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忘れられた童話たちは、まだ終わっていない  作者: 水月 りか
第二章:泡にならなかった人魚姫
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第2話「海の底の真実」

 物語の底に沈んだ真実は、時に浮かび上がる。

 その瞬間、過去と未来が交わり、新たな物語が生まれる。

 隠されていた声が聞こえ始める時、

 わたしはすべてを記録する。後の世に伝えるために。


 ーーーーーーーーーーーーーーーー


 朝の光が船室の窓から差し込み、グレイの目を覚ました。

 昨夜の夢がまだ鮮明に残っていた。海の底で出会った人魚、そして「彼女は泡になった」という不吉な言葉。


 甲板に出ると、すでに他のメンバーたちも起きていた。


「おはよう」

 ラプンツェルが微笑みかけた。

「よく眠れた?」


「ああ」

 グレイは頷いたが、夢のことは言わなかった。


 朝食を取りながら、ジェイムズが今日の予定を説明した。


「今日の午後には歌う海の中心部に到着する。そこは特別な場所だ。海底が最も浅く、水中の世界が見えるほどに透明になる」


「水中の世界?」

 ティモシーが興味を示した。


「ああ」

 ジェイムズは頷いた。

「海の民の住処が見えることもある」


「海の民?」

 エルザが尋ねた。

「人魚のことですか?」


「そう」

 ジェイムズは答えた。

「彼らはめったに姿を見せないが、歌う海の中心部では時折、水面近くまで上がってくる」


 グレイは昨夜見た影と歌声を思い出した。

「昨夜、私は…何か見たかもしれない」


 皆の視線が彼に集まった。

「人魚のようなものを」

 彼は続けた。

「歌声も聞こえた」


 ジェイムズの表情が変わった。

「すでに彼らは我々に気づいているようだな」


 朝食後、船は順調に進んだ。

 風は穏やかで、波は美しい旋律を奏でていた。

 歌う海の中心部に近づくにつれ、海の色は深い青から透明な青緑へと変わっていった。


 正午頃、ジェイムズが舵輪を回し、船を減速させた。

「着いたぞ」

 彼は宣言した。

「歌う海の中心だ」


 船の周りの海は信じられないほど透明になっていた。

 海底が見え、色とりどりの珊瑚や海藻、魚の群れが泳いでいるのが確認できた。

 まるでガラスの床の上を歩いているかのように、深海の世界が広がっていた。


「綺麗ね…」

 ラプンツェルが感嘆の声を上げた。


 全員が船の縁に集まり、この驚異的な光景を眺めていた。

 しかし、グレイの目は別のものを探していた。

 人魚の姿を。夢の中で会った存在を。


「あそこに何かある」

 ハインリヒが海底の一角を指さした。


 目を凝らすと、確かに人工的な構造物が見えた。

 海底に建てられた建物、道路、そして…宮殿のような大きな建造物。

 海の民の都市だった。


「海底王国だ」

 ジェイムズが説明した。

「人魚たちの住処」


 彼らがその光景に見入っていると、突然、水面が波立ち始めた。

「来たぞ」

 ジェイムズは静かに言った。


 水面から一つの頭が現れた。

 長い髪に覆われた顔、しかし人間のようでもあり、魚のようでもある特徴。

 肩まで水面に出ると、それが美しい女性の上半身を持つ存在—人魚—であることが明らかになった。


 彼女は船を警戒するように見つめていたが、ジェイムズを認めると、表情が和らいだ。

「ジェイムズ」

 彼女の声は水のように流れるようだった。

「久しぶりね」


「マリナ」

 ジェイムズは頭を下げて応えた。

「元気だったか」


 人魚—マリナ—は船を一周し、グレイたちを観察した。


「新しい旅人たち?」

 彼女は尋ねた。


「ああ」

 ジェイムズは答えた。

「彼らも物語を探している」


 マリナはグレイをじっと見つめ、「あなたが昨夜、私の歌を聴いた人ね」と言った。


 グレイは驚いた。

「あれは本当にあなただったんですか?」


「ええ」

 彼女は頷いた。

「あなたの心が揺れていたから、呼びかけたの」


「私の心が……?」


 彼女は水面から少し身を乗り出した。

「あなたは何かを探しているわね。大切な誰かを」


「赤ずきんです」

