第1話「歌う海の航海」
物語は海のように広く、深い。
その表面には波が立ち、歌が流れる。
しかし、真実は常に深みに潜んでいる。
わたしはその深みを照らし、記録する。
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ヴォーカル湾の朝は、カモメの鳴き声と漁師たちの活気ある声で始まった。グレイたちは早くに起き出し、今日の準備を整えていた。
「正午に東の桟橋でジェイムズさんの船を待つ」
ハインリヒが言った。
「それまでに必要な物資を揃えておこう」
彼らは所持金を確認した。全員の財布を合わせても、長距離航海の料金としては心もとなかった。
「何か交換できるものはないかしら」
ラプンツェルが提案した。
「私の髪の毛は…」
「それはまだ最後の手段として取っておこう」
グレイは彼女を止めた。
「まずはジェイムズさんと話してみよう」
朝食を済ませた後、彼らは港の市場で必要な物資を購入した。乾パン、乾燥果物、燻製肉、飲料水。船旅に必要な基本的な食料だ。それに加えて、グレイは記録帳用の予備のペンとインクも買い足した。
準備を終え、彼らは東の桟橋に向かった。まだ正午には少し早かったが、桟橋の近くのベンチに座って待つことにした。
「歌う海を渡ると、どんな世界が広がっているんだろう」
ラプンツェルが期待を込めて言った。
「地図によれば、迷いの森だな」
ハインリヒが答えた。
「その名の通り、多くの旅人が道に迷う場所だ」
やがて、海の彼方から一隻の船が近づいてくるのが見えた。それは通常の船とは明らかに違っていた。船体は淡い青みがかった白色で、帆も同様の色だった。そして最も奇妙なことに、船自体が微かに光を放っているように見えた。
船が近づくにつれ、不思議な音楽が聞こえてきた。まるで船自体が歌っているかのような、柔らかく美しい旋律。それは歌う海の波音と見事に調和していた。
船は優雅に桟橋に接岸し、一人の男性が甲板から降りてきた。白髪混じりの髭を蓄え、風に焼けた肌をしている。しかし、その目は若々しく、知性と優しさに満ちていた。
「ジェイムズ船長ですか?」
ハインリヒが近づいて声をかけた。
「そうだ」
男性は頷いた。
「そして君たちが、オスカーが言っていた旅人たちか」
「はい」
グレイも前に出た。
「私はグレイ、こちらはラプンツェル、ハインリヒ、エルザ、そしてティモシーです」
ジェイムズは彼らをじっと見つめた。
「物語から来た者たちだな」彼は静かに言った。それは質問ではなく、確信だった。
「はい」
グレイは驚きながらも頷いた。
「どうして…」
「私にも分かる」
ジェイムズは微笑んだ。
「私自身、かつては『宝島』の物語の一部だったからな」
「オスカーから聞いた」
ジェイムズは続けた。
「君たちは図書館を目指しているそうだな」
「はい」
グレイは真剣に答えた。
「物語の真実を知るために」
ジェイムズは彼らをさらに詳しく観察し、やがて決断したように頷いた。
「分かった。君たちを歌う海の向こうまで連れていこう」
「本当ですか?」
ラプンツェルは喜びの声を上げた。
「お金のことは心配するな」
ジェイムズは手を振った。
「物語を探す者同士、助け合うべきだ」
彼らは感謝の言葉を述べ、船に乗り込んだ。
「詩人の夢」は小さな船だったが、五人の旅人と船長、それに若い船員が二人という乗組員で丁度良い大きさだった。
「出航の準備をせよ!」
ジェイムズは船員たちに指示を出した。船員たちは素早く動き、帆を広げ、ロープを解いた。
やがて船は港を離れ、歌う海の広大な青へと滑り出した。岸が徐々に小さくなり、やがて彼らは完全に海に囲まれた。
「さて」
ジェイムズは舵を取りながら言った。
