第2話「舞踏会の裏側」
物語の表舞台には光が当たり、
裏側には影が落ちる。
しかし、時に影の中で育まれるものこそが、
真実の芽生えとなる。
わたしはその瞬間を記録する。
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朝の光が宮殿の窓から差し込み、エラの目を覚ました。
彼女は慌てて起き上がり、時間を確認した。
「遅刻してしまう!」
急いで制服に着替え、髪をひとつに束ねる。
昨夜のことを思い出し、彼女は動きを止めた。
王子との会話。そして、老婆からもらった赤いリボン。
「夢だったのかしら」
彼女はベッドの下から小さな木箱を取り出し、リボンを大切に中にしまった。
夢ではなかった。確かに昨夜、あの出来事は起きたのだ。
廊下を急いで厨房へ向かうエラの耳に、宮殿中から聞こえる慌ただしい声が届いた。
「今夜が最後の舞踏会よ!」
「王子様は今夜こそ花嫁を選ばなければならないわ!」
「準備を急ぎなさい!」
厨房に着くと、いつも以上の混乱が広がっていた。
料理長は赤い顔で指示を飛ばし、料理人たちは汗を流しながら働いていた。
「エラ!そこに立っていないで、すぐに野菜を洗いなさい!」
料理長が叫んだ。
「はい!」
エラは急いで仕事に取りかかった。
朝食の準備、昼食の用意、そして夜の舞踏会のための特別料理。
彼女は休む間もなく働き続けた。
しかし、手を動かしながらも、彼女の心は昨夜の出来事に引き戻されていた。
「エラ、これを宮殿の西翼に届けてくれないか?」
昼過ぎ、料理長は彼女に小さなバスケットを手渡した。
「王子様の付き人たちのための軽食だ」
エラは頷き、バスケットを受け取った。
西翼は王族の部屋がある場所。普段、下働きはめったに足を踏み入れない。
長い廊下を歩きながら、彼女は豪華な装飾を見つめた。
水晶の燭台、絹のカーテン、金の装飾が施された家具。
彼女の世界とは思えないほどの贅沢さだった。
指定された部屋に着くと、彼女はドアをノックした。
「お入りください」
中から声がした。
部屋に入ると、数人の男性が忙しそうに動き回っていた。
王子の私室の前室のようだった。
「ああ、食事か」
一人の年配の男性が言った。
「そこに置いていきなさい」
エラはバスケットをテーブルに置き、部屋を出ようとした。
その時、隣室のドアが開き、オスカー王子が現れた。
「次の衣装の準備は……」
王子は言いかけ、エラと目が合った。
「エラ?」
彼女は驚き、慌てて一礼した。
「失礼します、王子様。食事を届けに参りました」
オスカーは微笑んだ。
「今日も働いているんだね」
「はい」
エラは視線を床に落とした。
王子の付き人たちは不思議そうに二人を見ていた。
「王子様、お知り合いですか?」
一人が尋ねた。
「ああ」
オスカーは答えた。
「昨夜、少し話をしたんだ」
付き人たちは驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
「今夜の舞踏会も手伝うのかい?」
オスカーが尋ねた。
「はい」
エラは小さく頷いた。
「では、また会えるね」
王子は優しく微笑んだ。
「昨夜の続きを話そう」
エラは顔が熱くなるのを感じた。
「失礼します」と彼女は急いで部屋を出た。
廊下で深呼吸をする彼女の心は乱れていた。
王子は本当に彼女のような下働きと話そうとしていた。
それも、他の人がいる前で堂々と。
厨房に戻ると、同僚たちが好奇の目で彼女を見ていた。
「エラ、本当に王子様と知り合いなの?」
一人が尋ねた。
噂はすでに広まっていたようだ。
「いいえ」
エラは首を振った。
「昨夜、偶然お話ししただけです」
「でも、王子様があなたの名前を覚えているなんて」
別の少女が言った。
「そんなこと、前代未聞よ」
エラは黙って仕事に戻った。
彼女自身、この状況が理解できなかった。
なぜ王子は彼女に興味を持ったのか?
