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忘れられた童話たちは、まだ終わっていない  作者: 水月 りか
第二章:泡にならなかった人魚姫
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第3話「歌う海の終わり」

 物語の海に船出した者は、いずれ岸にたどり着く。

 しかし、そこで待つのは新たな冒険の始まり。

 海と森の境界では、多くの物語が交わる。

 わたしはその交差点を記録する。


 ーーーーーーーーーーーーーーーー


 マリナとの出会いから一夜が明け、「詩人の夢」号は歌う海の最終地点へと進んでいた。昨日までの穏やかな青い波とは違い、今日の海は少し荒々しく、波の歌も高く激しくなっていた。


「天候が変わりそうだ」

 ジェイムズは空を見上げながら言った。


 グレイも空を見た。確かに、遠くに灰色の雲が集まり始めていた。

「嵐でしょうか?」


「小さなものだろう」

 ジェイムズは答えた。

「だが、歌う海の嵐は普通ではない。心の準備をしておいた方がいい」


 朝食の席で、グレイは昨日マリナから聞いた話を改めて皆と共有した。

 五つのリボンのこと、それぞれが別の物語から来ていること、そして五つが揃うと図書館の扉が開くこと。


「つまり、他の物語の主人公たちも同じリボンを持っているんですね」

 ラプンツェルが言った。


「そう考えると」

 ハインリヒが思索顔で言った。

「シンデレラ、ヘンゼルとグレーテル、眠れる森の美女…彼らもどこかで私たちと同じ旅をしているのかもしれない」


「でも、なぜ違う物語の住人たちが協力しなければならないんだろう?」

 ティモシーが疑問を呈した。


「影の書き手たちに対抗するため、かもしれないわ」

 エルザが答えた。

「一つの物語では太刀打ちできない相手だから」


 グレイはポケットから赤いリボンとマリナからもらった青い液体の入った小瓶を取り出し、テーブルに置いた。

「どちらも重要な鍵になるはずだ」


「その瓶の中身は何なのかしら?」

 ラプンツェルが興味深そうに覗き込んだ。


「魔女の最後の魔法みたいだ」

 グレイは答えた。

「必要な時に使えって」


「開けてみたら?」

 ティモシーが提案した。


 グレイは首を振った。

「マリナは『最も困難な場所で』と言っていた。今はまだ使うべきときじゃない」


 彼らが話している間に、船の揺れが強くなってきた。

「来るぞ!」

 ジェイムズの声が甲板から響いた。


 皆、急いで外に出ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。

 前方の海が、まるで壁のように立ち上がっていたのだ。高さ数十メートルはある水の壁。そして、その壁は虹色に輝き、中から音楽が聞こえてくる。


「あれは…」


「歌う海の終わりだ」

 ジェイムズが説明した。

「異界の海と現実の海が交わる境界線。あの壁を突破すれば、向こう側は普通の海になる」


 船は波に揺られながら、その巨大な水の壁に向かって進んでいく。

 グレイたちは手すりにしがみつき、緊張した面持ちでそれを見つめていた。


「準備はいいか?」

 ジェイムズは叫んだ。

「物語の壁を越えるぞ!」


 船員たちが帆を固定し、皆、何かにつかまるように指示された。

「詩人の夢」号は水の壁に突入した。


 一瞬、世界が歪んだような感覚。

 船全体が水に飲み込まれ、周囲は青い光に包まれた。

 その中で、グレイには無数の声が聞こえた。


「帰っておいで…」

「道に迷わないで…」

「真実を見つけて…」


 それは海の声なのか、それとも過去の物語の残響なのか。

 グレイの心を揺さぶる声々。その中に、かすかに赤ずきんの声も混ざっているように感じた。


「グレイ…」