「歌う海の航海には通常、三日ほどかかる。しかし、この『詩人の夢』なら二日で着くだろう」
「この船は特別なんですね」
ラプンツェルが感嘆の声を上げた。
「ああ」
ジェイムズは誇らしげに言った。
「歌う木で作られているからな。海の歌に同調して、より速く進める」
グレイは船の手すりに寄りかかり、広がる海を見つめた。波が美しい音楽を奏でる様子は、陸からよりも船上でより鮮明に感じられた。まるで海全体が一つの大きな楽器のようだった。
「歌う海はな、心の歌を聴くと言われている」
ジェイムズがグレイの横に立って言った。
「人それぞれに違う音色に聞こえるんだ」
「心の歌…」
グレイは繰り返した。
「僕には…少し寂しげだけど、希望に満ちた歌に聞こえる」
「それが君自身の心の反映だろう」
ジェイムズは微笑んだ。
「さて、君たちの物語を聞かせてくれないか?」
グレイは自分の物語を話した。森での生活、赤ずきんの不在、おばあさんの家での発見、そして「図書館へ」と刺繍された赤いリボンのこと。他のメンバーもそれぞれの話を簡潔に語った。
「なるほど、君たちも物語から切り離された者たちだな」
ジェイムズは言った。
「私の物語も途中で変わってしまった。宝島を見つける前に、島そのものが物語から消えてしまったんだ」
「影の書き手の仕業でしょうか?」
ハインリヒが尋ねた。
「そうかもしれない」
ジェイムズは重々しく頷いた。
「彼らの目的は分からないが、多くの物語を書き換えていることは確かだ」
昼食時、皆は船室に集まった。若い船員が用意した簡素な食事だったが、海の上で食べる食事には格別の味があった。
「ジェイムズさん」エルザが食事の途中で尋ねた。
「あなたも図書館を探したことがあるのですか?」
「ああ」
ジェイムズは頷いた。
「何年も前のことだ。私は図書館まで辿り着いたが、中には入れなかった」
「なぜですか?」
グレイは驚いて聞いた。
「図書館には門番がいるんだ」
ジェイムズは説明した。
「そして、入るためには『鍵』が必要だ」
「鍵?」
グレイは思わずポケットを触った。
ローズから受け取った金色の鍵を思い出したのだ。
「物理的な鍵かもしれないし、象徴的なものかもしれない。私にはそれがなかった」
グレイはラプンツェルと視線を交わした。彼らは鍵を持っているのだ。
「それで、その後どうしたのですか?」
ティモシーが尋ねた。
「私は海に戻り、この船を手に入れた」
ジェイムズは言った。
「そして、私のように物語を探す旅人たちを助けることにしたんだ」
午後、海は徐々に変化し始めた。波はより高くなり、色も濃い青から淡い緑へと変わっていった。そして、歌の音色も変化した。より深く、より複雑な旋律になったのだ。
「歌う海の中心部に入ったぞ」
ジェイムズが告げた。
「ここでは海の歌がより強くなる。心を開いて聴くといい」
グレイは甲板の手すりに寄りかかり、目を閉じて歌に耳を傾けた。それは確かに変わっていた。より多くの声が重なり、より豊かな物語を語っているようだった。
不思議なことに、その歌の中に彼は懐かしい森の音を聞いた。木々のざわめき、小川のせせらぎ、そして…誰かの足音。小さな少女の、森の中を走る足音。
「赤ずきん…?」
彼は思わず呟いた。
彼が目を開けると、船の周りの海が光り始めていた。淡い青白い光で、波の一つ一つが星のように輝いている。
「きれい…」
ラプンツェルが彼の横に立って感嘆した。
「これが歌う海の真の姿だ」
ジェイムズが説明した。
「心の記憶を呼び覚ます海。そして、時に未来をも映し出す」
日が暮れるにつれ、海の輝きはますます強くなった。星が満ちた夜空と、星のように光る海。上も下も星で満たされた空間の中を、「詩人の夢」は静かに進んでいく。
