第2話「森の記憶と忘却」
物語の中には、記憶されるものと忘却されるものがある。
主役の光に照らされた部分と、影に隠れた部分。
わたしはそのどちらも記録する。
そして時に、忘れ去られた影の住人たちが動き出すことがある。
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夕闇が濃くなる中、狼はおばあさんの家へと続く小道を進んでいた。
かつては整備された道だったはずなのに、今では所々草が生い茂り、木の根が地面を突き破っている。まるでこの道自体が、長い間人間に踏まれることを忘れてしまったかのようだった。
「どれくらい経ったんだろう」
狼は独り言を呟きながら、周囲を見回した。
彼の記憶の中では、この道を赤ずきんが通ったのはついこの間のことのように思えた。しかし森の様子は、それが遥か昔のことだと物語っていた。
樹々の間から月明かりが差し込み、道に銀色の筋を描く。その光に照らされた地面に、狼は何かを見つけた。
足跡だった。小さな、しかし人間のものではない足跡。
彼は鼻を近づけ、匂いを確かめる。
「リス…?」
狼の鼻は昔ほど確かではなくなっていた。あるいは、この森自体の匂いが変わってしまったのかもしれない。
彼が再び歩き始めると、小さな氷のような雫が頬を打った。
見上げると、枝の間から見える夜空に、小さな雪の結晶が舞い始めていた。
季節はいつの間にか冬になっていたのだ。
「変だな…」
狼は首を傾げた。
「赤ずきんが来たのは確か春だった。それからそんなに時間が…」
彼の言葉は途中で途切れた。時間の感覚が狂っていたのだ。
どれほどの時が流れたのか、彼にはもう分からなくなっていた。
雪が徐々に地面を白く染め始め、彼の足跡が森に刻まれていく。
やがて、木々の間から小さな明かりが見えてきた。
おばあさんの家だった。
かつて彼が忍び込んだあの家は、今もそこに建っていた。
しかし、それは彼の記憶の中の家とは少し違っていた。
壁は少し傾き、屋根の一部は崩れ落ちている。窓ガラスは割れ、代わりに板が打ち付けられていた。
しかし、驚いたことに、煙突からは薄い煙が立ち昇っていた。
「誰かいるのか…?」
狼は慎重に近づいた。前回の教訓を忘れていない。
腹を裂かれた痛みは、今でも夢に見ることがある。
家の周りをそっと回り込み、窓から中を覗き込む。
薄暗い室内に、人影は見えない。
暖炉には小さな火が灯っているだけで、椅子に座るおばあさんの姿はなかった。
「もしかして…」
狼は玄関に回り、おそるおそる扉をノックした。
返事はない。
再びノックすると、扉がきしむ音を立てて、少しだけ開いた。
鍵はかかっていなかったのだ。
「…入るぞ」
狼は低い声で警告し、ゆっくりと扉を押し開けた。
室内は意外にも暖かく、暖炉の火が壁に揺らめく影を作り出している。
部屋の中央には小さなテーブル、その横に揺り椅子。ベッドは壁際に置かれ、綺麗に整えられていた。
しかし、人の気配はない。
「おばあさん…?」
狼は声をかけてみたが、返事はなかった。
彼は部屋の中を調べ始めた。テーブルの上には古ぼけた絵本が開かれたまま置かれている。
揺り椅子の脇には編み物のカゴ。糸はほつれ、針は錆びていた。
「まるで急に出ていったみたいだ…」
狼は思わず呟いた。確かに部屋は人が住んでいた形跡があるのに、突然姿を消したような不自然さがあった。
何かを探すように部屋を見回していると、暖炉の上の棚に小さな木箱が目に入った。
狼は慎重に箱を手に取る。彼の大きな爪と手のひらで、小さな箱はほとんど隠れてしまうほどだった。
箱には鍵穴があったが、鍵はかかっていない。
彼がそっと蓋を開けると、中から古い手紙の束が現れた。
黄ばんだ紙に、かすれた文字。最上部の封筒には、懐かしい字で「赤ずきんへ」と書かれていた。
狼の心臓が早鐘を打ち始めた。
