第13話「眠りの谷の試練」
谷の中央に差し掛かったとき、彼らは不思議な建物を見つけた。
それは大きな木を刳り抜いて作られた家で、窓から温かな光が漏れていた。
「あれは…」
ハインリヒが眉をひそめた。
「前にはなかったはずだ」
「誰か住んでいるんでしょうか?」
ラプンツェルが尋ねた。
「眠りの谷に住む者はいないはずだ」
ハインリヒは首を振った。
「危険すぎる」
彼らは警戒しながらも、好奇心から建物に近づいた。
ドアには「旅人たち、どうぞお入りください」と書かれた看板が掛かっていた。
「罠かもしれない」
エルザが警告した。
「でも、情報が得られるかもしれない」
ティモシーは反論した。
グレイは迷った。
確かに怪しい。しかし、この谷について知ることは、安全に通過するためには重要かもしれない。
「私が先に入ってみます」
彼は決断した。
「一人は危険だ」
ハインリヒが止めた。
「私も一緒に行こう」
グレイとハインリヒは、他の三人に外で待つよう指示し、慎重にドアを開けた。
中に入ると、そこは居心地の良い部屋だった。
暖炉が燃え、テーブルには温かい飲み物と食べ物が並んでいる。
しかし、人の姿はなかった。
「誰かいますか?」
グレイは声をかけた。
返事はなかったが、テーブルの上に一枚の紙が置かれているのに気づいた。
彼はそれを手に取り、読み上げた。
「旅人たちへ
眠りの谷を安全に通るための道案内です。
地図に示された通常の道は現在、影の書き手たちが見張っています。
代わりに東の小道を使いなさい。地図に印をつけておきました。
時間の流れに気をつけて。
—友より」
そして、彼らの持っている地図と同じものに、赤い線で新しい道が描かれていた。
「誰だろう…」
ハインリヒは周囲を見回した。
「アナさんかもしれない」
グレイは考えた。
「それとも…」
彼のポケットの中で、赤いリボンがわずかに温かくなった。
「赤ずきん…?」
彼は思わず呟いた。
二人は家の中をさらに調べたが、他に手がかりは見つからなかった。
ただ、この場所だけは不思議と眠気が薄れ、頭がはっきりしていた。
「他の人たちも呼ぼう」
グレイは提案した。
「ここで少し休憩して、それから新しい道を行こう」
ハインリヒは同意し、外で待っていた仲間たちを中に招き入れた。
皆、この不思議な家に驚きながらも、眠気から解放されて安堵していた。
彼らは食べ物に手をつけるのは避けたが、暖かな部屋で少し体を休めた。
「この地図…信じていいのでしょうか?」
エルザが疑問を呈した。
「他に選択肢がなさそうだ」
ティモシーは言った。
「もし影の書き手たちが通常の道を見張っているなら、彼らに会いたくはない」
「私も同感です」
ラプンツェルが言った。
「この家を用意してくれた人は、私たちを助けようとしているようです」
グレイは赤いリボンを手に取り、じっと見つめた。
「行こう」
彼は決断した。
「東の小道へ」
彼らは新たな情報を元に計画を立て直し、休憩を終えて再び出発した。
家を出ると、再び眠気が襲ってきたが、すでに体が少し慣れてきたようだった。
地図に示された東の小道は、主要な道よりも細く、あまり使われていないようだった。
しかし確かに存在し、彼らはそれに従って進んだ。
道はより森の深くに入り込み、時に急な斜面を上り下りすることもあった。
しかし、確かに人目につきにくい道だった。
「誰が私たちに教えてくれたんだろう」
ラプンツェルが不思議そうに言った。
「味方がいるということだ」
ハインリヒは答えた。
「それだけでも心強い」
彼らは数時間、黙々と歩き続けた。
時計の針は動いているのに、太陽の位置はほとんど変わらない。
時間の流れが遅いという話は本当だった。
