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忘れられた童話たちは、まだ終わっていない  作者: 水月 りか
第三章:落ちたのは、誰の靴!?
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第1話「宮廷の片隅で」

 物語には主役がいる。

 しかし、光の当たらない場所で息づく者たちもいる。

 主役になるはずではなかった者が、物語の中心へと歩み出すとき、

 わたしは新たな章を記録し始める。


 ーーーーーーーーーーーーーーーー


 クリスタル王国の宮殿、厨房の隅で、一人の少女が黙々と野菜を切っていた。

 エラと呼ばれる少女、16歳。髪は灰色がかった茶色で、顔には常に煤が付いていた。

「ねえ、エラ」

同じく厨房で働く少年が声をかけた。

「聞いた?今夜また舞踏会があるんだって」


「ええ」

エラは手を止めずに答えた。

「三日目よね」


 クリスタル王国では、王子の花嫁を選ぶための舞踏会が連日開かれていた。

 王子が25歳になったため、王は国中の貴族の娘たちを招き、息子に相応しい花嫁を見つけようとしていたのだ。


「お前も見に行けばいいのに」

少年が言った。


 エラは首を振った。

「仕事があるわ。それに……」

 彼女は自分の汚れた服を見下ろした。

「こんな姿で行ける場所じゃないわ」


 実際、エラのような下働きの者が舞踏会場に近づくことさえ許されていなかった。

 彼女の仕事は厨房で料理の手伝いをし、食事の残りを片付けることだけ。

 華やかな宮廷生活とは無縁の存在だった。


「エラ!」

料理長の声が響いた。

「貴族たちのためのフルーツを切り終わったか?」


「はい、もうすぐです!」

彼女は急いで手を動かした。


 エラがクリスタル宮殿で働き始めたのは二年前のこと。

 父親を亡くし、継母と義理の姉妹と暮らしていた彼女は、家計を助けるために宮殿の仕事を得たのだ。

 継母は彼女を厄介者扱いし、家事のほとんどを押し付けていた。

 宮殿での仕事は逃げ場所だった。厳しくとも、家にいるよりはましだった。


 日が暮れ始め、宮殿全体が舞踏会の準備で慌ただしくなった。

 エラは厨房から大広間に料理を運ぶ手伝いをしていた。

「気をつけて運びなさい」

料理長が言った。

「こぼしたら、一週間分の給金から差し引くからね」


 エラは慎重に銀の盆を持ち、大広間へと向かった。

 廊下は装飾で彩られ、壁には新しい水晶のシャンデリアが飾られていた。

 すべてが光り輝いていた。


 大広間に近づくにつれ、彼女は音楽が聞こえ始めた。

 優雅なワルツの調べ。貴族たちの笑い声。

 彼女はこっそり扉の隙間から中を覗いた。


 華やかなドレスを着た女性たち、正装した男性たち。

 皆、笑顔で踊り、語らい、飲み食いしていた。

 そしてその中心に、王子がいた。


 クリスタル王国の王子、オスカー。

 黒髪に青い瞳、誰もが認める王国一の美男子。

 しかし、その表情はどこか退屈そうで、社交辞令のような笑顔を浮かべていた。


 エラは溜息をついた。貴族の世界は遠く、彼女には手の届かない場所だった。

「何を見ているの?」


 声に驚いて振り返ると、年配の女性が立っていた。

 ヘレン、宮殿の女官長だった。


「す、すみません」

エラは慌てて頭を下げた。

「すぐに料理を運びます」


「まあいいわ」

ヘレンは微笑んだ。

「少し見たって害はないわよ」


 エラは安堵し、盆を持って大広間に入った。

 テーブルに料理を置き、素早く出ようとしたが、視線は自然と踊る人々に向いた。


 特に王子に。彼は今、美しい金髪の女性と踊っていた。

 彼女のドレスは空色で、水晶のような装飾が施されている。

「オーロラ公爵令嬢ね」

ヘレンが彼女の横で言った。

「王子の花嫁候補の筆頭と言われているわ」


 エラは黙って見つめていた。

 彼女は王子に恋をしていたわけではない。ただ、この華やかな世界への好奇心があっただけだ。

 それに、自分とはあまりに違う世界の人々がどんな風に振る舞うのか、興味があった。


「さあ、厨房に戻りなさい」

ヘレンが静かに言った。

「まだやることがあるでしょう」


 エラは頷き、大広間を後にした。

 しかし、扉の近くで彼女は誰かにぶつかった。


「ごめんなさい!」

彼女は慌てて謝った。


 目の前には一人の老婆が立っていた。

 白い髪に青い服を着た、どこか異国風の雰囲気を持つ女性。

 宮殿の人間には見えなかった。


「大丈夫よ、気にしないで」

老婆は優しく微笑んだ。


「あなたは……舞踏会の招待客ですか?」

エラは不思議に思って尋ねた。


「ある意味ではね」

老婆は謎めいた返事をした。

「私は物語を見に来たのよ」


「物語?」


「そう、王子と靴の物語」

老婆はウインクをした。

「でも、本来の物語とは少し違うみたいね」


 エラは混乱した。

「どういう意味ですか?」


「すぐに分かるわ」

老婆は彼女の手を取った。

「そして、あなたが大切な役割を果たすの」


 そう言うと、老婆は彼女の手のひらに小さな何かを置いた。

 それは赤いリボンだった。


「これは……?」


「必要な時に分かるわ」

老婆は言った。

「大切にしておきなさい」


 老婆は他に何も言わず、人混みの中に消えていった。

 エラは困惑しながらも、赤いリボンをエプロンのポケットに入れた。


 厨房に戻ると、料理長が怒っていた。

