第6話「海からの手紙」
物語の道は時に分かれ、時に交わる。
そして、離れていても繋がっている者たちがいる。
海と陸、過去と未来、別々の物語の登場人物たち。
わたしは彼らの繋がりを記録する。
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迷いの森の手前で野営した夜は、静かに過ぎていった。
グレイは交代で見張りに立ち、星空を見上げながら考え込んでいた。
「マリナは今、無事だろうか」
昨日の湖でのことは、彼の心に強く残っていた。
マリナと海の魔女が影の書き手たちに追われている映像。
そして、クリスタル王国の宮殿で働く少女についての情報。
朝が近づくにつれ、迷いの森を覆う霧がさらに濃くなったように見えた。
薄暗い光の中、木々の輪郭はより不気味に見える。
「みんな、起きる時間だよ」
グレイは静かに仲間たちを起こした。
朝食を取りながら、彼らは今日の計画を話し合った。
「迷いの森は広大だ」
ハインリヒが地図を広げながら言った。
「地図にはほとんど詳細が記されていないが、エレナさんの話では、通り抜けるのに最低でも一日はかかるそうだ」
「できるだけ一緒にいましょう」
エルザが言った。
「迷わないように」
「そして、自分の物語を忘れないように」
ラプンツェルが付け加えた。
「エレナさんとマリナ、二人とも警告していたわ」
彼らは荷物をまとめ、森の入り口に向かった。
ここから先は道らしい道もなく、ただ木々の間に広がる薄い霧だけが見える。
「行くぞ」
グレイは決意を固め、最初の一歩を踏み出した。
森の中は想像以上に静かだった。
鳥の声も、虫の音も聞こえない。
ただ彼らの足音と息遣いだけが、異様な静寂を破っていた。
木々は途方もなく大きく、空が見えないほど。
幹の太さは数メートルに及び、その表面には奇妙な模様が刻まれていた。
「これは…文字?」
グレイは木の幹に近づいて見た。
確かに、それは文字のようだった。
しかし、彼らの知るどの言語にも似ていない。
古い物語の言葉、あるいは忘れ去られた魔法の文字かもしれない。
「先へ進もう」
ハインリヒが言った。
「方向を見失わないように気をつけて」
彼らは太陽の位置を確認しながら、東へと進んだ。
クリスタル王国はこの森の東側にあるはずだった。
しかし、森の中では方角を保つのも難しい。
薄い霧と巨大な木々が視界を遮り、太陽の位置さえ曖昧になる。
「これは普通の霧じゃない」
エルザが言った。
「魔法の霧よ」
彼女の言葉通り、霧は時に形を変え、まるで意思を持っているかのように動いた。
時には道を示すように開け、時には行く手を遮るように濃くなった。
彼らが数時間歩いたところで、奇妙な光景に出くわした。
森の中の小さな空き地で、一本だけ他と違う木があった。
それは他の巨木よりずっと小さく、しかし不思議な輝きを放っていた。
「これは……」
ラプンツェルが近づいた。
「魔法の木よ」
木の幹には小さな窓のようなものがあり、その中から光が漏れていた。
まるで誰かが中に住んでいるかのようだった。
「ノックしてみようか?」
ティモシーが提案した。
「待ってくれ」
ハインリヒが彼を止めた。
「これは森の幻影かもしれない。エレナさんも警告していたじゃないか」
しかし、その時、窓が開き、一人の小さな老人が顔を出した。
「やあ、旅人たち」
老人は微笑んだ。
「迷いの森でお迷いかな?」
彼らは警戒しながらも、老人に挨拶を返した。
「私たちはクリスタル王国に向かっています」
グレイが言った。
「ほう、遠い道のりだね」
老人は頷いた。
「森を出るには、まだ半日はかかるだろう」
「あなたはこの森に住んでいるのですか?」
ラプンツェルが尋ねた。
「ああ」
老人は木の家を指さした。
「この森の案内人さ。名前はタリスと言う」
彼らは少し安心し、タリスから森についての情報を聞くことにした。
タリスは彼らを家に招き入れた。
中は想像以上に広く、本や地図、様々な魔法の道具が並んでいた。
そして壁には、たくさんの手紙が貼られていた。
「あなたは…郵便配達人なのですか?」
エルザが不思議そうに尋ねた。
「そのようなものさ」
タリスは笑った。
