かが本を閉じたとき、彼らの世界には何が起こるのか?
わたしは見届ける。終わりのない物語の証人として。
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朝の光が窓から差し込み、おばあさんの家の中を温かく照らした。
一晩中降り続けた雪は止み、森は一面の銀世界になっていた。
狼は暖炉の前で丸くなって眠っていたが、光に目を覚まし、ゆっくりと身を起こした。
白い狼の姿はもうなかった。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほどに。
しかし、彼の手には確かにリボンと手紙の束がある。それが現実の証だった。
「東へ向かえ、か…」
狼は立ち上がり、部屋を見回した。昨夜は気づかなかったが、この家には生活の痕跡が思ったより多く残されていた。
食器棚には埃をかぶった皿や茶碗が並び、壁には色あせた写真が掛けられている。
狼は写真に近づいた。それは若い女性とおばあさん、そして小さな女の子の三人が写ったものだった。女の子は赤い頭巾を被っている。
「赤ずきんとその家族か…」
写真は幸せな瞬間を捉えていた。女の子は無邪気に笑い、若い女性は優しく微笑み、おばあさんは誇らしげに二人を見守っている。
森から遠く離れた、別の場所で撮られたものだろう。背景には町らしき建物が見える。
狼は写真をじっと見つめた。彼が知っていた赤ずきんは、物語の中の役割でしかなかった。だが、この写真は彼女が物語の外でも存在することを示していた。
その事実が、狼の心に奇妙な感覚をもたらした。
彼もまた、単なる「悪い狼」という役割を超えた存在になれるのかもしれない。
狼は写真を手に取り、裏返した。
そこには日付と場所が記されていた。
「1875年6月、マルヘン町にて」
「マルヘン町…」
狼は繰り返した。どこかで聞いたことのある名前だった。
彼はおもむろに写真をポケットにしまい、家の中を再び見回した。
何か旅に役立つものはないか、探してみることにした。
食料はほとんど残っていなかったが、棚の奥から乾パンを見つけた。
古いショールも見つかり、それを肩にかけることにした。夜は寒くなるだろう。
そして、書き物机の引き出しから、古い地図を発見した。
広げてみると、それは彼の知らない土地の地図だった。
「グリム王国全図」と書かれている。
森はその地図の左端に小さく描かれているだけで、その東側には広大な国土が広がっていた。
マルヘン町、ガラスの山、眠りの谷、歌う海…見たこともない場所の名前が並ぶ。
「これが俺の外の世界か…」
狼は地図を畳み、持ち物に加えた。
急に胸がざわついた。彼はこれまで森の外に出たことがなかった。
物語の境界線を越えるとは、どういうことなのか。
最後にもう一度、彼は家の中を見渡した。
おばあさんが住んでいた家。赤ずきんが訪れていた家。
彼が物語の中で「悪者」を演じた場所。
その全てに別れを告げるように、狼は深く息を吸い込んだ。
「行くぞ」
彼は扉を開け、外に踏み出した。
足元には一面の雪。その上に、自分の足跡だけが残っていく。
白い狼の言葉通り、彼は東へと向かい始めた。
森の中を、雪を踏みしめながら進む。
木々の間から朝日が差し込み、雪の結晶が光に踊った。
しばらく歩いたとき、彼は足を止めた。
目の前の木の枝に、見覚えのある姿があった。
「行くのか、狼よ」
フクロウが彼を見下ろしていた。
「ああ」
狼は短く答えた。
「物語の外に出る」
「物語の外…」
フクロウは首を傾げた。
「そんな場所があるとでも?」
「おまえこそ、昨日は物語が変わると言っただろう」
狼は反論した。
「物語が変わるのと、物語の外に出るのは別のことだ」
フクロウは静かに言った。
「物語は常に続いている。ただ、その主役が変わるだけだ」
狼は考え込んだ。
「じゃあ、俺は今、自分の物語の主役になろうとしているのか?」
フクロウは小さく笑ったように見えた。
「それは、お前自身が見つけることだ」
「なぁ」
狼は真剣な表情でフクロウを見上げた。
「おまえは森の外のことを知っているのか?マルヘン町とか、グリム王国とか」
「私は見聞きするだけの者」
フクロウは言った。
「だが、古い噂なら知っている。グリム王国は多くの物語が交わる場所。そして…」
「そして?」
「そして、おまえの探す『図書館』は、その中心にあると言われている」
狼の目が輝いた。
「図書館が本当にあるのか」
「あるとも」
フクロウは頷いた。
「すべての物語が集まる場所。忘れられた物語も、書かれなかった物語も、すべてがそこにある」
「赤ずきんもそこにいるのか?」
狼は思わず尋ねた。
フクロウは羽ばたき、少し位置を変えた。
「それは分からない。だが、彼女の物語の続きはそこにあるはずだ」
狼は頷き、再び歩き出そうとした。
そのとき、フクロウが声をかけた。
「もう一つ、忠告がある」
狼は足を止め、振り返った。
「物語の境界を越えると、お前自身も変わる」
フクロウは不思議な光を瞳に宿して言った。
「準備はいいか?」
「変わるとは、どういう意味だ?」
「それもまた、お前自身が見つけることだ」
フクロウはそう言うと、大きく羽ばたいて森の奥へと飛び去っていった。
狼は一人残され、フクロウの言葉を反芻した。
変わる…自分自身が?