これが彼の探していた手がかりなのかもしれない。
手紙を広げる前に、彼は再び部屋を見回した。
そして、ベッドの上に置かれた小さな物に気がついた。
それは、赤いリボン。
少女の頭巾を留めていたものによく似ていた。
狼は箱を脇に置き、リボンに手を伸ばした。
しかし、彼の指先がリボンに触れる直前、突然外から物音がした。
ドアがきしみ、床板が軋む音。
誰かが家に入ってきたのだ。
狼は咄嗟に身を隠した。ベッドの下に潜り込み、息を殺す。
重い足音が近づいてくる。人間の足音ではない。
それは…
「出てこい」
低い声が響いた。
「匂いでわかるぞ。ここに誰かいるな」
狼は動かなかった。声の主が何者なのか、わからなかったからだ。
「遠慮はいらない。この家はもう誰のものでもない」
声は続いた。どこか優しさを含んだ声だった。
狼はゆっくりとベッドの下から這い出た。
そして、目の前に立つ姿を見て、彼は言葉を失った。
そこには、彼自身とよく似た姿の狼が立っていた。
しかし、その狼は彼より一回り大きく、毛並みは白に近い灰色。目は深い琥珀色で、人間のような知性を宿していた。
「ようこそ、迷い人」
白い狼は言った。
「おばあさんの家へ」
「おまえは…誰だ?」
狼は警戒しながら尋ねた。
白い狼はゆっくりと暖炉の前に腰を下ろした。
「私は森の記憶を守る者。お前と同じ、物語の中に取り残された者だ」
狼は混乱した。
「森の記憶…?」
「そう」
白い狼は頷いた。
「この森には多くの物語がある。しかし、語られなくなった物語は、少しずつ忘れられていく。私はその忘却と戦っているのだ」
狼はテーブルに置いた手紙の束を見た。
「これは…」
「おばあさんと赤ずきんの交わした手紙だ」
白い狼は静かに言った。
「お前が知りたがっていることの、多くの答えがそこにある」
狼は手紙を手に取った。
「読んでもいいのか?」
白い狼は小さく頷いた。
「物語を知る権利は、物語の住人にある。特に…主役を待ち続けた脇役にはな」
狼は一通目の手紙を開いた。
そこには、おばあさんの震える手で書かれた文字があった。
「親愛なる孫へ。
ごめんなさい、もうすぐ私はこの家を離れなければなりません。
森にはもう、あなたが来てはいけません。
危険なのは狼だけではないのです。
この世界自体が、変わりつつあります。
もし私からの最後の手紙を読むことができたなら、
図書館へ行きなさい。すべての物語の真実が、そこにあります。
あなたを愛しています。—おばあさん」
狼は手紙を読み終え、白い狼を見上げた。
「図書館…?フクロウも同じことを言っていた。一体どういう意味だ?」
白い狼は立ち上がり、窓の外を見た。
雪はさらに激しく降り始めていた。
「物語は本来、終わることなく続いていくもの。しかし、誰かが物語に終止符を打とうとしている」
白い狼は振り返り、狼を見つめた。
「お前は選ばなければならない。このまま忘れ去られた物語の中で生き続けるか、それとも…」
「それとも?」
狼は前のめりになった。
「物語の続きを見つけに行くか」
狼はベッドの上の赤いリボンを手に取った。
それを近くで見ると、リボンには小さな文字が刺繍されていた。
「図書館へ」
雪の結晶が窓ガラスに付着し、外の世界はますます白く、ぼんやりとしていく。
この森の記憶も、同じように薄れていくのだろうか。
狼は決意を固めた。
彼は物語の続きを見つける。赤ずきんの行方を知る。
そして何より、自分自身の物語を取り戻すのだ。
白い狼が言った。
「夜が明けたら、東の方角へ進みなさい。森の外れに、一本の道がある。それがお前を導くだろう」
狼は頷いた。そして、手紙の束とリボンを大切に抱きしめた。
窓の外では、雪がすべての痕跡を消し去っていた。
しかし、明日になれば、新たな足跡が刻まれるだろう。
忘却の森を抜け出し、物語の続きを求める旅の第一歩が。
(つづく)