「迷いの森では、物語と物語の間で手紙が送られることがある。私はそれを届ける手伝いをしているんだ」
手紙には様々な宛名があった。
「シンデレラへ」
「赤ずきんへ」
「眠れる森の美女へ」
物語の登場人物たちへの手紙だった。
「誰がこんな手紙を?」
グレイは不思議に思った。
「読者たちさ」
タリスは答えた。
「物語を読んだ人々が、キャラクターたちに伝えたい言葉を書く。時にはアドバイスや警告、時には単なる感謝の気持ち」
「それを本当に届けられるんですか?」
ティモシーは半信半疑だった。
「すべてではないさ」
タリスは肩をすくめた。
「物語の中に届けられるものもあれば、届かないものもある。特に最近は、物語自体が乱れているからね」
彼らは互いに顔を見合わせた。
「物語の乱れ……影の書き手たちのことを知っていますか?」
グレイが尋ねた。
タリスの表情が変わった。
「知っているよ」
彼は低い声で言った。
「彼らは物語の流れを変え、キャラクターたちの運命を書き換えている。多くの手紙がもう届かなくなってしまった」
彼は壁に貼られた手紙の一つを指さした。
「この手紙は赤ずきんへの警告だった。『狼には近づかないで』と。でも届かなかった。彼女の物語が変わってしまったからだ」
グレイの心臓が早鐘を打った。
「赤ずきんの物語が変わったって……彼女はどこに行ったんですか?」
「それは私にも分からない」
タリスは首を振った。
「しかし、彼女を探している者はいる。海からの手紙だ」
「海から?」
タリスは引き出しを開け、封をされた手紙を取り出した。
封筒には「森の狼へ」と書かれていた。
「これは……僕に?」
グレイは驚いた。
「君が狼なら、そうだろう」
タリスは彼に手紙を渡した。
グレイは震える手で封を開けた。
中には青い紙に書かれた文字があった。
「親愛なる狼へ。
私の物語は泡になることで終わるはずでした。
しかし、魔女の助けで海に戻り、新たな道を歩んでいます。
あなたの物語も変わったと聞きました。
赤ずきんを探しているそうですね。
彼女は図書館にいると思います。
図書館は五つのリボンの持ち主が集まる場所。
彼女もリボンを持っているはずです。
海の深みから、あなたの旅の無事を祈っています。
—マリナ」
「マリナからだ」
グレイは仲間たちに告げた。
「彼女は赤ずきんが図書館にいると思っている」
「図書館……」
ラプンツェルが繰り返した。
「最終目的地ね」
「この手紙はいつ届いたんですか?」
ハインリヒがタリスに尋ねた。
「三日前だ」
タリスは答えた。
「海からの手紙は遅れることが多い。水と紙は相性が悪いからね」
グレイは手紙を何度も読み返した。
マリナは確かに赤ずきんが図書館にいると言っている。
それは希望の光だった。
「ところで」
タリスは言った。
「君たちは物語の境界を越えた者たちだろう?」
「どうして分かるんですか?」
ティモシーが驚いて尋ねた。
「それは私の仕事さ」
タリスは微笑んだ。
「物語と物語の間を行き来し、手紙を届ける。君たちのような者を見分けるのは難しくない」
彼は立ち上がり、小さな地図を取り出した。
「これを持っていくといい。迷いの森の地図だ。完全ではないが、主要な道は示されている」
「ありがとうございます」
グレイは感謝した。
「それと、警告しておく」
タリスは真剣な表情になった。
「森の中心部には『物語の池』がある。そこには近づかない方がいい」
「物語の池?」
「池の水は過去の記憶を映し出す」
タリスは説明した。
「自分の物語の中に引き込まれてしまう危険がある。一度入ると、二度と現実に戻れなくなることも」
彼らは警告を心に留め、タリスの家を後にした。
新しい地図を手に、彼らは再び東へと向かった。
しばらく歩いた後、グレイは立ち止まった。
「みんな、待って」
森の中に、不思議な音が聞こえ始めていた。
風のようでもあり、歌のようでもある音色。
「何の音だろう?」
ラプンツェルが耳を澄ませた。
「まるで……海の音のようだ」
エルザが言った。
確かに、それは波の音に似ていた。
しかし、彼らは森の中央にいるはず。海からは遠く離れている。
「タリスの地図を見てみよう」
ハインリヒが提案した。
地図によれば、彼らは「物語の池」にかなり近づいていた。