やがて、途中で小さな川に出くわした。
水は透明だが、流れはとても遅く、まるで凍りついているかのようだった。
「この川の水は飲んではいけない」
ハインリヒが警告した。
「眠りの水だ。一滴でも飲めば、百年は目覚めない」
彼らは注意深く川を渡った。
幸い、石が飛び石のように並んでおり、水に触れずに渡ることができた。
川を越えると、霧がさらに濃くなった。
視界は数メートル先までしか見えず、道を見失わないよう細心の注意を払って進んだ。
「もう少しで谷の出口だろう」
ハインリヒが言った。
「地図によれば、あと一時間ほどだ」
励ましの言葉に、皆は少し元気づいた。
しかし、その直後、ティモシーが立ち止まった。
「聞こえる?」
彼は囁いた。
「何か…声が」
皆が耳を澄ませた。
確かに、霧の中から囁き声のようなものが聞こえてきた。
言葉は分からないが、どこか懐かしく、心地よい声だった。
「眠りの谷の幻影だ」
ハインリヒが警告した。
「聞いてはいけない。それに応えると、永遠に目覚めなくなる」
彼らは耳を塞ぎ、急いで前進した。
声は次第に大きくなり、より魅力的になっていった。
まるで大切な人が呼んでいるかのような、懐かしく温かな声。
グレイは赤ずきんの声に聞こえた。
ラプンツェルは王子の声だと言い、エルザは妹の声だと言った。
それぞれの心に響く、最も聞きたい声を模倣するようだった。
「急ごう!」ハインリヒが指示した。
「前だけを見て!」
彼らは互いの腕をつかみ、一列になって必死に前進した。
声は次第に遠ざかり、霧も薄くなってきた。
やがて、前方に明るい光が見えてきた。
「谷の出口だ!」
ティモシーが叫んだ。
彼らは残りの力を振り絞って走り出した。
光に向かって、眠りの霧と誘惑の声を振り切るように。
そして、最後の丘を登りきると、彼らの前に新たな光景が広がった。
青く輝く広大な海。それが「歌う海」だった。
波は通常よりも高く、そして不思議なことに、波が打ち寄せる音が美しい旋律のように聞こえた。
まるで海自体が歌っているかのようだった。
「凄く綺麗ね……」
ラプンツェルは感嘆の声を上げた。
彼らは丘の上から海を眺め、全員が安堵のため息をついた。
眠りの谷を無事に通過したのだ。
グレイは記録帳を取り出し、今日の出来事を書き留めた。
アナとの別れ、光の門、眠りの谷の不思議、そして謎の「友」からの助け。
彼の冒険は、日ごとに奇妙で興味深いものになっていった。
「さて、次はどうする?」
エルザが尋ねた。
「歌う海を渡らなければならない」
ハインリヒが言った。
「そのためには船が必要だ」
彼は地図を指さした。
「ヴォーカル湾という港町がある。そこで船を手配できるだろう」
グレイは頷いた。
「じゃあ、そこを目指そう」
彼らは丘を下り、海岸線に沿って西へと歩き始めた。歌う海の旋律が彼らを包み、不思議と疲れが癒されていくのを感じた。海岸線の砂浜は通常の砂ではなく、細かな結晶で覆われていた。
「この結晶が波の音と共鳴して、歌のような音色を奏でるんだ」とハインリヒが説明した。
グレイはポケットの赤いリボンに手を当てた。眠りの谷での不思議な家の記憶が鮮明に残っていた。あの「友」とは誰だったのか。彼はその謎めいた存在に、どこか親しみを感じていた。
「前を見て!」
ティモシーが叫んだ。海岸線の彼方に、小さな町の輪郭が見えてきた。
「あれがヴォーカル湾かもしれない」
太陽が西に傾き始め、海面は黄金色に輝いていた。グレイは決意を新たにした。
「もう少しだ」彼は心の中で呟いた。
「もう少しで図書館へ、そして赤ずきんへ」
彼らは歌う海の歌声に導かれるように、港町へと向かって歩き続けた。
(つづく)