 確かに彼の名を呼ぶ声。少女の声だった。


「赤ずきん?」

 彼は思わず答えようとしたが、声は出なかった。


 そして突然、船は前方に飛び出し、普通の海に戻った。

 水の壁は船の後方にあり、今では巨大な波のように見えた。


 皆、無事だった。びしょ濡れになったが、怪我をした者はいない。

「通過したぞ!」

 ジェイムズは喜びの声を上げた。


 振り返ると、歌う海は徐々に静まり、普通の海に戻っていくのが見えた。

 あの神秘的な青い輝きも、旋律を奏でる波も、もう存在しない。


「あれは…何だったんだ?」

 グレイは混乱した様子で尋ねた。


「境界の壁だ」

 ジェイムズは説明した。

「物語と現実の狭間。あそこでは、自分の心の声が聞こえる」


「私は…彼女の声を聞いた」

 グレイは静かに言った。


「それは良い兆候だ」

 ジェイムズは彼の肩を叩いた。

「彼女も同じようにあなたを探しているのかもしれない」


 船は引き続き前進し、遠くに陸地の輪郭が見え始めた。

「あれが迷いの森のある大陸だ」

 ジェイムズは指さした。

「今夜中には到着するだろう」


 皆、濡れた服を着替え、甲板の水を拭いてから、昼食を取った。

 海の壁の通過は全員に強い印象を残したようで、それぞれが聞こえた声について話し合っていた。


「私は塔の中にいた頃の自分の声を聞いたわ」

 ラプンツェルが言った。

「まるで過去の自分が現在の自分を励ましてくれるように」


「私は月の声を聞いた」

 ハインリヒは不思議そうに言った。

「私の本来の物語の目的地だった月が、『別の道もある』と言っていた」


「私には……小さな時の自分が聞こえた」

 ティモシーは少し恥ずかしそうに言った。

「親指ほどの大きさだった頃の」


「私は氷の声だったわ」

 エルザは静かに言った。

「『溶けなさい』と」


 それぞれの声は、彼らの物語、彼らの過去、そして未来を反映していた。

 グレイはマリナからもらった青い小瓶を取り出し、光にかざした。

 中の液体は、今は静かに澄んでいた。


「この魔法は何に使うんだろう」

 彼は思わず呟いた。


「最も困難な場所で」

 ラプンツェルが繰り返した。

「迷いの森のことかもしれないわね」


 昼過ぎから、風が強まり始めた。

 普通の海になったとはいえ、波は荒く、船は大きく揺れていた。

 船員たちは慣れた手つきで帆を調整し、船を安定させようとする。


 しかし、風はさらに強まり、やがて本格的な嵐となった。

 雨が横殴りに船を打ち、雷が海面を照らす。

 甲板は危険になり、全員が船室に避難するよう指示された。


「これは普通の嵐じゃない」

 ジェイムズが顔をしかめながら言った。

「物語の嵐だ」


「物語の嵐?」

 グレイが尋ねた。


「ああ」

 ジェイムズは頷いた。

「物語の境界を越えたとき、時に異変が起きる。特に影の書き手たちが近くにいると…」


 その言葉に、全員が緊張した。

 影の書き手たち。物語を書き換える者たち。

 ガラスの山で出会った影の手下を思い出し、グレイは身震いした。


 船室の窓から、彼らは外の様子を見守った。

 波はますます高くなり、時に船を丸ごと飲み込むほどだ。

「持ちこたえられるだろうか…」

 ティモシーが心配そうに言った。


「『詩人の夢』は強い船だ」

 ジェイムズは自信を持って言った。

「どんな嵐も乗り越えてきた」


 しかし、その言葉とは裏腹に、突然大きな衝撃が船を襲った。

「何かにぶつかった!」

 船員の一人が叫んだ。


 ジェイムズが急いで甲板に出ると、グレイも後に続いた。

 雨と風の中、船の側面に大きな裂け目が見えた。何か鋭いもの—岩か、あるいは別のもの—が船体を傷つけたのだ。


「船室に戻れ!」

 ジェイムズは叫んだ。

「危険だ!」


 しかし、その時、グレイは海中に奇妙な影を見た。

 魚ではなく、人間のようにも見えない。