「池の音かもしれない」
グレイは言った。
「タリスは近づくなと言っていたが……」
「でも、もし池が何か重要な情報を持っているなら?」
ティモシーが言った。
彼らは議論した末、池を見るだけなら危険はないだろうと判断した。
ただし、水には触れないこと、長時間見つめないことを約束した。
音に導かれるように進むと、彼らは森の中の開けた場所に出た。
そこには大きな円形の池があり、水面は鏡のように静かだった。
周囲には奇妙な形の石が立ち並び、古代の祭壇のようだった。
「これが物語の池……」
グレイはつぶやいた。
彼らは慎重に近づき、池を囲む石の後ろに身を隠した。
水面は不思議な青い光を放ち、深さは測り知れなかった。
「何が見える?」
ラプンツェルが尋ねた。
グレイは石の陰から水面を覗き込んだ。
最初は何も見えなかったが、やがて水面に映像が現れ始めた。
海の景色だった。
マリナが泳いでいる姿、そして彼女の横には別の人魚たち。
彼らは何かを守るように円陣を組んでいた。
「マリナ……」
グレイは思わず呟いた。
映像は変わり、今度は陸の風景になった。
クリスタル王国らしき城があり、その中では舞踏会が開かれていた。
華やかな衣装を着た貴族たちが踊る中、一人の少女が目を引いた。
彼女は他の貴族たちとは違う、質素な服を着ていた。
しかし、彼女の足元には光るガラスの靴が。
「三つ目のリボンの持ち主かもしれない」
エルザがささやいた。
映像はさらに変わり、今度は暗い森の中。
赤い頭巾を被った少女が一人で歩いている。
彼女の手には地図のようなものがあり、何かを探しているようだった。
「赤ずきん!」
グレイは思わず声を上げた。
その瞬間、水面の映像が揺らぎ、消えてしまった。
代わりに、水面が渦を巻き始めた。
「危ない!」
ハインリヒが叫んだ。
「下がれ!」
彼らは急いで池から離れた。
水面から何かが立ちのぼってくる。
水でできた人型の姿。それは次第に形を整え、彼らの前に立った。
「物語を求める者たち」
水の声が響いた。
「何を望む?」
彼らは恐れおののき、言葉を失った。
グレイだけが一歩前に出た。
「私たちは真実を求めています」
彼は言った。
「物語が書き換えられた理由を」
水の姿はじっとグレイを見つめた。
「真実は時に危険」
それは言った。
「それでも求めるか?」
「はい」
グレイは迷わず答えた。
水の姿は手を伸ばし、水滴を一つグレイに差し出した。
「これを飲め。すべてが明らかになる」
グレイは水滴を見つめた。
誘惑的だった。すべての真実を知ることができる。
赤ずきんの居場所、影の書き手の正体、物語が変わった理由。
しかし……
「いいえ」
彼は首を振った。
「タリスさんは警告していた。物語の池の水は危険だと」
水の姿は手を引っ込めた。
「賢明な選択だ」
それは言った。
「時が来れば、真実は自ら明らかになる」
そして水の姿は再び池に戻り、水面は静かになった。
「あれは何だったんだ?」
ティモシーは震える声で尋ねた。
「物語の守護者かもしれない」
ハインリヒが言った。
「あるいは、私たちを試していたのかも」
彼らは急いで池から離れ、タリスの地図に従って東へと進んだ。
森はさらに暗くなり、霧も濃くなっていった。
しかし、彼らは方向を見失わないよう、互いに声をかけながら進んだ。
午後も遅くなり、日が傾き始めたころ、彼らは森の変化に気づいた。
木々がより小さくなり、霧も薄くなってきた。
そして遠くに、光が見えた。
「森の出口だ!」
ティモシーが喜びの声を上げた。
彼らは足を速め、出口へと向かった。
木々の間から見える光は、沈みかけた太陽の光だった。
そして、その光に照らされた景色は……
「クリスタル王国……」
グレイはつぶやいた。
彼らの前に広がるのは、美しい谷だった。
そして遠くには、夕日に輝く水晶のような城が見えた。
彼らは安堵のため息をつき、互いに顔を見合わせた。
迷いの森を抜け、次の目的地に到着したのだ。
ポケットの中で、赤いリボンが温かくなる感覚。
グレイはそれを取り出し、見つめた。
「図書館へ」の文字が夕日に照らされて赤く輝いていた。
「もうすぐだ」
彼は心の中で呟いた。
「三つ目のリボン、そして赤ずきん」
(つづく)