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忘れられた童話たちは、まだ終わっていない  作者: 水月 りか
第二章:泡にならなかった人魚姫
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第1話「歌う海の航海」

 物語は海のように広く、深い。

 その表面には波が立ち、歌が流れる。

 しかし、真実は常に深みに潜んでいる。

 わたしはその深みを照らし、記録する。


 ーーーーーーーーーーーーーーーー


 ヴォーカル湾の朝は、カモメの鳴き声と漁師たちの活気ある声で始まった。グレイたちは早くに起き出し、今日の準備を整えていた。


「正午に東の桟橋でジェイムズさんの船を待つ」

 ハインリヒが言った。

「それまでに必要な物資を揃えておこう」


 彼らは所持金を確認した。全員の財布を合わせても、長距離航海の料金としては心もとなかった。


「何か交換できるものはないかしら」

 ラプンツェルが提案した。

「私の髪の毛は…」


「それはまだ最後の手段として取っておこう」

 グレイは彼女を止めた。

「まずはジェイムズさんと話してみよう」


 朝食を済ませた後、彼らは港の市場で必要な物資を購入した。乾パン、乾燥果物、燻製肉、飲料水。船旅に必要な基本的な食料だ。それに加えて、グレイは記録帳用の予備のペンとインクも買い足した。


 準備を終え、彼らは東の桟橋に向かった。まだ正午には少し早かったが、桟橋の近くのベンチに座って待つことにした。


「歌う海を渡ると、どんな世界が広がっているんだろう」

 ラプンツェルが期待を込めて言った。


「地図によれば、迷いの森だな」

 ハインリヒが答えた。

「その名の通り、多くの旅人が道に迷う場所だ」


 やがて、海の彼方から一隻の船が近づいてくるのが見えた。それは通常の船とは明らかに違っていた。船体は淡い青みがかった白色で、帆も同様の色だった。そして最も奇妙なことに、船自体が微かに光を放っているように見えた。


 船が近づくにつれ、不思議な音楽が聞こえてきた。まるで船自体が歌っているかのような、柔らかく美しい旋律。それは歌う海の波音と見事に調和していた。


 船は優雅に桟橋に接岸し、一人の男性が甲板から降りてきた。白髪混じりの髭を蓄え、風に焼けた肌をしている。しかし、その目は若々しく、知性と優しさに満ちていた。


「ジェイムズ船長ですか?」

 ハインリヒが近づいて声をかけた。


「そうだ」

 男性は頷いた。

「そして君たちが、オスカーが言っていた旅人たちか」


「はい」

 グレイも前に出た。

「私はグレイ、こちらはラプンツェル、ハインリヒ、エルザ、そしてティモシーです」


 ジェイムズは彼らをじっと見つめた。

「物語から来た者たちだな」彼は静かに言った。それは質問ではなく、確信だった。


「はい」

 グレイは驚きながらも頷いた。

「どうして…」


「私にも分かる」

 ジェイムズは微笑んだ。

「私自身、かつては『宝島』の物語の一部だったからな」


「オスカーから聞いた」

 ジェイムズは続けた。

「君たちは図書館を目指しているそうだな」


「はい」

 グレイは真剣に答えた。

「物語の真実を知るために」


 ジェイムズは彼らをさらに詳しく観察し、やがて決断したように頷いた。

「分かった。君たちを歌う海の向こうまで連れていこう」


「本当ですか?」

 ラプンツェルは喜びの声を上げた。


「お金のことは心配するな」

 ジェイムズは手を振った。

「物語を探す者同士、助け合うべきだ」


 彼らは感謝の言葉を述べ、船に乗り込んだ。

「詩人の夢」は小さな船だったが、五人の旅人と船長、それに若い船員が二人という乗組員で丁度良い大きさだった。


「出航の準備をせよ!」

 ジェイムズは船員たちに指示を出した。船員たちは素早く動き、帆を広げ、ロープを解いた。


 やがて船は港を離れ、歌う海の広大な青へと滑り出した。岸が徐々に小さくなり、やがて彼らは完全に海に囲まれた。


「さて」

 ジェイムズは舵を取りながら言った。

「歌う海の航海には通常、三日ほどかかる。しかし、この『詩人の夢』なら二日で着くだろう」


「この船は特別なんですね」

 ラプンツェルが感嘆の声を上げた。


「ああ」

 ジェイムズは誇らしげに言った。

「歌う木で作られているからな。海の歌に同調して、より速く進める」


 グレイは船の手すりに寄りかかり、広がる海を見つめた。波が美しい音楽を奏でる様子は、陸からよりも船上でより鮮明に感じられた。まるで海全体が一つの大きな楽器のようだった。