彼は意識的に自分の体を見つめた。
灰色の毛皮、鋭い爪、長い鼻。
物語の中では、それが「狼」の姿だった。
だが、物語の外では?
彼は首を振り、考えを振り払った。
それはまだ先のこと。今は、森を出ることが先決だった。
狼は再び東へと歩き始めた。
雪の上を、一歩一歩、確かめるように。
森の木々が少しずつ疎らになってきた。
そして、やがて彼は小さな丘の上に立っていた。
目の前に広がる景色に、彼は息を呑んだ。
森の向こうには、広大な平原が広がっていた。
雪に覆われた大地は、朝日を受けて金色に輝いている。
そして遠く、地平線の彼方には、小さな町の影が見えた。
「あれがマルヘン町か…」
狼は震える息を吐いた。
ここまで来れば、もう後戻りはできない。
彼は森を振り返った。
長年住んできた森。物語の舞台だった森。
もうそこに赤ずきんは現れない。
おばあさんも戻ってこない。
物語は変わってしまったのだ。
「俺もまた、変わらなければならないんだな」
狼は低くつぶやき、再び前を向いた。
そして、深呼吸をして、丘を下り始めた。
森を出る。境界を越える。
物語の外へ、物語の続きを求めて。
歩き続けるうち、彼は小川に出くわした。
細い流れだったが、水は凍っていなかった。
狼は身を屈め、水を飲んだ。
冷たく澄んだ水が喉を潤す。
ふと水面に映った自分の姿を見て、彼は立ち尽くした。
そこに映っていたのは、彼が知っている狼の姿ではなかった。
毛は薄くなり、姿はより人間に近くなっていた。
まだ完全な人間ではないが、どこか違う生き物になりつつあった。
「フクロウの言った通りだ…」
彼は自分の手を見た。
爪は短くなり、指はより長く、器用になっていた。
「物語の外では、俺はただの狼ではないんだな」
彼は微笑み、水面に映る新たな自分を受け入れた。
そして立ち上がり、先へと進んだ。
道は徐々に明確になり、足跡も増えてきた。
他の旅人が通った跡だろう。
雪の上には馬車の轍も残されていた。
やがて夕暮れになり、狼は一日の旅を終えることにした。
大きな樫の木の下に小さな野営地を作り、火を起こした。
おばあさんの家から持ってきた乾パンを少し齧りながら、彼は今日見てきた景色を思い返した。
森の外の世界は、想像以上に広大だった。
ポケットから赤いリボンを取り出し、月明かりに透かして見る。
「図書館へ」の文字が、かすかに光った。
「待っていてくれ、赤ずきん」
狼はリボンに語りかけた。
「俺は必ず見つけ出す。あの物語の、本当の結末を」
彼は地図を広げ、自分の位置を確認した。
森の端から、マルヘン町までは少なくとも三日の道のりだろう。
そこから先は?
図書館はどこにあるのか?
赤ずきんは今どこにいるのか?
多くの疑問が頭の中を巡ったが、彼は疲れた目を閉じた。
明日へ向けて、体力を温存しなければならない。
火の温もりに身を任せ、狼は眠りに落ちた。
夢の中で、彼はまた森にいた。
だが今度は、赤ずきんが彼の前に立っていた。
「なぜ追いかけてくるの?」
少女は尋ねた。
「お前の物語を知りたいからだ」
狼は答えた。
少女は微笑んだ。
「じゃあ、見つけなきゃね」
「どこにいるんだ?」
狼は尋ねた。
「物語の続きの中…」
少女の声は風に溶け、夢は霧のように消えていった。
翌朝、狼は早く目を覚ました。
朝日がまだ昇りきらない空の下、彼は再び歩き始めた。
マルヘン町へ。そして、その先にある図書館へ。
物語の続きを求めて。
本当の結末を知るために。
(つづく)