午後になると、宮殿全体がさらに慌ただしくなった。
最後の舞踏会の準備で、すべてが完璧でなければならなかった。
エラは大広間の準備を手伝うことになった。
テーブルクロスを敷き、花を飾り、食器を並べる。
大広間を飾りつけながら、彼女は昨夜王子と話した場所を見た。
あの瞬間が現実だったことが、今ようやく実感として湧いてきた。
「エラ」
声に振り返ると、ヘレン女官長が彼女に近づいてきた。
「王子様とお知り合いなのですか?」
エラは緊張した。叱られるのだろうか。
「いいえ、昨夜少しお話しただけです」
ヘレンは彼女をじっと見つめた。
「王子様は今夜、花嫁を選ばなければなりません」
彼女は静かに言った。
「それをお忘れなく」
「もちろんです」
エラは頷いた。
「私はただの下働きです。そんな分不相応なことは考えていません」
ヘレンはさらに彼女を見つめ、やがて頷いた。
「あなたは分別のある子ね」
彼女は言った。
「今夜の仕事に戻りなさい」
エラは安堵のため息をついた。
もちろん、彼女は王子に恋をしていたわけではなかった。
一介の下働きが王族と関わるなど、あり得ないことだった。
夕方になり、貴族たちが宮殿に到着し始めた。
エラは裏口から彼らの様子を見ていた。
豪華な馬車、きらびやかなドレス、威厳に満ちた態度。
すべてが彼女の世界とはかけ離れていた。
「エラ、料理を運びなさい」
料理長が呼んだ。
彼女は銀の盆を持ち、大広間に向かった。
すでに多くの貴族たちが集まり、音楽が流れ、踊りが始まっていた。
王座には国王が座り、その隣にオスカー王子が立っていた。
彼は正装し、王冠をつけ、まさに王族の威厳を漂わせていた。
しかし、その表情はどこか硬く、笑顔に温かみがなかった。
エラは静かに料理を並べ、目立たないように動いた。
王子の視線を感じたが、彼女は顔を上げなかった。
ここでは彼女は単なる召使いでしかない。
舞踏会が進むにつれ、国王は次々と貴族の娘たちを王子に紹介した。
オーロラ公爵令嬢、マルグリット伯爵令嬢、ローザ男爵令嬢…
彼女たちはすべて美しく、教養があり、王妃にふさわしい候補者だった。
エラは料理の補充と片付けを繰り返しながら、その様子を見ていた。
王子は礼儀正しく踊り、会話していたが、どこか心ここにあらずの様子だった。
夜が更け、舞踏会は最高潮に達した。
国王が立ち上がり、音楽を止めさせた。
「親愛なる貴族たちよ」
国王は声高に言った。
「今夜、我が息子オスカーは花嫁を選ぶべき時がきた」
会場に緊張が走った。
貴族の娘たちは期待と不安で顔を見合わせた。
オスカー王子はゆっくりと父の横に立った。
彼の表情は読みづらかったが、どこか決意が見えた。
「私は……」
王子は言いかけたが、突然会場の扉が勢いよく開いた。
「お待ちください!」
声の主は、派手なドレスを着た中年の女性だった。
彼女は二人の若い女性を連れていた。
「私たちも招待されているはずです!」
エラは息を呑んだ。それは彼女の継母と義理の姉妹たちだった。
「ご到着が遅れました」
継母は言い訳した。
「どうか娘たちに王子様との踊りの機会をお与えください」
国王は少し困惑したが、許可を与えた。
「最後の踊りとなるでしょう」
エラは身を隠すように壁際に立った。
継母に見つかれば、宮殿で働いていることを叱られるだろう。
「家事を怠っている」と非難されるに違いなかった。
しかし、継母と姉妹たちは彼女に気づかなかった。
彼らの目はただ王子だけに向けられていた。
オスカーは義理の姉妹たちと礼儀として一曲ずつ踊った。
二人は王子の腕の中で顔を赤らめ、精一杯の魅力をアピールしていた。