「どこにいたの!もう次の料理を運ぶ時間よ!」


 エラは謝り、急いで次の仕事に取りかかった。

 しかし、彼女の心は落ち着かなかった。

 老婆の言葉と赤いリボン。それが何を意味するのか分からなかったが、何か重要なことが起きようとしているような気がした。


 夜が更け、舞踏会は最高潮に達していた。

 エラは休む間もなく働き続けた。料理を運び、空になった皿を下げる。

 汗で髪が額に張り付いていたが、休憩する暇はなかった。


「今夜も王子は決められないみたいね」

厨房の女性たちが噂していた。

「三日目なのに、まだお気に入りが見つからないなんて」

「明日が最終日でしょう?何とか決断しないと」


 エラはそれを聞きながら仕事を続けた。

 王子の結婚問題など、彼女には関係のないこと。

 しかし、なぜか今夜は特別な感覚があった。老婆との出会いからだろうか。


 深夜になり、舞踏会は終わりに近づいていた。

 最後の片付けのため、エラは大広間に向かった。

 貴族たちはほとんど帰り、わずかな人々が名残惜しそうに談笑している。


 彼女がテーブルの下に落ちたナプキンを拾おうとしたとき、声が聞こえた。

「退屈だ……」


 振り返ると、柱の陰に王子が立っていた。

 彼は誰かと話しているわけではなく、独り言を言っていたようだ。

「毎晩同じ会話、同じ笑顔…誰も本当の私を見ていない」


 エラは息を潜めた。王子のプライベートな独白を聞いてしまったのだ。

 そっと立ち去ろうとした彼女だったが、足を滑らせ、小さな音を立ててしまった。


 王子は驚いて振り返った。

「誰だ?」


「す、すみません」

エラは頭を下げた。

「掃除をしていただけです」


 王子は彼女をじっと見つめた。

 下働きの少女。普段なら目もくれない存在。

 しかし今夜は何かが違った。


「君は……」

王子は言葉に詰まった。

「毎日ここで働いているのかい?」


「はい」

エラは視線を床に落とした。

「二年ほど前から」


 王子は不思議そうに首を傾げた。

「奇妙だな。見かけた記憶がないよ」


「下働きはめったに目に入らないものです」

エラは小さく笑った。


 王子は考え込むような表情をした。

「そうかもしれない」

彼は認めた。

「でも、それは間違っているかもしれないな」


 彼はエラに近づいた。

「名前は?」


「エラです」


「エラ……」

王子はその名を繰り返した。

「私の独り言を聞いていたね?」


 エラは恐れおののいた。

「申し訳ありません。決して他言はしません」


「いや」

王子は手を振った。

「構わない。むしろ……少し話をしないか?」


 エラは驚いた。王子が下働きに話しかけるなど、前代未聞だった。

「私のような者と?」


「そう」

王子は頷いた。

「君は舞踏会の様子を見ていたかい?外から見ると、どう見える?」


 エラは躊躇したが、正直に答えた。

「華やかで美しいです。でも……」


「でも?」


「皆さん、同じような笑顔で、同じような会話をしているように見えました」

彼女は恐る恐る言った。

「まるで……演技のように」


 王子は苦笑した。

「その通りだ。演技だよ。皆、私の地位に興味があるだけで、本当の私には誰も関心がない」


 エラは何と答えていいか分からなかった。

「王子様は……お辛いのですね」


「オスカーと呼んでくれ」

王子は言った。

「少なくとも、ここではそうしてほしい」


 二人は大広間の片隅で、静かに話し続けた。

 エラはこの状況が現実とは思えなかった。王子と下働きの少女。あり得ない組み合わせ。

 しかし、オスカー王子は彼女の話に真剣に耳を傾けた。彼女の家族のこと、日々の仕事のこと。

 そして彼もまた、自分の悩みを打ち明けた。王としての重圧、自分を見ようとしない人々への失望。


「こんな時間まで何をしている?」


 二人の会話は、宮殿の執事長の声で中断された。

「王子様、お部屋にお戻りください。明日も早いのです」


 オスカーは残念そうな表情をした。

「また話そう、エラ」

彼はささやいた。

「明日の夜も」


 エラは黙って頷いた。

 これが夢ではないことを確かめるように、自分の腕をつねった。


 執事長は彼女に厳しい視線を向けた。

「下働きが王子様に話しかけるとは、何事だ」


「違う、私が話しかけたんだ」

オスカーが彼女を守るように言った。

「彼女に罰を与えないでくれ」


 執事長は不満そうだったが、王子の言葉には逆らえなかった。

「分かりました。しかし、エラ、仕事を終えたらすぐに部屋に戻りなさい」


 エラは頷き、急いで残りの片付けを済ませた。

 彼女の心は混乱していた。王子との会話。彼の優しさ。そして、明日また会うという約束。


 自分の小さな部屋に戻った彼女は、エプロンから赤いリボンを取り出した。

 月明かりに透かして見ると、リボンには細かい文字が刺繍されているのが見えた。


「図書館へ」


 その言葉の意味は分からなかったが、今日の出来事と何か関係があるようにエラには思えた。

 老婆の言葉が頭に浮かぶ。

「王子と靴の物語」

「本来の物語とは少し違う」

「あなたが大切な役割を果たす」


 エラはリボンを握りしめ、窓から月を見上げた。

「明日、何が起きるのだろう」


 彼女はそう呟きながら、眠りについた。

 知らないうちに、彼女は物語の中心へと歩み始めていたのだ。


(つづく)

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