「歌う海はな、心の歌を聴くと言われている」

 ジェイムズがグレイの横に立って言った。

「人それぞれに違う音色に聞こえるんだ」


「心の歌…」

 グレイは繰り返した。

「僕には…少し寂しげだけど、希望に満ちた歌に聞こえる」


「それが君自身の心の反映だろう」

 ジェイムズは微笑んだ。

「さて、君たちの物語を聞かせてくれないか?」


 グレイは自分の物語を話した。森での生活、赤ずきんの不在、おばあさんの家での発見、そして「図書館へ」と刺繍された赤いリボンのこと。他のメンバーもそれぞれの話を簡潔に語った。


「なるほど、君たちも物語から切り離された者たちだな」

 ジェイムズは言った。

「私の物語も途中で変わってしまった。宝島を見つける前に、島そのものが物語から消えてしまったんだ」


「影の書き手の仕業でしょうか?」

 ハインリヒが尋ねた。


「そうかもしれない」

 ジェイムズは重々しく頷いた。

「彼らの目的は分からないが、多くの物語を書き換えていることは確かだ」


 昼食時、皆は船室に集まった。若い船員が用意した簡素な食事だったが、海の上で食べる食事には格別の味があった。


「ジェイムズさん」エルザが食事の途中で尋ねた。

「あなたも図書館を探したことがあるのですか?」


「ああ」

 ジェイムズは頷いた。

「何年も前のことだ。私は図書館まで辿り着いたが、中には入れなかった」


「なぜですか?」

 グレイは驚いて聞いた。


「図書館には門番がいるんだ」

 ジェイムズは説明した。

「そして、入るためには『鍵』が必要だ」


「鍵?」

 グレイは思わずポケットを触った。

 ローズから受け取った金色の鍵を思い出したのだ。


「物理的な鍵かもしれないし、象徴的なものかもしれない。私にはそれがなかった」


 グレイはラプンツェルと視線を交わした。彼らは鍵を持っているのだ。


「それで、その後どうしたのですか?」

 ティモシーが尋ねた。


「私は海に戻り、この船を手に入れた」

 ジェイムズは言った。

「そして、私のように物語を探す旅人たちを助けることにしたんだ」


 午後、海は徐々に変化し始めた。波はより高くなり、色も濃い青から淡い緑へと変わっていった。そして、歌の音色も変化した。より深く、より複雑な旋律になったのだ。


「歌う海の中心部に入ったぞ」

 ジェイムズが告げた。

「ここでは海の歌がより強くなる。心を開いて聴くといい」


 グレイは甲板の手すりに寄りかかり、目を閉じて歌に耳を傾けた。それは確かに変わっていた。より多くの声が重なり、より豊かな物語を語っているようだった。


 不思議なことに、その歌の中に彼は懐かしい森の音を聞いた。木々のざわめき、小川のせせらぎ、そして…誰かの足音。小さな少女の、森の中を走る足音。


「赤ずきん…?」

 彼は思わず呟いた。


 彼が目を開けると、船の周りの海が光り始めていた。淡い青白い光で、波の一つ一つが星のように輝いている。


「きれい…」

 ラプンツェルが彼の横に立って感嘆した。


「これが歌う海の真の姿だ」

 ジェイムズが説明した。

「心の記憶を呼び覚ます海。そして、時に未来をも映し出す」


 日が暮れるにつれ、海の輝きはますます強くなった。星が満ちた夜空と、星のように光る海。上も下も星で満たされた空間の中を、「詩人の夢」は静かに進んでいく。


 夕食後、グレイは一人で甲板に戻り、輝く海を見つめていた。彼の心には多くの疑問があった。赤ずきんはどこにいるのか。なぜ物語は変わってしまったのか。そして、彼自身の本当の役割とは何なのか。