 グレイは答えた。

「彼女の物語を知りたいんです」


 マリナは瞬きをし、他の人魚たちに何かを呼びかけた。

 水面下から返事が来たようで、彼女は再びグレイに向き直った。


「船に上がってもいいかしら」

 彼女は尋ねた。


 ジェイムズはグレイに目配せし、彼が頷くと「もちろん」と答えた。


 マリナは水面から飛び上がり、軽やかに船の縁に上がった。

 上半身は人間の女性そのものだが、腰から下は輝く鱗に覆われた魚の尾だった。

 長い髪は藻のように緑がかっており、瞳は深い海のように青かった。


「あなたの探しているものについて、話があるわ」

 彼女はグレイに言った。


 船員たちが甲板に椅子を運び出し、マリナが座れるようにした。

 彼女の尾は日光を受けて虹色に輝いていた。


「まず、私自身の物語を聞いてほしい」

 マリナは静かに語り始めた。

「かつて私は『人魚姫』として知られる物語の主人公だった」


 グレイたちは驚いて顔を見合わせた。目の前にいるのは人魚姫その人だったのだ。


「私は王子に恋をし、人間になるために魔女と取引をした」

 彼女は続けた。

「声と引き換えに足を手に入れ、陸に上がった。しかし…」


 彼女は一瞬言葉を切った。


「物語によれば、王子は別の女性と結婚し、私は朝日と共に泡になるはずだった」


「でも、あなたは生きている」

 エルザが不思議そうに言った。


「ええ」

 マリナは頷いた。

「物語が変わったの。泡になる直前、私は突然声を取り戻した。そして海に飛び込むと、再び人魚の姿に戻っていた」


「物語が書き換えられたんですね」

 ハインリヒが言った。


「そうよ」

 マリナは答えた。

「最初は混乱したわ。私の物語は泡になることで終わるはずだった。でも代わりに、私は海に戻り、魔女の弟子になった」


「魔女の弟子?」

 ラプンツェルが尋ねた。


「ええ。あの時、私を救ったのは魔女だったの」

 マリナは説明した。

「彼女は私の物語が書き換えられたことを知り、私を弟子にした。そして…」


 彼女は周囲を見回し、声を低めた。

「私たちは図書館を探し始めたの」


「あなたも図書館を?」

 グレイは身を乗り出した。


「ええ」

 マリナは頷いた。

「すべての物語の真実が記された場所。私の物語がなぜ変わったのか、本来の結末は何だったのかを知るために」


「そして見つかったんですか?」

 ティモシーが期待を込めて尋ねた。


「いいえ」

 彼女は首を振った。

「魔女は影の書き手たちに捕らえられてしまった。それ以来、私は一人で探し続けている」


 グレイはポケットの赤いリボンに手を触れた。

「リボンのことは…」

 彼は尋ねようとしたが、マリナが先に言った。


「赤いリボン。『図書館へ』と刺繍されたもの。探しているのはそれね」


 グレイは驚いて彼女を見つめた。

「どうして知っているんですか?」


「私も同じものを持っているから」

 マリナは腕につけていた小さな袋を開けた。

 中から出てきたのは、グレイが持つものと全く同じ赤いリボンだった。


「これは…」

 グレイは自分のリボンも取り出した。


 二つのリボンを並べると、まったく同じデザイン、同じ「図書館へ」という刺繍。

 しかし、細かく見ると微妙に違っていた。グレイのリボンには森の模様が、マリナのリボンには波の模様が薄く刺繍されていた。


「あなたはどこでこれを?」

 グレイは尋ねた。


「魔女からもらったの」

 マリナは答えた。

「彼女は『これが図書館への鍵になる』と言っていた」


「私も同じように言われました」

 グレイは思い出した。

「ローズという人から」


「それだけじゃないわ」

 マリナは続けた。

「魔女は他にも言っていた。『リボンは五つある』と」


「五つ?」


「ええ。それぞれ違う物語から来ていて、五つが揃うと図書館の扉が開くと」


 グレイたちは意味深な視線を交わした。五つのリボン。そしてそれぞれの物語。


「私たちの物語は全部で七つでしたね」

 ラプンツェルが思い出した。

「赤ずきん、人魚姫、シンデレラ、ヘンゼルとグレーテル、眠れる森の美女、そして…」


「忘れられた童話たちの図書館」

 グレイが最後の章を口にした。


「そして最終章」

 ハインリヒが付け加えた。