 長く伸びた影が、船の周りを回るように泳いでいた。


「あれは…」

 彼は目を凝らした。


 突然、もう一度船が衝撃を受けた。

 今度は別の場所だ。船体に新たな裂け目ができ、水が流れ込み始めた。


「船を沈めようとしている!」

 ジェイムズは怒りの声を上げた。


 影の書き手たちの仕業なのか、それとも別の敵なのか。

 とにかく、自分たちの命が危険にさらされていた。


「どうすれば…」

 グレイは思わずポケットの青い瓶に手を伸ばした。

「最も困難な場所で」

 というマリナの言葉が頭に浮かぶ。

 今がその時なのか?


 彼が迷っていると、船はさらに大きく傾いた。

「沈むぞ!」

 ジェイムズが叫んだ。

「救命ボートを準備しろ!」


 船員たちが救命ボートを降ろそうとするが、嵐の中ではそれも難しい。

 グレイは決断した。彼は青い瓶を開け、中身を海に注いだ。


 しかし、何も起こらなかった。

 だが、次の瞬間、海全体が青く光り始めた。

 船を攻撃していた影が、その光に怯えるように後退していく。


「マリナの魔法だ!」

 グレイは叫んだ。


 光は強まり、波は静まり始めた。嵐も弱まっていく。

 まるで海全体が魔法で鎮められたかのようだった。


「すごい…」

 ラプンツェルが船室から出てきて感嘆した。


 光は船体の裂け目にも届き、傷が癒えていくのが見えた。

 魔女の最後の魔法は、単なる護りではなく、癒しの力も持っていたのだ。


 しばらくして、嵐は完全に去り、海は穏やかになった。

 青い光も徐々に薄れていき、やがて通常の海の色に戻った。


「危機一髪だったな」

 ジェイムズはグレイの肩を叩いた。

「あの魔法がなければ、沈んでいたかもしれない」


 グレイは空になった瓶を見つめた。

「マリナは知っていたんだ。私たちがこの危機に遭うことを」


「彼女は海の魔女の弟子だからな」

 ジェイムズは言った。

「未来を見る力があったのかもしれない」


 船は損傷を受けたものの、航行は可能だった。

 彼らは予定通り、夕方には陸地に近づいていた。


 沿岸には小さな港があり、ジェイムズはそこに船を停泊させることにした。

「ここでしばらく船の修理をする」

 彼は説明した。

「君たちはここから陸路で迷いの森に向かうといい」


 彼らは荷物をまとめ、船を降りる準備をした。

 ジェイムズは彼らに地図と食料、そして若干の装備を与えた。


「ここからは私の知る範囲を越える」

 彼は言った。

「迷いの森は誰もが通り抜けられるわけではない。覚悟を決めるんだ」


 グレイはジェイムズに感謝の意を表した。

「ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」


「いつか、図書館で会おう」

 ジェイムズは微笑んだ。

「そして、すべての物語が正しく語られる日が来ることを願おう」


 彼らは港で一泊し、翌朝、陸路での旅に出発する計画を立てた。

 宿屋の一室で、グレイは記録帳を開き、これまでの航海と今日の出来事を記録した。


 歌う海の中心でのマリナとの出会い、五つのリボンの謎、海の壁の通過、そして嵐との戦い。すべてが彼の新しい物語の一部となっていた。


「人魚姫の物語は泡にならなかった。そして私たちの物語も、続いていく」


 窓の外では、星空の下、遠くに広がる暗い森が見えた。

 迷いの森。次なる試練の場所。


 彼はポケットのリボンを取り出し、月明かりに透かして見た。

「ここまで来た」

 彼は静かに言った。

「赤ずきん、もう少しで会える」


 彼の心の中で、壁を通過したときに聞こえた少女の声がこだました。

「グレイ…」


 彼は応えるように呟いた。

「待っていてくれ」


(つづく)

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