夕食後、グレイは一人で甲板に戻り、輝く海を見つめていた。彼の心には多くの疑問があった。赤ずきんはどこにいるのか。なぜ物語は変わってしまったのか。そして、彼自身の本当の役割とは何なのか。
「考え事か?」
振り返ると、ジェイムズが彼に近づいてきた。
「ああ」
グレイは頷いた。
「色々と…」
「海を見ていると、思考が整理されるものだ」
ジェイムズは彼の横に立った。
「ジェイムズさん」
グレイはしばらくして口を開いた。
「物語の外では、私たちは自由に自分の物語を作れるんでしょうか?」
「それは難しい質問だな」ジェイムズは考え込んだ。
「確かに、物語の定められた役割からは解放される。しかし、完全に自由かと言えば…」
彼は言葉を切り、海を指さした。
「見てみろ。あの光の筋を」
グレイは目を凝らした。確かに、海の中に無数の光の筋が走っているのが見えた。それらは複雑に交差し、時に合流し、時に分かれていく。
「あれは物語の糸だ」
ジェイムズは説明した。
「すべての存在は、何らかの物語に繋がっている。私たちが物語の外に出たと思っても、実は別の物語に入っているだけかもしれない」
「では、本当の自由はないのですか?」
グレイは少し落胆した声で尋ねた。
「いや、違う」
ジェイムズは彼の肩に手を置いた。
「自由とは、自分の物語を選ぶことだ。与えられた役割を演じるのではなく、自分で道を選ぶこと。それが真の自由だ」
その言葉に、グレイは深く考え込んだ。彼は「悪い狼」という役割から解放されたが、今は「赤ずきんを探す旅人」という新たな役割を選んでいる。それは彼自身の選択だ。
夜が更け、他のメンバーも休むために船室に戻っていった。グレイも疲れを感じ始め、船室に向かおうとした。
そのとき、海の中から奇妙な声が聞こえてきた。歌う海の旋律とは明らかに違う、人の声のような音色。彼は立ち止まり、耳を澄ませた。
それは歌だった。女性の歌声。言葉は聞き取れないが、どこか悲しく、しかし美しい旋律。
グレイは船の縁に近づき、海中を覗き込んだ。光り輝く波の下に、彼は一瞬、人の姿を見たような気がした。長い髪を漂わせ、魚のような下半身を持つ姿。
「人魚…?」
彼は驚いて呟いた。
その姿はすぐに消え、歌声も遠ざかっていった。幻だったのかもしれない。あるいは、歌う海が見せる幻影か。
グレイは記録帳を取り出し、今日の出来事と見たものを書き留めた。ジェイムズとの出会い、歌う海の不思議、そして最後に見た人魚らしき姿。
船室に戻り、彼はベッドに横になった。揺れる船の感覚は不思議と心地よく、すぐに眠りに落ちた。
夢の中で、彼は海の底を歩いていた。周りは青い光に満ちあふれ、色とりどりの魚たちが泳いでいる。そして彼の前に、一人の人魚が現れた。
彼女の顔は見えなかったが、長い髪と魚のような下半身は鮮明だった。人魚は何かを彼に差し出している。それは小さな瓶。中には光る液体が入っていた。
「これを飲めば、あなたも海に住むことができる」
人魚の声が彼の心に直接響いた。
「でも、僕は海の者じゃない」
グレイは答えた。
「僕は赤ずきんを探している」
「彼女はもうここにはいない」
人魚は言った。
「彼女は泡になった」
「違う!」
グレイは強く否定した。
「彼女は生きている。僕は必ず見つける」
人魚はしばらく黙っていたが、やがて静かに尋ねた。
「なぜそれほどまでに彼女を探すの?」
「それは…」
グレイは言葉に詰まった。
「本当の物語を知りたいから。そして…」
彼は自分の心の奥深くから湧き上がる感情に気づいた。
「彼女に謝りたいんだ。そして…彼女を守りたい」
人魚は微笑んだように見えた。
「明日、答えの一部が見つかるでしょう」
そして夢は霧のように消え、グレイは深い眠りに落ちた。船は夜通し進み、歌う海の中心へと向かっていった。
(つづく)