「その本の最後のページを、あなたに」


「七つの章、そして五つのリボン」

 エルザがつぶやいた。


 マリナはグレイをじっと見つめた。

「あなたが探している赤ずきんも、リボンを持っているはずよ」


「どこにいるか知っていますか?」

 グレイは期待を込めて尋ねた。


「いいえ」

 マリナは首を振った。

「でも、彼女は生きている。泡にはならなかった」


「なぜそれが分かるんですか?」


「私の物語が変わったように、彼女の物語も変わったから」

 マリナは説明した。

「私たちのリボンは繋がっている。そして彼女のリボンも」


 グレイは考え込んだ。

「あなたは、赤ずきんのことを何か知っていますか?」


「直接会ったことはないわ」

 マリナは答えた。

「でも、魔女から聞いた話では、彼女は物語の外に出て、図書館を探しているらしい」


「つまり、僕たちと同じことをしているんですね」


「ええ」

 マリナは頷いた。

「そして、私たちより先を行っているかもしれない」


 彼女は海を見つめた。

「私はここから先に行けない。海の者だから。でもあなたたちなら、迷いの森を抜けて図書館にたどり着けるかもしれない」


「一緒に来ませんか?」

 ラプンツェルが提案した。

「私たちと一緒に」


 マリナは微笑んだ。

「ありがとう。でも、それは難しいわ」


 彼女は尾を見せた。

「私はこの姿では陸を歩けない。それに、私には海での役目がある」


「役目?」


「他の物語の住人たちを導くこと」

 彼女は説明した。

「海を通って物語の外に出てくる者たちがいるの。私は彼らを助けている」


 グレイは理解した。マリナもまた、自分の新しい物語を生きていたのだ。


「でも、これを持っていってほしい」

 マリナは小さな瓶を取り出した。

 中には青く光る液体が入っていた。夢で見たものと同じだった。


「これは?」

 グレイは恐る恐る受け取った。


「魔女の最後の魔法」

 マリナは説明した。

「必要な時に使って。最も困難な場所で、道を照らすだろう」


「ありがとう」

 グレイは瓶を大切にポケットにしまった。


「もう一つ」

 マリナは言った。

「迷いの森には気をつけて。あそこは物語が混ざり合う場所。自分の物語を見失わないように」


 彼女の警告は重々しく響いた。


 船は再び動き始め、歌う海の中心部を離れようとしていた。

「行かなければ」

 マリナは立ち上がった。

「私の仲間たちが待っている」


「本当にありがとう」

 グレイは心からお礼を言った。

「あなたの助けがなければ、ここまで来られなかった」


 マリナは微笑み、「あなたの物語が幸せな結末を迎えますように」と言った。


 彼女は優雅に海へと飛び込み、水しぶきが虹色に輝いた。

 水面下から、マリナは最後に手を振り、そして深海へと消えていった。


 船は再び進路を取り、歌う海の向こう側を目指して進んだ。

 グレイはマリナからもらった瓶とリボンを見つめながら、新たに得た情報を記録帳に書き留めた。


 五つのリボン。それぞれの物語。そして図書館の扉。

 赤ずきんもまた、どこかで同じ目的を持って旅をしている。


 夕方、彼らは甲板に集まり、今後の計画を話し合った。

「歌う海は明日の昼頃には渡り終える」

 ジェイムズが言った。

「その先は迷いの森だ」


「マリナの警告を忘れないようにしよう」

 ハインリヒが言った。

「物語が混ざり合う場所…危険かもしれない」


「でも進むしかない」グレイは決意を示した。

「赤ずきんも同じ道を通ったはずだから」


 夜、グレイは一人甲板に立ち、星空と海を眺めていた。

 二つの世界の狭間で、彼は自分の物語について考えていた。


 かつては「悪い狼」だった。

 今は「旅人」である。

 そして未来には…何になるのだろう。


 マリナの言葉が心に響いた。

「物語が変わっても、真実は存在し続ける」


 彼はポケットの赤いリボンを握りしめた。

「待っていてくれ、赤ずきん」

 彼は星空に向かって呟いた。

「赤ずきん、僕はあなたを見つける。そして本当の物語を取り戻す」


 船は夜の海を静かに進み、未知の冒険へと彼らを運んでいった。


(つづく)

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