踊りが終わると、再び国王が立ち上がった。
「さて、オスカー。決断の時だ」
オスカー王子は深呼吸し、会場を見回した。
彼の目が一瞬、エラのいる方向に留まったように見えた。
「父上、そして尊敬すべき貴族の皆様」
彼は言った。
「私は……」
しかし、その言葉は中断された。
突然、会場の照明が揺れ、一瞬部屋が暗くなったのだ。
「何が起きた?」
国王が声を上げた。
侍従長が駆け寄った。
「一時的な障害かと思われます。すぐに修復いたします」
混乱の中、エラは壁際から動けずにいた。
そのとき、彼女の隣の扉が開き、誰かが彼女の腕を引いた。
「エラ」
オスカー王子の声だった。
彼は彼女を小さな控室に引き入れた。
「ごめん、こんな方法でしか話せなかった」
「王子様」
エラは驚いた。
「どうして……」
「時間がない」
オスカーは急いで言った。
「私は今夜、花嫁を選ばなければならない。でも……」
彼は言葉に詰まった。
「私は誰も選びたくない。少なくとも、あの場にいる誰も」
エラは困惑した。
「でも、そうしなければならないのでは?」
「そうなんだ」
オスカーは溜息をついた。
「だから……助けてほしい」
「私に?」
エラはますます混乱した。
「どうやって?」
オスカーは彼女の手を取った。
「明日、私は王国中に使者を派遣する。ある試練を課すんだ」
「試練?」
「そう」
オスカーは言った。
「私はある靴を作らせた。それを履くことができた女性を妃にすると宣言する」
エラは目を見開いた。
「それは……」
「そうすれば時間が稼げる」オスカーは説明した。「私は本当に愛せる人を見つけたいんだ。政略結婚ではなく」
エラは黙って聞いていた。
王子の悩みは理解できたが、彼女がどう助けられるのかは分からなかった。
「私は……」
彼女は言いかけたが、外から声が聞こえてきた。
「王子様はどこだ?」
「すぐに戻るよう伝えろ!」
「行かなければ」
オスカーは急いで言った。
「エラ、明日もここで会おう。同じ時間に」
彼は小さな箱を彼女に渡した。
「これを持っていてくれないか。大切なものだ」
彼女が答える前に、オスカーは部屋を出ていった。
エラは一人残され、箱を見つめた。
開けてみると、中には透明なガラスでできた小さな靴が入っていた。
それは光を受けて七色に輝き、まるで水晶でできているかのようだった。
「これが……試練の靴?」
彼女は箱を閉じ、エプロンの大きなポケットに隠した。
そして、慎重に控室を出た。
大広間では、照明が復旧し、オスカー王子が再び父の横に立っていた。
「申し訳ありません」
オスカーは言った。
「私は明日、特別な発表をしたいと思います。今夜はこれにて失礼します」
国王は驚いたが、反対はしなかった。
「明日の正午、謁見の間で発表を行うことにしよう」
貴族たちはざわめいたが、舞踏会は事実上終了した。
人々は少しずつ退出し始め、エラは片付けに取りかかった。
彼女の心は混乱していた。
なぜ王子は彼女に靴を預けたのか?
明日の試練とは何なのか?
そして何より、彼女のような下働きに王子が関心を持つことに、不思議な感覚を覚えていた。
片付けを終えた夜遅く、エラは自分の部屋に戻った。
彼女は老婆からもらった赤いリボンと、王子から預かったガラスの靴を並べて見つめた。
「これらは何か関係があるの?」
リボンには「図書館へ」と刺繍されていた。
しかし、図書館とガラスの靴に何の関係があるのか、彼女には分からなかった。
彼女は窓から星空を見上げた。
「明日、何が起きるのだろう」
恐れと期待が入り混じる中、エラは眠りについた。
彼女の人生が、明日から大きく変わることを、まだ知らずに。
(つづく)