「考え事か?」

 振り返ると、ジェイムズが彼に近づいてきた。


「ああ」

 グレイは頷いた。

「色々と…」


「海を見ていると、思考が整理されるものだ」

 ジェイムズは彼の横に立った。


「ジェイムズさん」

 グレイはしばらくして口を開いた。

「物語の外では、私たちは自由に自分の物語を作れるんでしょうか?」


「それは難しい質問だな」ジェイムズは考え込んだ。

「確かに、物語の定められた役割からは解放される。しかし、完全に自由かと言えば…」


 彼は言葉を切り、海を指さした。

「見てみろ。あの光の筋を」


 グレイは目を凝らした。確かに、海の中に無数の光の筋が走っているのが見えた。それらは複雑に交差し、時に合流し、時に分かれていく。


「あれは物語の糸だ」

 ジェイムズは説明した。

「すべての存在は、何らかの物語に繋がっている。私たちが物語の外に出たと思っても、実は別の物語に入っているだけかもしれない」


「では、本当の自由はないのですか?」

 グレイは少し落胆した声で尋ねた。


「いや、違う」

 ジェイムズは彼の肩に手を置いた。

「自由とは、自分の物語を選ぶことだ。与えられた役割を演じるのではなく、自分で道を選ぶこと。それが真の自由だ」


 その言葉に、グレイは深く考え込んだ。彼は「悪い狼」という役割から解放されたが、今は「赤ずきんを探す旅人」という新たな役割を選んでいる。それは彼自身の選択だ。


 夜が更け、他のメンバーも休むために船室に戻っていった。グレイも疲れを感じ始め、船室に向かおうとした。


 そのとき、海の中から奇妙な声が聞こえてきた。歌う海の旋律とは明らかに違う、人の声のような音色。彼は立ち止まり、耳を澄ませた。


 それは歌だった。女性の歌声。言葉は聞き取れないが、どこか悲しく、しかし美しい旋律。


 グレイは船の縁に近づき、海中を覗き込んだ。光り輝く波の下に、彼は一瞬、人の姿を見たような気がした。長い髪を漂わせ、魚のような下半身を持つ姿。


「人魚…?」

 彼は驚いて呟いた。


 その姿はすぐに消え、歌声も遠ざかっていった。幻だったのかもしれない。あるいは、歌う海が見せる幻影か。


 グレイは記録帳を取り出し、今日の出来事と見たものを書き留めた。ジェイムズとの出会い、歌う海の不思議、そして最後に見た人魚らしき姿。


 船室に戻り、彼はベッドに横になった。揺れる船の感覚は不思議と心地よく、すぐに眠りに落ちた。


 夢の中で、彼は海の底を歩いていた。周りは青い光に満ちあふれ、色とりどりの魚たちが泳いでいる。そして彼の前に、一人の人魚が現れた。


 彼女の顔は見えなかったが、長い髪と魚のような下半身は鮮明だった。人魚は何かを彼に差し出している。それは小さな瓶。中には光る液体が入っていた。


「これを飲めば、あなたも海に住むことができる」

 人魚の声が彼の心に直接響いた。


「でも、僕は海の者じゃない」

 グレイは答えた。

「僕は赤ずきんを探している」


「彼女はもうここにはいない」

 人魚は言った。

「彼女は泡になった」


「違う!」

 グレイは強く否定した。

「彼女は生きている。僕は必ず見つける」


 人魚はしばらく黙っていたが、やがて静かに尋ねた。

「なぜそれほどまでに彼女を探すの?」


「それは…」

 グレイは言葉に詰まった。

「本当の物語を知りたいから。そして…」


 彼は自分の心の奥深くから湧き上がる感情に気づいた。

「彼女に謝りたいんだ。そして…彼女を守りたい」


 人魚は微笑んだように見えた。

「明日、答えの一部が見つかるでしょう」


 そして夢は霧のように消え、グレイは深い眠りに落ちた。船は夜通し進み、歌う海の中心へと向かっていった。


(つづく)

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